豊臣秀吉は織田信長亡き後、事実上天下をとった人物であることは多くの人がご存知でしょう。
信長からサルと呼ばれていた貧しい草履番と言えばもっと多くの人が知ってるってなりそうですね。
そのサルが英知を活かしてどんどん出世したんです。
豊臣秀吉はどんな活躍をしたのか、生涯をみてみましょう。
- 豊臣秀吉の生い立ち
- 豊臣秀吉の経歴やその強さ
- 豊人柄や性格のわかるエピソードは?
これを読むと、豊臣秀吉の生い立ちや経歴、人柄などが色々と分かっちゃいます。
豊臣秀吉の作品を読むのが楽しくなること間違いなしです。
豊臣秀吉の生い立ちとは?
豊臣秀吉は1537年に尾張国愛知郡(現在の名古屋市)で生を受けました。
父は木下弥右衛門という足軽で、母はなかといいます。
- 父の弥右衛門は織田信長の父 信秀の鉄砲足軽で、戦さのない時は農業で暮らしを支えていました。
- それでもかなり貧乏だったようで、秀吉自身も薪割りをしそれを売っていました。
- 秀吉7歳の時父が戦さの傷が元で亡くなります。
母のなかは、竹阿弥という人と再婚しましたが、秀吉はこの義父とうまくいかず、虐待まで受けていました。
かなり早い再婚ですね。でもそうしないと家族が生きて行けなかったのでしょうね。
義父に嫌われた秀吉は尾張の光明寺という寺に入れられます。
秀吉はその寺を10歳になった頃飛び出します。
- 侍になってやろうと思っていました。
- それでも最初は土豪の家で奴婢として働きました。
- そこで主人から商人になることを勧められて、商人となります。
その後、15歳の時今川家の家臣である松下加兵衛之綱に拾われて草履番をするようになります。
次第に秀吉はその実力で出世をして行くのですが、それを妬んだ者たちからいじめられます。
可哀想に思った之綱は秀吉を実家へ戻すのでした。
豊臣秀吉の経歴や強さは?
1554年 秀吉は織田家に仕えます。
草履番からやり直しでしたが、秀吉は信長の草履を懐で温めたという有名なエピソードのおかげでかなり信長の気をひくことに成功していました。
1561年秀吉はおね(ねねとも言われている)と結婚します。
- 秀吉の一目惚れだったようですが、最初この結婚は反対されました。
- それでもおねが押し切って一緒になれたのでした。この時代に珍しく大恋愛の末の結婚だったのですね。
- あっ、この頃はまだ秀吉ではなく、木下藤吉郎って名前でした。
1565年には自分の部下に知行地を与えているので、秀吉自身はかなり出世していたと思われますね。
その後はあの軍師として有名な竹中半兵衛も部下に加えています。
1566年織田信長は美濃攻めを始めます。この時墨俣(すのまた)一夜城建設に携わり功績を挙げました。
1570年信長は越前国の朝倉義景を攻めますが、金ヶ崎のあたりで浅井長政の裏切りにあい背後から襲われます。
- 朝倉軍と浅井軍に挟まれた窮地の中、秀吉は池田勝正や明智光秀とともに殿(しんがり)を務め、見事に信長を逃したのでした。
- これが金ヶ崎の退き口と呼ばれるもので、信長の信頼をより深く得た活躍となりました。
- 殿は命がけの役目なので無事やり遂げた秀吉は褒められて当然ですね。
その後姉川の戦い、小谷城の戦いで浅井長政を追い込み自刃させています。
この頃秀吉は名前を羽柴秀吉に変えました。
ここで長浜城主となり、一国一城の主に上り詰めたのでした。
1575年武田勝頼との長篠の戦いや、松永久秀と戦った信貴山城の戦いなどで次々と武功を挙げていきました。
それでもまだ秀吉の進軍は止まりません。次に命令されたのは中国地方の攻略です。
黒田官兵衛も協力してどんどん中国地方を落としていきました。
しかし1582年本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれました。
- これを聞いた秀吉は中国地方から取って返して、山崎の戦いで明智光秀を破っています。
- 翌年にはやはり信長に仕えた柴田勝家と賤ヶ岳の戦いで争いこれにも勝利しています。
- 織田家の相続を巡っての争いでしたが、柴田勝家は秀吉が恋い慕っていた信長の妹お市の方を嫁にもらっていましたから、気に食わないというのも一因になったといえます。
もう秀吉を止めるものはいないというくらいの強さです。
そして1583年には大阪城を建てました。大友宗麟に「三國無双の城である」と言わせた豪華な城でした。
1585年には関白に任ぜられます。一方で四国攻めをし長曾我部元親を破り四国を平定したのでした。
1586年には太政大臣となり、名前も「豊臣秀吉」に改名しています。
- 翌年には島津義久を破り九州を平定しました。
- この時キリスト教への強制的な改宗や神社仏閣の破棄などポルトガル人の横行が発覚したため、秀吉はバテレン追放令を出しました。
- また農民の一揆を防ぐために「刀狩令」を出し、農民から武器を取り上げました。
1589年側室淀君との間に鶴松が生まれました。大喜びの秀吉は鶴松を後継者とします。しかしこの鶴松はわずか2歳で亡くなってしまうのでした。
そのため甥の秀次を養子として関白の座を譲るのでした。
さて近畿、中国、九州と平定した秀吉は次に関東を目指します。
1590年北条氏政、氏直を破り関東も手に入れました。
そして東北地方の大名を家臣にし、ついに天下統一がなされたのです。
日本を手に入れた秀吉は、次は朝鮮を目指します。
1592年朝鮮出兵をしますが思うように成果を上げられません。
- その翌年淀君が2人目の子供を産みます。後の豊臣秀頼です。
- このため甥の秀次に日本の5分の4を、残る5分の1を秀頼に譲るつもりでしたが、秀次は疑心暗鬼になり心を病んでいきました。
- そのうちに秀次に謀反の疑いがかけられ、申し開きも聞き入れられず切腹を言い渡されました。
秀次の子供も側室や侍女たちも処刑されてしまうのでした。切ないお話です。
秀吉は、1597年再度朝鮮出兵を行うのですが、この頃から病がちになっていました。
そして秀頼の後見人として徳川家康ら家臣に釘をさしました。
そして1598年ついに伏見城で亡くなりました。
享年61歳でした。死因についてはガンであったとか、脚気だったとか定かにはなっていません。
豊臣秀吉の人柄や性格の面白いエピソード
- 女好きのハゲネズミ
- 秀吉には6本指があった
- 秀吉の性格は天下を取る前と後では大違い
秀吉はおねと大恋愛の末結婚したのにも関わらず、女好きであちこちの女性にちょっかいを出します。
ある日おねが信長に泣きついたことがあります。この時信長は秀吉を「ハゲネズミ」と言って叱りました。
あれ「サル」だけじゃなく「ネズミ」でもあったのですね。しかもハゲた。
豊臣秀吉は多指症でした。指が6本あったのです。
- 信長からは「6つ目」と呼ばれています。
- 秀吉は天下人になってからその事実を隠そうとしました。ですから長い間その事実は隠されてきたので知らない人が多いのです。
- 若い時は隠そうとしなかったのに、天下を取ってから見えを張ったのでしょうか。
豊臣秀吉は天下を取る前と、取った後からで変わりました。
- 天下を取るまでは、人懐っこい陽気な性格でした。
- 天下を取ってからは、身内にさえ冷徹な性格となっています。
- なぜこんなにも変わってしまったのでしょうか。
天下人というものが秀吉を変えてしまったのか、それとも元々冷酷なところを隠し持っていたのか謎ですね。
まとめ 豊臣秀吉はどんな人?わかりやすいおすすめ作品
豊臣秀吉の生い立ちや経歴についてエピソードを加えてお伝えしました。
百姓という低い身分から、徐々に実力で天下人にまでなった豊臣秀吉の生涯はいかがでしたか。
- 彼には生まれ持っての才能と天運があったのだと言えるでしょう。
- それを大いに利用し天下統一を成し遂げたのです。
- 豊臣家は秀吉亡き後、徳川家康によって滅ぼされてしまいましたが事実上最初の天下人は豊臣秀吉その人なのです。
小説
- 「新書太閤記」 吉川英治
豊臣秀吉の半生を描いた作品です。1939年から1945年まで読売新聞に連載されていましたが小牧長久手の戦いで中断しています。
その後この本を原作としたドラマが作られています。
- 「新史太閤記」 司馬遼太郎
百姓から成り上がっていく秀吉の壮年期を描いたものです。
- 「秀吉ー夢を超えた男」 堺屋太一
秀吉の生涯を描いた一冊。後に大河ドラマに採用されています。
ドラマ
- 「秀吉」 NHK大河ドラマ 主演 竹中直人
堺屋太一の原作を大河ドラマに起用したもので、秀吉の生涯を描いています。
- 「太閤記 サルと呼ばれた男」 フジテレビ 主演 草彅 剛
秀吉の半生を、松下嘉兵衞が門下生に聞かせるという設定でドラマが進んでいます。
人気の草彅剛を登用したことで注目されました。
以上、豊臣秀吉の生い立ちや性格などエピソードが詰まった作品を紹介しました。
読みたい一冊が見つかるはずです。
コメント