山内一豊の性格や経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い

あなたは山内一豊と呼ばれる戦国武将をご存じでしょうか。

2006年に放送されたNHK大河ドラマ「功名が辻」で主人公として山内一豊が登場していたので知っているという方も多いかと思います。

山内一豊は豊臣秀吉の小大名として仕えていましたが、関ヶ原の戦いにおいて功績を残し、土佐一国の領主となり大出世を果たしました。

その大出世の裏には、妻・見性院の内助の功があったとされています。

 

そんな山内一豊の

  • 生い立ち
  • 経歴
  • エピソード
  • 妻・見性院との関係性

についてご紹介いたします。

 

これを読めば山内一豊の生い立ちや経歴、妻・見性院とのエピソードについて知ることができますよ。

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山内一豊の生い立ちとは?家族や兄弟、父親や子供は?

山内一豊は戦国時代にあたる天文14年(1545年)または天文15年(1546年)に

  • 父・山内盛豊
  • 母・法秀尼

の三男として尾張国(愛知県西部)の岩倉(現在の岩倉市)で誕生しました。

 

後に山内一豊は浅井氏家臣の若宮友興の子・見性院を正室を迎えます。

 

2人の間に長女・与祢が誕生するも、6歳で亡くなり、その後は子供に恵まれず

  • 湘南宗化
  • 忠義
  • 乾和信室

を養子に迎えることとなりました。

 

父と兄を亡くす

一豊の父・山内盛豊は尾張上四郡を支配していた守護代・岩倉織田氏の重臣として仕えていたとされています。

 

当時、岩倉織田氏の当主は織田信安であり、父・山内盛豊は家老として仕えていました。

 

かの有名な織田信長と一豊の父・山内盛豊が仕えていた織田信安は別流であり

  • 織田信安は織田大和守家の出身
  • 織田信長は織田弾正忠家の出身

とされています。

 

織田信長と織田信安は、織田信長の父・織田信秀の代で縁戚関係を結んでいたこともあり比較的良好な関係を築いていましたが、信長の父・織田信秀が亡くなってからは疎遠関係となります。

 

やがて一豊の父・山内盛豊が仕える岩倉織田氏は織田弾正忠家の出身の織田信長と対立関係となりました。

 

そんな中、弘治3年(1557年)黒田城に信長方の盗賊が襲撃します。

 

この際、一豊の兄・十郎は信長方の盗賊に殺害され、また永禄2年(1559年)になると岩倉城も信長方に襲撃を受け落城となりました。

 

岩倉城が落城すると父・山内盛豊は討死もしくは自刃したとされ、父と当主を失った山内家は離散し、一豊は諸国を放浪することとなります。

 

山内一豊の生涯と最期。死因や経歴は?

父や兄を失い諸国を放浪した一豊は

  • 苅安賀城主・浅井新八郎(政貞)
  • 松倉城主・前野長康
  • 美濃国牧村城主・牧村政倫
  • 近江国勢多城主・山岡景隆

に仕えたとされています。

 

織田信長の配下となる

様々な城主に仕えていた一豊でしたが、最後に仕えていた近江国勢多城主・山岡景隆が織田信長に逆らい出奔したため、一豊は永禄11年(1568年)頃から信長の配下に入ったとされています。

 

ちょうど永禄11年(1568年)頃という時期は駿河・遠江・三河の三国を制した今川義元と尾張を支配する織田信長との対立である桶狭間の戦いが勃発した時期にあたります。

 

この時、一豊は23歳、24歳。

父・山内盛豊と兄・十郎を信長方によって殺害された一豊でしたので、複雑な心境であったのではないでしょうか。

 

豊臣秀吉に仕える

信長の配下に入った一豊は信長の家臣であった木下秀吉(後の豊臣秀吉)の家人として仕えたとされています。

 

こうして信長の配下に入った一豊でしたが、未だ初陣を迎えていませんでした。

 

そんな中、元亀元年(1570年)9月、姉川の戦いが勃発します。

 

この戦いが勃発する少し前の、永禄10年(1567年)9月または永禄11年(1568年)早々、信長の妹・市が近江の浅井長政のもとに嫁ぎました。

 

今川義元、また南近江の有力大名である六角義賢を破った織田信長は、足利義昭を奉じ上洛を果たします。

 

その後、信長は越前の朝倉義景らにも上洛を要求しますが、越前の朝倉義景は上洛を拒み、信長と対立関係へと発展しました。

 

実は越前の朝倉義景は信長の妹・市が嫁いだ浅井長政と同盟関係であったため、朝倉義景は浅井長政に対し信長には反旗を翻すよう要求します。

 

しかし、浅井長政にとって信長は妻・市の兄にあたる人物。

 

いくら同盟国の頼みとはいえ、義兄を裏切ることはできません。

 

ですが、苦渋の決断の上、浅井長政は同盟国に味方し信長に反旗を翻すのでした。

 

こうして行われた織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍による姉川の戦いは一豊にとって初陣となったのです。

 

初陣となった姉川の戦いは、織田・徳川連合軍の勝利となりました。

 

この戦いにおいて一豊は敵将・三段崎勘右衛門を討ち取るなどの功績を残し近江国浅井郡唐国(現在の長浜市唐国町)で400石を与えられます。

 

この間、時期は不明ですが浅井氏家臣の若宮友興の子・見性院と婚約したとされています。

 

また天正4年(1576年)までの間に、一豊は豊臣秀吉の直臣になったという記録も残されています。

 

天正10年(1582年)6月2日、織田信長が家臣・明智光秀によって討たれ亡くなります

 

それによって信長の後継者を決定する会議が清州城で行われました。

 

かの有名な清須会議です。

 

この清須会議において

  • 豊臣秀吉は三法師(のちの織田秀信)を
  • 柴田勝家は信長の三男・織田信孝を

信長の後継者として推薦します。

 

しかし、この後継者の決定を巡って豊臣秀吉、柴田勝家の間で対立が生じ、天正11年(1583年)4月、賤ヶ岳の戦いが勃発しました。

 

一豊はその賤ヶ岳の戦いの前哨である伊勢亀山城攻めで一番乗りの手柄を挙げ、また翌年の天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いにおいても数々の功績を残しました。

 

豊臣秀次に仕える

このような功績が与えられ出世した一豊は、豊臣秀吉の政権下の中で秀吉から離れ、秀吉の甥にあたる関白・秀次の補佐役を務めるようになります。

 

その際

  • 田中吉政
  • 堀尾吉晴
  • 中村一氏
  • 一柳直末

らも補佐役をになったとされています。

 

天正13年(1585年)近江八幡に秀次が転封となると、一豊らも近江国へと共にし、長浜城主として2万石が与えられました。

 

その後も

  • 天正18年(1590年)小田原征伐に参戦
  • 朝鮮の役で出兵を免れたものの軍船の建造や伏見城の普請などを担当

し、豊臣秀吉政権を支えました。

 

しかし文禄4年(1595年)一豊が補佐をしていた秀吉の甥・秀次が豊臣秀吉に謀反の疑いをかけられ、切腹を命じられます。

 

これによって秀次は亡くなってしまったのですが、補佐役であった前野長康と渡瀬繁詮も事件の責任をとるといった形で、死に追い込まれました。

 

慶長3年(1598)年8月、豊臣秀吉が亡くなります。

 

この頃になると信長に続き、秀吉が亡くなると再び権力争いが勃発し、徳川家康が天下取りに動き出しました。

 

徳川家康に仕える

秀吉が亡くなったその翌年の慶長5年(1600年)、一豊は豊臣政権の五大老であった徳川家康に従い上杉景勝討伐に参加していました。

 

一方で秀吉亡き後、石田三成は秀吉の後継者の座を狙っていました。

 

石田三成は徳川家康らが上杉景勝討伐を行っている最中、大阪にて挙兵を行います。

 

そのため多くの武将たちは

  • 秀吉の後継者となる石田三成(西軍)
  • 天下統一を目指す徳川家康(東軍)

このどちらに味方するか悩み始めます。

 

多くの武将がどちらに味方すべきか悩む中、一豊は誰よりも早く徳川家康に自分の居城である掛川城を提供すると伝え、東軍に味方するということを表明しました。

 

こうして、慶長5年(1600年)9月15日

  • 徳川家康率いる東軍
  • 毛利輝元・石田三成率いる西軍

による関ヶ原の戦いが勃発したのです。

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By User LordAmeth on en.wikipedia

 

一豊は関ヶ原の戦いの前哨戦である河田島村と米野村での戦いにおいて、西軍である岐阜城主・織田秀信の軍勢を破るなどの功績を残したとされています。

 

関ヶ原の戦いは結果、東軍・徳川家康の勝利に終わり、一豊は戦後、西軍・東軍どちらに味方すべきか悩んでいた諸侯の多くを徳川加担に向かわせたとして評価されることとなり、土佐国一国・9万8,000石が与えられ、土佐一国の領主となりました。

 

主君を失い諸国を放浪していた一豊でしたので、土佐一国の領主になったということは大出世を果たしたということです。

 

土佐一国の領主となる

こうして一豊は慶長6年(1601年)、掛川から土佐に移封となり浦戸城に入城します。

 

しかし、浦戸城に入城する際、土佐の国の旧領主・長宗我部氏の遺臣達が新たな領主・山内一豊に対し反発を起こし、旧領主・長宗我部氏の復活を要求するなどの紛争が土佐国内で多く勃発しました。

 

これに対し一豊は重要な役職に有益な長宗我部旧臣を登用するなどをし、旧領主・長宗我部氏の遺臣達の不満を抑えたとされています。

 

こうして旧領主・長宗我部氏の遺臣達の不満が収まったところで高知城を築城し、城下町の整備にあたりました。

 

しかし、土佐一国の領主となった慶長6年(1601年)から4年後の慶長10年(1605年)、一豊は高知城において61歳で病死しました。

 

【エピソード】山内一豊の人柄や性格が分かる逸話

山内一豊は

  • 太り気味
  • 目が少し赤い
  • 温和な性格
  • 自分の事はあまり話さない
  • 諸士に対して情け深い
  • 礼儀正しい
  • 常に穏やかな言葉を使い、部下に優しく、口数は少ない
  • 戦場に行くと、大声で叱咤する
  • 食事作法が美しい
  • 酒は盃に2、3杯を限度とする

といった記録が『一豊公御伝記』に残されています。

 

そんな一豊は時期は不明ですが浅井氏家臣の若宮友興の子・見性院を正室に迎えたとされています。

 

非常に仲のいい夫婦であったとされ、多くの逸話が残されています。

 

その中でも有名なのが、妻・見性院は夫・一豊が欲しがっていた馬を手に入れるため、自身のへそくりで馬を購入したところ、主君・織田信長の馬揃えの際にその馬が信長の目に留まり、それによって一豊は加増されたという逸話が残されています。

 

また妻・見性院は自身の美しい髪を売って、夫・一豊の築城監督の経費を補ったという逸話も残されております。

 

このように妻・見性院が夫・一豊に対して行ってきた行いは、結果的に一豊の出世に繋がっていったため、一豊が大出世をできたのは妻・見性院のおかげ、妻・見性院の「内助の功」があったからとされています。

 

そんな一豊と見性院は子供に恵まれませんでした。

 

しかし、一豊は側室をつくろうとはしなかったとされています。

 

鰹のたたきの起源

高知といえば、鰹のたたきが有名ですよね。

 

そんな鰹のたたきは山内一豊が考案したものとされています。

 

土佐一国の領主として高知城を築城した一豊は、城下町の整備にも専念しました。

 

その際、一豊は領民に対し食中毒を予防するため生ものは加熱して食べるよう呼びかけたとされています。

 

その中でも、鰹に関しては刺身で食べることを禁じました。

 

そのため領民は鰹の表面をあぶり、刺身ではないとし表面をあぶった鰹を食べるようになったとされています。

 

この逸話が鰹のたたきに起源とされているのです。

 

まとめ 山内一豊のドラマや映画や小説はある?

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By 不明 – 東京大学史料編纂所, パブリック・ドメイン, Link

山内一豊の生い立ちや経歴、妻・見性院との逸話などをご紹介いたしました。

 

簡単にまとめると

  • 信長の配下に入ったのち、秀吉、家康に仕える
  • 大出世し土佐一国の領主となる
  • 大出世は妻・見性院の「内助の功」があってこそであった
  • 妻・見性院と非常に仲が良かった
  • 山内一豊の考案によって鰹のたたきが誕生

 

山内一豊は妻・見性院の「内助の功」のおかげ大出世を果たした人物でした。

非常に仲がよかったとされる2人の逸話は、第二次世界大戦以前の日本において教科書に取り上げられていたとされています。

 

そんな山内一豊が登場する有名な大河ドラマは「功名が辻」です。

功名が辻(大河ドラマ)のストーリーあらすじと感想。面白い作品なのか評判は?

この作品では

  • 山内一豊を俳優の上川隆也さん
  • 見性院を女優の仲間由紀恵さん
  • 織田信長を俳優の舘ひろしさん
  • 豊臣秀吉を俳優の柄本明さん
  • 徳川家康を俳優の西田敏行さん

が演じられています。

 

また

  • 鯨統一郎さんの小説『山内一豊の妻の推理帖』
  • 橋田壽賀子さんの小説『旦那さま大事 山内一豊の妻』

などにも山内一豊は登場しています。

 

これを機に山内一豊に興味を持った方は大河ドラマ「功名が辻」、小説『山内一豊の妻の推理帖』『旦那さま大事 山内一豊の妻』を見てみてください。

 

以上「山内一豊の性格や経歴はどんな人?生い立ちやエピソード」のご紹介でした。

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