天下人徳川家康が恐れた戦国武将といえば真田昌幸です。
真田昌幸は「表裏比興(卑怯)の者」と呼ばれ、知略や武勇で真田家を守ってきました。
今回は真田昌幸について
- 真田昌幸の代表的な戦とは
- 【逸話】真田昌幸の勝ち戦と負け戦は?
- 【最強伝説】真田昌幸の強さはどれくらい?
を紹介します。
こちらを読めば真田昌幸の戦いや強さがわかりますよ。
ぜひ読んでみてください。
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真田昌幸の代表的な戦いとは?
真田昌幸の代表的な戦い:天正壬午の乱
北条家への帰順
天正10年(1582年)6月2日本能寺の変によって織田信長が亡くなると、旧武田領(甲斐・信濃・上野)は徳川家・北条家・上杉家の奪い合いとなります(天正壬午の乱)。
真田昌幸は織田家家臣・滝川一益の下にいましたが、織田信長の死を知った織田家家臣たちは孤立します。
真田昌幸はこの機に乗じ信濃国小県郡(ちいさがたぐん、現在の上田市)や佐久郡(現在の佐久市)で旧武田家臣をまとめて小県郡の砥石城に移ります。
6月19日、相模の北条氏直が上野国に侵攻し滝川一益を破ります(神流川の戦い)。
負けた滝川一益は伊勢国へ帰ることを決め、真田昌幸は滝川一益を諏訪まで送ります。
その後、真田昌幸は主がいなくなった上野国の沼田城を奪還し、長男・真田信幸を岩櫃城(いわびつじょう)に置き上野方面の守備を強化します。
6月24日、越後国の上杉景勝が北信濃に侵攻してくると、真田昌幸は1度は上杉家に従いますが、7月9日に領土拡大や本領安堵の事を考え北条家へ帰順します。
徳川家への寝返り
北条家の家臣となった真田昌幸は7月12日に川中島へ進軍し上杉軍と対峙します。
しかし、この時に徳川家康が甲斐に侵攻したため北条軍は甲斐へ向かいます。
真田昌幸は上杉軍への備えとして北条軍の殿軍を務めます。
一方、上杉軍は自国領で反乱が起きたため8月9日に越後へ戻ります。
上杉軍が撤退すると真田昌幸は沼田城へ戻ります。
9月25日に佐久郡で北条家へ抵抗していた旧武田家家臣・依田信蕃(よだのぶしげ)から徳川家への寝返りを働きかけられ、真田昌幸は突如として徳川家へ寝返ります。
真田昌幸は北条軍の補給ルートを遮断し小県郡根津城を攻撃します。
真田昌幸の寝返りを知った北条家は10月に沼田城を攻撃しますが真田家臣・矢沢頼綱が撃退します。
10月29日、北条家は沼田城攻略失敗をきっかけに徳川家と和睦します(天正壬午の乱の終結)。
しかし、和睦の条件が沼田領の北条家への譲渡だったことに真田昌幸は反発します。
天正壬午の乱の終結後、真田昌幸は徳川家・北条家と敵対していた上杉家へ近づきます。
【逸話】真田昌幸の勝ち戦と負け戦は?
真田昌幸の勝ち戦:上田合戦
第一次上田合戦
天正13年(1585年)、上田城を巡り真田軍と徳川軍との間で起こった戦いです。
天正12年(1584年)に徳川家康が羽柴秀吉と戦うため尾張に出兵すると(小牧長久手の戦い)、真田昌幸はこの隙を狙って沼田・吾妻・小県を掌握します。
同年12月に羽柴秀吉と和議を結んだ徳川家康から北条家との約束を果たすために、沼田領を北条家に引き渡すように求められます。
真田昌幸はこの要求を拒否し徳川家と手を切り、次男・真田信繁(真田幸村)を上杉家に人質として送り上杉家に従属します。
この真田昌幸の行動に対し徳川家康は真田討伐のため上田へ侵攻します(第一次上田合戦)。
両軍の兵力は
- 真田軍が2千人
- 徳川軍が7千8百人
と真田軍の方が劣勢でした。
天正13年(1585年)、閏8月2日徳川軍は上田城を攻撃します。
兵力の差で圧倒的に不利であった真田軍は野戦ではなく上田城に籠城します。
真田昌幸は上田城に敵が侵入してきても応戦しようとせず、徳川軍は二の丸まで制圧します。
真田軍に戦意が無いと思った徳川軍は本丸まで攻めますがここで真田昌幸が動きます。
真田軍は徳川軍の側面を別働隊が攻撃します。
徳川軍は油断していたため大混乱となり後退します。
また、上田城の外からは砥石城にいた長男・真田信幸隊が待ち構え挟撃します。
徳川軍は総崩れとなり退却しますが、真田軍は上田城近くを流れていた神川まで追撃し、神川を渡った徳川兵は溺死するものが多くいました。
両軍の被害は徳川軍1300程度に対して真田軍は40人程と真田軍が圧倒的勝利となりました。
この後は豊臣秀吉の介入によって沼田領の代替地として箕輪領を得て、徳川家の与力大名となります。
第二次上田合戦
慶長5年(1600年)、徳川家康と石田三成の間で関ヶ原の戦いが起こります。
真田昌幸は西軍方に味方し上田城にいました。
そこへ美濃へ行くために東山道を徳川秀忠(家康の3男)率いる徳川軍が来ます。
その道中にあったのが真田家の居城・上田城でした。
両軍は慶長5年(1600年)9月に激突します。
両軍の兵力は
- 真田軍が3千人
- 徳川軍が3万8千人
と真田軍は10倍以上の敵と戦うことになります。
真田昌幸は徳川軍から降伏勧告を受けていたため応じる構えを見せていましたが、実際は戦の準備をしていました。
これにより徳川軍は攻撃を開始しますが、第一次上田合戦での反省を活かして上田城ではなく砥石城を攻めます。
この砥石城には東軍についた長男の真田信幸が攻めてきました(正室は本多忠勝の娘)。
一方、砥石城を守っていたのは次男の真田信繁でした。
真田昌幸は真田兵同士の殺し合いを回避するため真田信繁に上田城へ撤退するように言います。
徳川軍はあっさりと砥石城を落としましたが、これは徳川軍を油断させる真田昌幸の策で徳川軍を分断させることに成功します。
徳川軍は上田城の本丸まで攻めてきましたが、またしても真田昌幸の罠にはまり背後と側面を別働隊・真田信繁勢に攻撃されます。
徳川軍が退却を開始すると真田軍は追撃します。
徳川軍はやっとのことで神川まで到着し渡り始めます。
しかし、真田軍が神川の上流に築いていたダムを崩壊させ渡っていた徳川兵を濁流が襲います。
徳川秀忠は撤退を命令し関ヶ原へ向かいます。
真田昌幸は徳川軍の攻撃を退き戦には勝ちましたが、関ヶ原の戦いで西軍が負けたことで真田昌幸と真田信繁は処罰されることになります。
真田昌幸の負け戦:甲州征伐
元亀4年(1573年)武田信玄の亡き後、後継いだ武田勝頼は天正3年(1575年)に長篠の戦いで大敗北(信玄時代の重臣が多く戦死)してしまいます。
この時、真田昌幸の兄2人が戦死したため真田家の当主となります。
長篠の戦いで負けた武田家は上杉家と同盟を結ぶなど体勢を立て直しますが、駿河や信濃では織田・徳川に脅かされていました。
そして、天正10年(1582年)2月織田信長は甲州征伐に動きます。
織田軍は信濃方面から徳川軍は駿河方面から攻めてきました。
武田軍は開戦当初からまとまりが無く敵に寝返るものが多くいました。
特に木曽義昌(正室は武田信玄の3女)と穴山梅雪(正室は武田信玄の次女)の寝返りは武田家内部に大きな衝撃をあたえます。
同年2月28日に信濃国伊那郡の高遠城が陥落すると一気に武田家は崩れていきます。
ちなみに、高遠城(城主は信玄の5男仁科盛信)だけが本気で織田軍と戦ったと言われています。
3月に入ると武田家内部で武田勝頼の避難場所をどこにするか話し合われます。
- 真田昌幸は上野国の岩櫃城への避難を進言
- 小山田信茂は甲斐国郡内の岩殿城への避難を進言
話し合いの結果、武田勝頼は小山田信茂の岩殿城への避難を決めます。
これには小山田氏が譜代家臣であったことや、勝頼側近の長坂光堅(ながさかみつたか)の主張であったからだという話もあります。
真田昌幸は岩櫃城へ行きますが、武田勝頼は岩殿城へ行く途中に小山田信茂に裏切られ、最後は天目山で自害し武田家は滅亡します。
真田昌幸は武田家を守ることができず、以後は本能寺の変を経て天正壬午の乱へと突入していきます。
【最強伝説】真田昌幸の強さはどれくらい?
真田昌幸の強さ1.父・真田幸隆の謀略と主君・武田信玄の戦術
真田昌幸の謀略は父・真田幸隆から受け継がれます。
真田幸隆は武田家家臣となるとその才能を発揮し、真田家を武田家の重臣にしました。
特に武田信玄が落とせなかった村上義清の砥石城を真田幸隆は謀略で内部から崩し落とします。
一方、真田昌幸は3男だったため7歳で武田家の人質となりますが、武田信玄は真田昌幸を奥近習として側に置きます。
武田家の大事な会議や軍議を側で聞いていた真田昌幸は自然と武田信玄の戦術を取り入れていきました。
これが将来真田軍の戦術として活かされました。
真田昌幸の強さ2.居城・上田城
上田城は真田家の居城として知られていますが、上田城は真田昌幸が徳川家康を騙して建築しました。
上田城を建築し始めたのは天正11年(1583年)で天正壬午の乱が終わった後でした。
この時、真田昌幸は徳川家康に従っていました。
乱は終結していましたが徳川家と北条家の敵であった越後の上杉家とはまだ緊張状態にありました。
そこで真田昌幸は徳川家康に上杉を抑える要所として上田城(この時は松尾城)築城の資金を援助してもらいます。
しかし、わずか2年後に真田昌幸は上杉家へ寝返り、徳川軍は自ら出資した上田城を相手に戦い負けてしまいます。
ちなみに現在残っている上田城は江戸時代に再建されたものです。
まとめ 真田昌幸のおすすめ作品や本。大河ドラマ
ここまで真田昌幸について紹介していましたがいかがでしたか。
まとめてみると
- 真田昌幸は天正壬午の乱で次々と主君を変えた
- 真田昌幸は上田合戦で2度も徳川軍を撃退した
- 真田昌幸の知略と戦術は父の真田幸隆と主君の武田信玄から受け継いだ
オススメ作品
- 2016年に放送された大河ドラマ『真田丸』
- 1985年に放送された大型時代劇『真田太平記』
がオススメです。
本では
- 南原幹雄さんの『謀将真田昌幸 上下巻』
- 火坂雅志さんの『真田三代 上下巻』
がオススメです。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
以上、「真田昌幸の強さはどれくらいすごい?最強の伝説や逸話とは」でした。
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