長宗我部元親の性格と実在の経歴は?生い立ちやエピソードが面白い

テレビアニメ「学園BASARA」が10月からスタートしました。

アニメ「戦国BASARA」を元ネタとした学園パロディで、様々な歴史人物が登場しています。

このアニメの中で登場する長宗我部元親はBASARA学園の番長で「アニキ」と慕われる人物です。

では実在した長宗我部元親は一体どのような人物であったのでしょうか。

「アニキ」と呼ばれるような番長であったのかも気になりますね。

今回はそんな長宗我部元親の

  • 生い立ち
  • 経歴
  • 性格
  • エピソード

をご紹介いたします。

これを読めば、長宗我部元親の生い立ちや経歴、性格やエピソードを知ることができますよ。

 

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【実在】長宗我部元親の生い立ちとは?

長宗我部元親は天文8年(1539年)現在の高知県である土佐国の岡豊城にて誕生します。

父は長宗我部国親、母は美濃斎藤氏の娘で、長宗我部家の長男として誕生しました。

元親は幼い頃

  • 色白
  • 大人しい
  • ぼんやりとした性格

このような子供であったため周囲からは姫若子と呼ばれていました

父・長宗我部国親は元親が跡取りになれるのか心配していたとされています。

永禄3年(1560年)5月、元親が23歳の時、父・長宗我部国親が土佐郡朝倉城主の本山氏を攻めた長浜の戦いにおいて初陣を迎えます

23歳の初陣とは他の武将と比較すると、遅いものでした。

この戦いにおいて周囲から姫若子と呼ばれていた元親は家臣・秦泉寺豊後から槍の使用方法と大将の行動を聞くと、しっかり聞いたことを実践し、敵軍を崩すことができました。

このことから元親は鬼若子と称賛されると、戦後には元親の武名は高まるようになります

その後の潮江城の戦いにおいても、元親は実力を発揮し、姫若子と呼ばれていたことが嘘のように活躍を果たしました。

永禄3年(1560年)6月、父・長宗我部国親が亡くなると、長男であったため元親が家督を継ぐこととなります。

土佐国を統一

長浜戦で敗れた本山茂辰は長宗我部軍の攻撃に押される形となりました。

永禄3年(1560年)末には元親は現在の高知市の西南部の一端を除いて支配下に置きます

永禄4年(1561年)3月、本山茂辰を朝倉城と吉良城に追い込むと土佐国司で公家大名の一条氏と協力し永禄5年(1562年)9月16日に朝倉城攻めを行いました。

本山茂辰の兵からは長宗我部軍に寝返る者が続出し、本山茂辰は永禄6年(1563年)1月、朝倉城を放棄し本山城に籠ります。

同年、元親は美濃斎藤氏から正室を迎え自身の弟である長宗我部親貞を土佐吉良氏の婿養子とさせます。

5月になると、本山茂辰は元親の居城である岡豊城を攻めてくるも失敗に終わり、永禄7年(1564年)4月7日に本山城を放棄し瓜生野城に籠り始めました。

しかし、この戦い最中、本山茂辰は病死していしまったため本山茂辰の息子・親茂が継ぐも永禄11年(1568年)冬に降伏し、元親は土佐中部を平定することができました。

その後

  • 永禄12年(1569年)の八流の戦いで安芸国虎を滅ぼし、土佐東部を平定する
  • 元亀2年(1571年)一条氏の家臣・津野氏を滅ぼすと自身の三男・親忠を津野勝興の養子に送り込む
  • 天正2年(1574年)2月、一条家の内紛に介入し、一条兼定を追放すると一条兼定の嫡男・一条内政に自身の娘を嫁がせます。

このようにして土佐国のほとんどを統一した元親は、天正3年(1575年)に一条兼定が土佐国に攻めてきた際、一時窮地に追い込まれるも、弟・吉良親貞の助けのもと四万十川の戦いで一条兼定を突破し、土佐国を完全に統一することとなります。

長宗我部元親の経歴。最後や死因は?

土佐国を統一した元親が次に目を付けたのは

  • 阿波国
  • 讃岐国
  • 伊予国

でした。

この頃、元親は織田信長と同盟関係を結びます。

信長の正室が斎藤氏の斎藤道三の娘であり、また元親の正室も斎藤氏の斎藤利三の異父妹・石谷光政の娘であったことから、同盟関係が結ばれたとされています。

阿波国、讃岐国の制圧を行う

阿波国、讃岐国を元親が侵攻する前、畿内において大勢力であった三好氏は信長に敗れ、衰退していました。

しかし、その三好氏の生き残りである十河存保や三好康長などは阿波国、讃岐国で抵抗を行っており、また天正4年(1576年)に弟・吉良親貞が亡くなったことから、なかなか元親は阿波国、讃岐国を攻略することができませんでした。

しかし、天正5年(1577年)に三好長治が亡くなると、三好氏の活動は衰え始め、天正6年(1578年)2月、元親は阿波国白地城を侵攻し、大西覚養を討ちました。

この頃、元親は次男・親和を讃岐国の有力豪族であった香川信景に養子として送り込みます。

一方、阿波国では三好長治の実弟・十河存保と三好康俊が抵抗をしていましたが、天正7年(1579年)夏に重清城を奪って十河軍に勝利となります。

三好康俊に対しては三好康俊の子供を人質としてとり、降伏させました。

こうして元親は天正8年(1580年)までに阿波国、讃岐国の制圧を成し遂げます。

信長との対立がおきる

残る伊予国の制圧は

  • 伊予国・南予地方では長宗我部軍の久武親信が天正7年(1579年)春に戦死し平定ならず
  • 伊予国・東予地方では金子元宅や妻鳥友春、石川勝重らを味方し平定
  • 伊予国・中予地方では伊予守護の河野氏は毛利氏とともに元親に抵抗し、平定ならず

このようなことから伊予国の平定は長期化となりました。

四国平定を進めていた元親ですが、同盟関係であった信長は、元親の四国平定に対しあまりよく思いませんでした。

そこで信長は天正8年(1580年)、元親に土佐国と阿波南半国のみを所有し、自身の家臣となるよう迫ります。

この要求に対し元親は拒否すると、信長と対立関係となりました。

こうして、天正9年(1581年)3月、元親と敵対していた三好康長、十河存保が信長を味方につけ反撃を仕掛けてきました。

天正10年(1582年)5月、信長は自身の三男・神戸信孝を総大将とした元親討伐を目的とした四国攻撃軍を編成します。

これに恐れた長宗我部軍の三好氏旧臣たちは、三好康長に寝返り、また天正10年(1582)5月、阿波国の一宮城と夷山城が落とされるといった危機が迫ります。

このような危機的状況を迎えた元親は、斎藤利三に信長に従う意向を示した手紙を送りました。

元親討伐のために信長が編成した四国攻撃軍は、同年6月2日に四国に向けて渡海する計画でしたが、信長はその日に明智光秀から謀反を起こされ自害しました。(本能寺の変)

こうして本能寺の変によって信長が亡くなったことで、四国攻撃軍は解体、衰退し、元親は危機的状況から逃れることとなりました。

 

秀吉との対立がおきる

信長が亡くなったことによって、畿内は混乱状態となっていました。

この混乱状態を利用し、元親は再び勢力拡大を行います

天正10年(1582年)9月、宿敵・十河存保を破り、阿波国を平定しました。

信長亡き後、豊臣秀吉と柴田勝家が争った天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、柴田勝家に味方します。

秀吉は家臣・仙石秀久を淡路洲本にいれ、元親の攻撃に備えました。

  • 秀吉の家臣・仙石秀久は長宗我部軍方の城である、屋島城、高松城を攻めるも失敗
  • 秀吉の家臣・小西行長の水軍が香西浦に攻めるも失敗

秀吉の軍は長宗我部方の城や香西浦を落とすことができませんでしたが、4月に柴田勝家が秀吉に敗れてしまいました。

天正12年(1584年)の秀吉と、織田信雄や徳川家康のある争いである小牧・長久手の戦いにおいても、元親は織田信雄、徳川家康に味方し、またしても秀吉に対抗しました。

この戦いにおいて秀吉の家臣・仙石秀久の軍勢を破ります。

同時に

  • 伊予国・南予地方の西園寺公広の諸城を落とし、伊予国南予地方でも勢力を拡大する
  • 十河城を落とし、讃岐国を平定する

などを行いました。

小牧・長久手の戦いは秀吉と信雄が和睦したため終結となりました。

四国平定を成し遂げる

伊予国で勢力を広めていた元親でしたが想像以上に伊予国の平定は時間がかかりました。

しかし、天正12年(1584年)12月に伊予守護の河野氏が元親に降伏すると、天正13年(1585年)春までに西予の豪族も降伏させ、ついに四国平定を成し遂げました。

元親の四国平定について、天正13年(1585年)までに四国平定を成し遂げたとされていますが、一方で、平定されていない。と主張する学者もいます。

天正13年(1585年)春、秀吉が紀州を平定すると、元親に対して伊予国、讃岐国を返納するよう命じます。

これに対し、元親は伊予を割譲することで解決させようとしましたが、秀吉は許さず、自身の弟・羽柴秀長を総大将とした元親討伐軍が編成されました。

秀吉によって行われたこの四国攻めは

  • 讃岐国に家臣の宇喜多秀家、黒田孝高の軍勢
  • 伊予国に小早川隆景、吉川元長率いる毛利勢
  • 阿波国に羽柴秀長、羽柴秀次の兵

を派遣します。

この秀吉の攻撃によって讃岐国、伊予国、阿波国の長宗我部方の城は落とされ、元親は同年7月25日に降伏しました。

降伏した元親は讃岐国、伊予国、阿波国を没収され土佐国のみとなります。

その後、元親は上洛し秀吉の家臣となりました

秀吉の家臣となった元親は

  • 天正14年(1586年)、九州征伐に参加
  • 天正16年(1588年)、本拠地を大高坂城へ移転
  • 天正18年(1590年)、小田原征伐で水軍を率いて参加
  • 文禄元年(1592年)、文禄・慶長の役に参加

します。

慶長3年(1598年)8月18日、秀吉が亡くなると同年の年末まで伏見城にいた元親でしたが、翌年の正月になると土佐国へと戻りました。

しかし、慶長4年(1599年)3月頃から体調を崩し始めたため、4月に病気療養のため伏見城へと向かいます。

この際、秀吉が見舞いに訪れた記録が残されています。

5月にはいると重病となり、一向に回復せず5月19日に亡くなりました

61歳であったとされています

【エピソード】長宗我部元親の人柄や性格が分かる逸話

元親は幼い頃、ひ弱な性格や、色白の見た目から姫若子と呼ばれていました。

しかし、初陣の長浜の戦いの際は、巧みな槍使いと勇敢に敵軍に立ち向かう姿から鬼若子と賞賛されます。

そんな元親はどのような性格であったのでしょうか。

元親の性格が分かるこのような逸話が残されています。

  • 阿波国の白地城主の大西覚養が三好方に寝返った際、元親のもとにいた人質の大西覚養の甥を殺すことなく優遇し、また長宗我部方にいた三好康長の子・康俊が父の誘いを受け寝返った際も、人質であった康俊の子を殺さず、優しく送り出したという記録が残されています。
  • また、秀吉の家臣となった元親が、秀吉の舟遊びに参加し秀吉から饅頭を渡された際、他の大名は饅頭を食べたのに対して、元親は饅頭を少しちぎって食べるだけで、あとは紙に包みました。

それを見た秀吉は、饅頭をどうするのか。と尋ねたところ元親は、太閤殿下から頂いたありがたい饅頭なので、家臣たちに分け与えます。と返したとされています。このような返答をした元親を気に入った秀吉は、たくさんの饅頭を持って帰らせたという逸話が残されています。

このような逸話から元親は優しい性格であったことが分かります。

その他にも、面白い逸話として、元親は家臣たちに「一芸に熟達せよ。多芸を欲ばる者は巧みならず」といい、領内での飲酒を禁じていたにも関わらず、自身は酒をこっそりと領内に持ち込み、これに気づいた家臣・福留儀重に厳しく注意された。という逸話も残されています。

まとめ 長宗我部元親はどんな人?basaraよりかっこいい?

長宗我部元親の生い立ち、経歴、性格、エピソードのご紹介でした。

簡単にまとめると

  • 幼いころは姫若子と呼ばれていた。
  • 四国統一をした
  • 秀吉と対立するも、降伏したため家臣となった
  • 優しい性格の持ち主であった

長宗我部元親は長年に渡って四国平定を行ってきた人物でした。

しかし、最後は秀吉に攻められ家臣となると、せっかく統一した伊予国、讃岐国、阿波国は没収となります。

そんな長宗我部元親が登場しているのは現在放送中のアニメ「学園BASARA」です。

このアニメの中で長宗我部元親は「アニキ」と慕われる学園番長として登場しています。

実際の長宗我部元親は幼少期、色白で大人しい性格をしていたとされていますが、アニメの中の長宗我部元親は学園番長ですので全く大人しそうなキャラクターではありませんね。

かっこいいキャラクターとして登場していますが、残念ながら実際、長宗我部元親が美男子であったといった記録は残されていません。

これを機に長宗我部元親に興味を持った方はアニメ「学園BASARA」を見てみてください。

以上「長宗我部元親の性格と実在の経歴、生い立ちやエピソード」のご紹介でした。

 

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