あなたは細川忠興をご存知でしょうか。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった有力武士に仕えた人物で、明智光秀の娘である細川ガラシャを正室に迎えました。
あまり有名な人物ではないので、知らない人は多いかと思います。
そこで今回、細川忠興について調べてみることにしました。
すると、細川忠興は妻を愛しすぎるヤンデレ夫だということがわかりました。
そんな細川忠興の
- 生涯
- 性格
- おもしろいエピソード
- 死因
についてご紹介いたします。
これを読めば、細川忠興の生涯や性格、死因などを知ることができますよ。
これで終いかぁ! 徳川兵に真の武士はおらんのかぁ!
真田幸村(第49回「前夜」より)#真田丸#真田丸を忘れない pic.twitter.com/cdIG6syAtx— 麗木士門@歴史モン (@rekishi_mon2015) 2018年12月8日
細川忠興の生い立ちと生涯
細川忠興は永禄6年(1563)11月13日に細川藤孝(幽斎)と沼田麝香から京都で誕生しました。
父の細川藤孝は室町幕府第13代将軍・足利義輝に仕えていました。
永禄8年(1565)に室町幕府第13代将軍・足利義輝が
- 三好長逸
- 三好政康
- 岩成友通
の三好三人衆、三好義継、松永久通によって殺害されると、父・細川藤孝と明智光秀は、織田信長を頼って第15代将軍に足利義昭を擁立させます。
しかし、その織田信長と足利義昭が対立関係となると、父・細川藤孝は織田信長に味方するのでした。
その際、忠興も信長の嫡男・信忠に仕えるようになります。
忠興は父と共に織田家に仕え、初陣を迎える
織田家に仕えるようになった忠興は天正5年(1577年)3月、15歳の頃に初陣を迎えました。
忠興の初陣となったのは織田信長と豊臣秀吉による紀州征伐でした。
初陣を飾った後、忠興は信貴山城の戦いで父・細川藤孝、明智光秀とともに大和片岡城を落としたことによって信長から感状を与えられます。
忠興は明智光秀の娘と結婚する
天正6年(1578年)に忠興は元服を迎えました。
この年の8月には、信長の勧めによって明智光秀の三女・玉子(のちの細川ガラシャ)を正室に迎えました。
このとき、忠興15歳、玉子も15歳だったとされています。
玉子は絶世の美女と称されるほどの容姿の持ち主で、また忠興も美男であったことから、美男美女の夫婦だったとされています。
こうして玉子を正室に迎えた忠興は、その後、天正7年(1579年)父と義父となった明智光秀とともに、建部山城城主・一色義道を滅ぼし、父は翌年、丹後南半国の領主となりました。
本能寺の変が起きたため、妻・玉子を幽閉させる
天正10年(1582年)これまで、ともに戦ってきた義父の明智光秀が主君である信長に謀反を起こし、信長は亡くなります。(本能寺の変)
この本能寺の変の際、明智光秀は忠興と父・藤孝を味方につけようとしましたが、忠興と父・藤孝はこの誘いを断りました。
この義父である明智光秀の誘いを拒否した忠興は妻・玉子を丹後国の味土野で幽閉させました。
しかも、2年間も玉子を幽閉したとされています。
忠興が自身の妻である玉子を幽閉させた理由として
-
玉子が明智光秀の娘であったため、逆臣の娘として命を襲われることを恐れ、幽閉させた。
-
明智光秀の娘であったことから、細川家の中では忠興と玉子を離婚させ、玉子を細川家から追い出すべき。という声があったため、
-
玉子と離れたくない一心で玉子を幽閉した。
このような推測がされています。
明智光秀の娘であったことから命を狙われる確率は高いですが、2年間の幽閉は長すぎます。
玉子が幽閉されている間に明智光秀は、本能寺の変から13日後、山崎の戦いで戦死してしまいます。
その後、忠興は一色家旧臣を攻め滅ぼし、丹後一国の平定を成し遂げまし、主君を失った忠興は豊臣秀吉に仕えるようになります。
織田信長亡き後、忠興は豊臣秀吉に仕える
豊臣政権下に入った忠興は天正12年(1584年)豊臣秀吉による小牧・長久手の戦いに参加し豊臣秀吉の子飼いの七将に数えられるようになります。
この秀吉の子飼い七将とは秀吉に貢献した7人の武将を指す言葉です。
この秀吉の子飼七将は忠興の他に
- 福島正則
- 加藤清正
- 池田輝政
- 浅野幸長
- 加藤嘉明
- 黒田長政
があげられます。
その後
- 天正15年(1587年) 九州征伐
- 天正18年(1590年) 小田原征伐
- 文禄元年(1592年) 文禄の役
に参加しました。
慶長3年(1598年)秀吉が亡くなると、亡き秀吉の政権を乗っ取ろうとしていた徳川家康とそれを阻止する石田三成が対立を起こします。
忠興は、家康に味方し慶長4年(1599年)
- 加藤清正
- 福島正則
- 加藤嘉明
- 浅野幸長
- 池田輝政
- 黒田長政
とともに三成の屋敷を襲撃に加わるも、この襲撃は失敗に終わります。
関ヶ原の戦いを迎え、忠興は東軍に味方する
こうして迎えた慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは家康からの誘いもあって東軍に味方します。
しかし
- 戦いの最中、大阪城内にある細川屋敷にいた妻・玉子が、三成によって襲撃される
- 三成は玉子に西軍の人質となるように脅迫しましたが、玉子はこれを拒否し、屋敷に火をつけて自害する
と悲しい出来事が起こります。これまでに、妻・玉子はキリストの洗礼を受けていました。
キリスト教では、自害が禁止されているため、家臣に自身を殺害するように頼み、屋敷に火をつけ亡くなったとされています。
この関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わり、忠興は首級136を上げたとされています。
その後、忠興は
- 慶長7年(1602年) 小倉城の大規模改修に関わる
- 小倉藩初代藩主
となります。
【逸話】細川忠興の死因と最後。
関ヶ原の戦いが終わり、徳川家康の政権が始まりました。
慶長16年(1611年)忠興は伏見城にいる家康に会いに京都へ向かいましたが、持病で倒れてしまいます。
家康は忠興が持病を持っていたことを知っていたため本多正純を通して漢方薬を渡したとされて、忠興は、家康にもらった漢方薬に興味を持ち、お抱え医師の玉弥とともに自ら漢方薬を作っていたという記録が残されています。
その後、慶長20年(1615年)大阪夏の陣に参加するも持病が悪化したため元和6年(1620年)に三男の忠利に家督を譲り隠居しました。
隠居し、出家した忠興は三斎宗立と名乗り、八代城に入ります。
こうして正保2年(1645年)12月2日、83歳で亡くなりました。
健康管理に気を使っていた忠興
忠興は癪の持病を持っていました。
この時代の癪という病気は胆石症、胃痛、虫垂炎などの内臓疾患のことをさします。
忠興がどのような内臓疾患に苦しんでいたのかは分かりませが、持病を持っていたことから自身の息子・忠利には、偏食はせず、バランスの取れた食事をするように忠告していたとされています。
また息子・忠利も病気を患っており、息子・忠利は肺炎ではないかと心配していましたが、忠興は忠利の症状が癪か痰が原因である。と判断し、忠利に命に別状はないから、安心しろ。といった手紙を送りました。
自身が持病を抱えていたため、健康管理にはとても気を使っていたのです。
細川忠興の性格がわかるエピソード
細川忠興は明智光秀の娘・玉子と結婚しました。
忠興は絶世の美女とされる玉子をとても愛しており、その愛情表現は異常なまでだったとされています。
ここで、忠興の異常なまでの玉子に対する愛情をご紹介いたします。
-
2年間もの間、玉子を幽閉する。しかし、玉子にとって長い幽閉生活は大きなストレスだったようです。
-
庭師が玉子に会釈しただけで、忠興は嫉妬し、庭師を殺害する。
-
朝鮮出兵中、忠興は何通も玉子に手紙を送る。玉子が秀吉に見初められそうになっていたため、その手紙の内容は秀吉の誘惑に乗らないようにと注意するものだった。
-
玉子をキリスト教に誘った侍女の鼻を斬り落とす
-
関ヶ原の戦いの際、玉子は自害して亡くなったのに対して、嫡男の妻が生きていたことに腹を立て、嫡男・忠隆と離婚するよう迫る
玉子に対する忠興の強烈な愛情表現をご紹介いたしましたが、忠興は今で言うヤンデレであったことが分かります。
また、もともと忠興は短気な性格であったとさています。
家臣が失敗事をした際、怒った忠興は家臣36人を殺害します。
この時、使用していた刀を殺害した36人の数から平安時代の和歌集「三十六歌仙」にあやかって「歌仙兼定」と名付けました。
このような恐ろし過ぎる逸話から忠興は、短気な性格の持ち主で、過剰すぎるほど妻を愛していたことが分かります。
まとめ 細川忠興のドラマは?
細川忠興の生涯、性格、逸話のご紹介でした。
簡単にまとめると
- 父と明智光秀とともに織田家に仕える
- 明智光秀の娘・玉子を正室に迎える
- 信長亡き後は豊臣家に仕える
- 関ヶ原の戦い以降は持病に悩まされる
- 健康に気を使っていた
- 妻への愛情が過激すぎる
- 短気な性格の持ち主
細川忠興は、織田家、豊臣家、徳川家に仕えた人物でした。
しかし、その性格は短気で、妻を過剰なまでに愛していた人物でした。
ここまで、愛される玉子は、本当に美人だったのではないでしょうか。
そんな細川忠興が登場する有名な作品はNHK大河ドラマ「真田丸」です。
「真田丸」では
- 細川忠興役を矢柴俊博さん
- 細川ガラシャ役を橋本マナミさん
- 明智光秀役を岩下尚史さん
が演じられました。
絶世の美女であった細川ガラシャを橋本マナミさんが演じられるのは納得ですね。
これを機に、細川忠興について興味を持った方はNHK大河ドラマ「真田丸」を見てみてください。
以上「細川忠興の性格と生涯の逸話、死因と最後のエピソード」のご紹介でした。
コメント