織田信長に謀反を起こした明智光秀の正室・妻木煕子をご存知でしょうか。
明智光秀との間に授かった子供は3男4女とされています。
そのうちの1人である三女・細川ガラシャは石田三成によって自害に追い込まれた女性として有名な人物です。
信長に謀反を起こした明智光秀の妻・妻木煕子はどのような女性であったのでしょうか。
今回は妻木煕子の
- 人生
- 結婚
- 子供のエピソード
この3つをご紹介いたします。
妻木煕子の生い立ち。明智光秀と結婚するまで
妻木煕子は享禄3年(1530年)頃に誕生しました。
- 『細川家譜』
- 『美濃国諸旧記』
- 『妻木系図』
これらの史料によると、父は妻木範熙とされています。
光秀の妻となり明智煕子に。結婚と子供について
天文14年(1545年)頃に明智光秀の正室に迎えられました。
光秀に嫁ぐ前、煕子は天然痘を患っており、美人とされた顔に痘痕が残ってしまいました。
これに対し、煕子の実家・妻木家は光秀との縁談を潰したくなかったため、顔に痘痕の残ってしまった煕子ではなく、煕子に似た妹・芳子を光秀に嫁がせようとします。
しかし、光秀は煕子の妹を正室に迎えることを拒み、人の容貌はすぐ変わるが、心の美しさは変わらない。と言って煕子を正室に迎えたとされています。
夫となった光秀は弘治2年(1556年)に起きた斎藤道三と斎藤道三の嫡男・斎藤義龍との間で行われた長良川の戦いに参加します。
この戦いで、夫・光秀は斎藤道三に味方しました。
しかし、嫡男の斎藤義龍が勝利したため、夫・光秀は本拠を失ったため浪人となってしまいます。
今でいう無職ということです。
夫・光秀が無職になってしまったことによって明智家は質素な生活となりました。
そんな時、夫・光秀は連歌会を開くこととなりました。
光秀主宰の連歌会なので、主催者である夫・光秀は連歌会に訪れた参加者に接待しなければなりません。
しかし、質素な暮らしをしていたので、そのようなお金はありませんでした。
そこで、煕子は夫・光秀が連歌会で恥をかかないよう、自慢の黒髪を売って資金を集め、その資金で、酒や料理を出し、参加者をもてなしました。
夫・光秀のためを思い自慢の髪を売った煕子に夫・光秀は大変感謝し、煕子が亡くなるまでの間、側室を持たなかったとされています。
浪人となった夫・光秀でしたが、越前国の朝倉義景を頼り約10年、朝倉家に仕え、その後、足利義昭と織田信長の両属の家臣となりました。
夫・光秀が信長の家臣となった時、家臣から明智光秀の妻は美人だ。と聞かされた信長はすぐさま煕子を呼び寄せます。
その際、信長は物陰に隠れ、登城してきた煕子を見ると煕子の美しさのあまり、抱きついてしまった。という逸話が残されています。
看病疲れ又は自害によって妻木煕子は亡くなる
天正4年(1576年)夫・光秀は石山本願寺との天王寺の戦いに参加した後、5月23日に過労のため体調を崩します。
そのため煕子は夫・光秀の看病を行いました。
そのかいあってか、夫・光秀が7月には体調は回復したとされています。
体調を崩した光秀を懸命に看病していた煕子でしたが、その後、まもなく亡くなってしまいます。
その死因として
- 同年11月7日に、煕子は夫・光秀の看病疲れによって亡くなった。
- 天正10年(1582年)夫・光秀が山崎の戦いで敗北し坂本城へ帰る道中、百姓によって殺害されたことを知ると、煕子は坂本城で落城する前に自害した。
とされています。
あまり史料のない女性であったので、死因も詳しく判明していません。
煕子は46歳または42歳、36歳で亡くなったとされています。
煕子は夫・光秀との間に3男4女の子供が誕生しました。
しかし、煕子の子供についての史実はあまり残されておらず、未だ不明な点が多くあります。
煕子と光秀の間に誕生した子供の中でも唯一史料が残されているのは、長男・光慶と三女・細川ガラシャくらいです。
【エピソード】明智煕子の逸話や子供のその後は?
煕子は夫の光秀が浪人となった際、自慢の美しい髪を売って、そのお金で光秀に恥をかかせないよう連歌会で酒や料理を客人にふるまいました。
この逸話から煕子は夫思いの優しい女性であったことが分かります。
とても史料の少ない女性ですので、逸話はあまり残されていません。
また煕子の子供の中、唯一史料の残されている長男・光慶と三女・細川ガラシャですが、その中でも長男・光慶については史料も少なく、いつ生まれたのかも分かっていません。
- 父・光秀が主君・織田信長に謀反を起こした(本能寺の変)と知ると、その無道を嘆きその場で亡くなった。
- 坂本城にいた光慶は父・光秀が山崎の戦いに敗北し、その帰りの道中で討たれると、坂本城は中川清秀、高山右近から攻撃を受け、落城する前に母・煕子と一族とともに自害した。
このような光慶の死因が推測されています。
三女の細川ガラシャは、永禄6年(1563年)に誕生しました。
細川忠興に嫁ぎ、その後、キリスト教の洗礼を受け、ガラシャという洗礼名が与えられます。
関ヶ原の戦いの際、敵軍である西軍の石田三成によって大阪城下にあった細川屋敷に襲撃されると、細川ガラシャは自害しました。
慶長5年(1600年)7月17日に亡くなったとされています。
煕子の三女である、細川ガラシャはとても美しい顔立ちであったとされています。
煕子も美人であったとされていることから、細川ガラシャの美しい容貌は煕子から受け継いだものなのでしょう。
まとめ 明智煕子はどんな人?出演ドラマや本など
妻木煕子の人生、明智光秀との結婚、子供のエピソードのご紹介でした。
妻木煕子について簡単にまとめると
- 妻木煕子の史料はあまり残されていない。
- 明智光秀の正室となった。
- 明智光秀が浪人となった際、自身の髪を売った。
- 看病疲れ、又は自害によって亡くなった。
- 3男4女の子供を授かるも、唯一史料に残されているのは長男・光慶と三女・細川ガラシャだけであった。
- 妻木煕子は夫思いであった。
妻木煕子はあまり史料の残されていない女性でした。
江戸時代に活躍した有名な松尾芭蕉は、妻木煕子が光秀のために黒髪を売った。という逸話を好んでいたとされ、妻木煕子のことを思い「月さびよ 明智が妻の 咄せん」と詠ったとされています。
そんな妻木煕子が登場する有名なNHK大河ドラマは「功名が辻」です。
- 妻木煕子役を女優の烏丸せつこさん
- 明智光秀役を坂東三津五郎さん
- 織田信長役を舘ひろしさん
が演じられました。
またフジテレビ系列のドラマ「明智光秀〜神に愛されなかった男〜」では
- 妻木煕子役を長澤まさみさん
- 明智光秀役を唐沢寿明さん
- 織田信長役を上川隆也さん
が演じられています。
これを機に妻木煕子に興味を持ったという方はNHK大河ドラマ「功名が辻」を見てみてください。
以上「明智光秀の奥さん妻木煕子の人生や結婚、子供のエピソード」のご紹介でした。
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