「独眼竜」の名で知られる伊達政宗。
伊達政宗は織田信長や徳川家康などに次いで人気が高い武将です。
しかし、人気といっても伊達政宗の事績がしっかりと認識されているのかということも気になります。
伊達政宗はゲームやドラマの影響によって有名になったのがほとんどだと思います。
今回は伊達政宗について
- 伊達政宗の代表的な戦とは
- 【逸話】伊達政宗の勝ち戦と負け戦は?
- 【最強伝説】伊達政宗の強さはどれくらい?
をご紹介します。
伊達政宗の代表的な戦とは
代表的な戦い1.小手森城の戦い(19歳) 勝ち
天正13年(1585年)5月に伊達政宗と大内定綱との間で起こった戦いです。
もともと大内定綱は伊達政宗の岳父・田村清顕の家臣でしたが、家臣同士のいざこざから大内定綱は独立します。
その後、蘆名盛氏の働きかけで伊達輝宗も独立を認めます。
- 天正12年(1584年)に伊達政宗が家督を継ぐと、大内定綱に田村氏の傘下に戻るように言います。
- また、同年10月に蘆名家の当主・蘆名盛隆(盛氏の養子、父は二本松盛義)が暗殺
- 蘆名家内で親伊達派が力を失い佐竹家の影響が強くなると、伊達家と蘆名家の同盟関係は終わりを向かえます。
そして、天正13年(1585年)5月、伊達政宗は大内定綱が蘆名氏から支援されているという情報を聞くと、閏8月27日に大内定綱の支城・小手森城を攻撃します。
伊達政宗は自ら最前線で戦い、鉄砲(約八千丁)などで攻撃し、たった1日で城を落とします。
伊達政宗は
- 城主の菊池顕綱をはじめ多くの将兵を殺します。
- 城内にいた女や子どもまでも殺したと言われています。
- その数は1000人(諸説あり)だと伝えられています。
後世には「小手森の城の撫で切り」として語り継がれます。
この戦いは周辺の大名に大きな衝撃を与えます。
代表的な戦い2.人取橋の戦い(19歳) 負けに近い引き分け
天正13年11月17日(1585年1月6日)に伊達家と佐竹家などの南奥州諸大名連合軍との間で起こった戦いです。
- 小手森城の戦いで負けた大内定綱は蘆名家へ逃げます。
- 伊達政宗は大内定綱と婚姻関係にあった二本松義継も攻撃します。
- 伊達政宗は義継の降伏申請を断りますが、伊達輝宗の取りなし(所領安堵)によって義継は降伏を許されます。
しかし、義継は輝宗に助けてもらったのにも関わらず見送りに来た輝宗を拉致します。
この知らせを聞いた伊達政宗は急遽戻って阿武隈川まで追いますが、輝宗の「わしもろとも撃て」という叫び声と同時に伊達政宗は一斉射撃します(これは政宗の計画的謀殺の可能性もあります)。
伊達政宗は父の初7日の法要が終わると弔い合戦のため二本松城に攻めます。
しかし、二本松城救援のために佐竹家・蘆名家・二階堂家などの連合軍が挙兵してきたため、伊達軍は劣勢になります。
そして、11月17日阿武隈川の支流・瀬戸川に架かる人取橋で両軍は激突します。
兵力は連合軍の方が伊達軍の4倍以上でした。
戦いは連合軍の一方的な攻撃によって伊達軍は劣勢になります。
伊達軍は
- 宿老・鬼庭左月が討ち死
- 伊達政宗自身が負傷
と大きな損害を受けた伊達軍でしたが、佐竹軍が同日の夜に撤退したため、伊達軍は壊滅を免れる事となりました。
代表的な戦い3.長谷堂城の戦い(33歳) 引き分け
慶長5年(1600年)に伊達・最上連合軍と上杉軍との間で起こった戦いです。
別名「慶長出羽合戦」や「北の関ヶ原」と呼ばれています。
慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後、権力を握った徳川家康は6月に上洛しない上杉征伐のために会津に出陣します。
しかし、石田三成が挙兵すると徳川軍は反転し関ヶ原へ向かいます。
- 徳川家康は西に石田三成、北に上杉景勝と挟まれる形となりますが、上杉の押さえとして活躍したのが伊達政宗と最上家です。
- 徳川家康の反転によって孤立した最上義光は上杉軍の攻撃に遭います(長谷堂城の戦い)。
- 伊達政宗は最上義光(政宗の伯父)の援軍要請を受けると出陣します。
この時、一家臣は最上家と上杉家の両家の疲弊を狙い出陣を見送るように進言しますが、伊達政宗は「一つは家康のため、一つは山形城にいる母上のため」と言い援軍を送ります。
伊達軍の援軍を得た最上軍は勢いを盛り返し、兵力の差で劣っていながらも善戦します。
そして、関ヶ原の戦いで東軍が勝利したとの知らせが来ると(関ヶ原の戦いから14日後)、上杉軍は撤退します。
上記に書いた戦以外にも有名な戦いでは朝鮮征伐や大坂の陣があります。
【逸話】伊達政宗の勝ち戦と負け戦は?
勝ち戦:摺上原合戦(22歳)
天正17年6月5日(1589年7月17日)に伊達家と蘆名家との間で起こった戦いで、伊達政宗が蘆名家を滅ぼした戦いです。
蘆名氏は16代当主・蘆名盛氏の代が絶頂期でしたが、子と養子が相次いで死に、天正8年(1580年)に盛氏自身が死ぬと後継ぎがいなくなり不安定になります。
そんな中、蘆名家は後継を巡って伊達家と佐竹家から養子を迎える動きを見せます。
- 伊達家からは伊達政宗の弟・小次郎
- 佐竹家からは佐竹義重の次男・義広
を候補とします。
結果、佐竹家から義広を迎えることとなり、伊達家と蘆名家との関係は絶望的になります。
そして、伊達政宗は出兵を決意し天正17年(1589年)4月に出陣します。
蘆名方の武将に寝返り工作をしかけ、両軍は6月5日の明け方に激突します。
この戦いでは天候が勝敗を分ける事になります。
- 開戦当時西から東にかけて強風が吹いていたため、東に陣取っていた伊達軍は砂塵によって目が開けられない状態でした。
- しかし、午後になると風向きが逆になり形勢が逆転します。
- 蘆名軍は総崩れし伊達軍の勝利となりました。
この戦いに勝った伊達政宗は南奥羽を手に入れることになります。
負け戦:大崎合戦(21歳)
天正16年(1588年)2月に伊達軍と大崎・最上連合軍との間で起こった戦いです。
この戦いの原因は、伊達政宗が家督を継いだことと父・輝宗の死によって、同盟関係が解消し伊達家から離反したことから始まります。
- 大崎家は元々伊達家との関係は良好でしたが、天正14年(1586年)に内紛が起こります。
- この内紛に伊達政宗は介入します。
- この行為は豊臣秀吉が出した惣無事令(私戦の禁止)に反する行為でした。
当主となってからの伊達政宗の行動に反感を持った南奥羽の諸勢力や伯父・最上義光が大崎方についたため伊達軍は敗北します(大崎合戦)。
戦は同年5月に政宗の母・義姫(最上義光の妹)の仲介によって停戦となり、7月には和議が成立し伊達政宗は窮地を脱することとなりました。
【最強伝説】伊達政宗の強さはどれくらい?
ここまで伊達政宗が活躍した戦について書いてきました。
伊達政宗は生涯で20回ぐらいの合戦をしますが、そのほとんどが勝利か引き分けで、負けといった戦は前にも書いた大崎合戦ぐらいでした。
しかし、引き分けも多く勝ちきれない戦も多かったのも事実です。
また、戦った敵もこれといって強い大名はいませんでした。
では、伊達政宗の何が強いのか。
伊達政宗は当主となってから勢力の拡大のため戦をたくさんしていきます。
- 当時の東北は多くの大名がおり、互いが親戚関係を築いていたため一つの家だけが強かったということではありませんでした。
- 伊達政宗は親戚の大名を吸収することで東北で巨大化していきました。
- 戦では、戦う前に敵に寝返り工作を仕掛けるなど策略で敵を倒していきます。伊達政宗が本気でぶつかった戦いは人取橋の戦いぐらいです。
伊達政宗は策略や謀略など頭を使うことが上手かったのではないでしょうか。
まとめ 伊達政宗の強さはどれくらいすごい?最強の伝説や逸話とは
ここまで伊達政宗について書いてきましたがいかがでしたか。
まとめてみると
- 伊達政宗は家督を継いですぐに戦を始めた
- 伊達政宗は若いときから軍の指揮を執った
- 伊達政宗は頭を使うことが上手かった
伊達政宗は現在は「過大評価」だという意見が多くあります
理由は
- 戦での勝利数は多いものの敵が弱かった。
- 弱い者に強く、強い者に弱い(豊臣秀吉や徳川家康)。
- 「独眼竜」は明治時代につけられた(本人は片目が嫌だった)。
が原因です。
これらは1987年の大河ドラマ『独眼竜政宗』の影響が大きく、それまでの伊達政宗はマイナーな武将でした。
今ではゲームやドラマで人気なのもありメジャーな武将となりました。
ある意味、有名にしてもらった武将なのかもしれません。
最後に内政と外交について少し書きたいと思います。
- 伊達政宗は内政面では川や運河を開拓し仙台藩の石高を72万石までにし、江戸中期では100万石にまでなったと言われています(1700年代)。
- また、外交面でも1613年に支倉常長をイスパニア(スペイン)に送りました。これは日本人が初めてヨーロッパに行ったという大変大きな功績となりました。
これらは大いに評価していい事なのではないでしょうか。
作品は大河ドラマでは『独眼竜政宗』、本では大泉光一さんが書いた『暴かれた伊達政宗「幕府転覆計画」ヴァティカン機密文書館史料による結論』がオススメです。
以上、「伊達政宗の強さはどれくらいすごい?最強伝説や逸話とは」でした。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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