あなたは支倉常長(はせくら つねなが)という人物をご存知でしょうか。
主君・伊達政宗の命令でフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロとともに、慶長遣欧使節団を率いて欧州へと渡った人物です。
ローマを訪れた際、ローマ市から公民権が与えられ、貴族の称号も授与されました。
つまり、支倉常長はアジア人として唯一無二のローマ貴族であるということです。
では支倉常長とは一体どのような人物であったのでしょうか。
今回は支倉常長の
- 生い立ち
- 経歴
- 性格
- エピソード
をご紹介いたします。
これを読めば支倉常長の生い立ちや経歴、性格やエピソードを知ることができますよ。
支倉常長の生い立ちとは?家族や兄弟、父親や子供は?
支倉常長は元亀2年(1571年)、現在の山形県米沢市立石、米沢市立関小学校の周辺に位置する羽州置賜郡長井荘立石邑で誕生しました。
父・山口常成は桓武天皇を祖先とした人物でありましたが、伊達家の家臣でした。
常長には義兄弟となる久成、常次がいたとされています。
その後、7歳になった常長は同じく伊達氏の家臣であった伯父・支倉時正に子供が誕生しなかったため、伯父・支倉時正の養子となります。
養子となった常長は現在の宮城県柴田郡川崎町支倉地区に位置する陸奥国柴田郡支倉村で青年期を過ごしましたが、伯父・支倉時正に実子・久成が誕生したため、主君・伊達政宗の主命によって600石取りとなりました。
豊臣秀吉が朝鮮半島を侵攻した文禄・慶長の役において、主君・伊達政宗も参加したため、常長も従軍し、朝鮮に渡ると足軽・鉄砲組頭として活躍すると、秀吉によって改易を受けた葛西氏・大崎氏の反乱である葛西大崎一揆においても常長は鎮圧を行った1人として名前が残されています。
常長の子供について
常長は後に結婚をし
- 長男・常頼
- 次男・常道
- 女子(名前不詳)
- 女子(名前不詳)
が誕生しますが、キリスト教弾圧の際、支倉家を継いだ長男・常頼は家臣がキリシタンであったため処刑され、次男・常道もキリシタンの容疑をかけられ出奔したため、一時支倉家は断絶となりました。
支倉常長の生涯と最期。死因や経歴は?
慶長14年(1609年)サン・フランシスコ号に乗ったフィリピン総督ドン・ロドリゴの一行がマニラからヌエバ・エスパーニャ(スペイン)への帰路の途中、台風に遭い現在の千葉県御宿町である上総国岩和田村の海岸で座礁難破するといった事故が発生します。
難破を目撃した地元住民たちにフィリピン総督ドン・ロドリゴの一行は救出されると、徳川家康は自身の外交顧問として仕えていたウィリアム・アダムス(三浦 按針)が造船したガレオン船サン・ブエナ・ベントゥーラをフィリピン総督ドン・ロドリゴの一行に贈り、一行は無事、ヌエバ・エスパーニャに帰還することができました。
この事がきかっけとなり日本とエスパーニャ(スペイン)は交流関係を持ち始めます。
このように日本とエスパーニャ(スペイン)が交流を持ったことで常長の主君・伊達政宗は
- エスパーニャ帝国(スペイン)の国王フェリペ3世との謁見
- バチカンのローマ教皇パウルス5世との謁見
- エスパーニャ、バチカンの2つの国との通商交渉
を目的とし、ヨーロッパに遣欧使節を送ることを決定します。
当時、日本にはキリスト教が持ち込まれ信者が多くいましたが、主君・伊達政宗は仙台藩のキリスト教布教のためにローマ教皇パウルス5世と謁見をする必要があると考えました。
また単にキリスト教普及のためではなく、太平洋に面している仙台藩は、海外貿易の拠点として理想の土地であったため、主君・伊達政宗は海外との貿易をもとに発展していく日本を理想として描いていたとされています。
海外との貿易発展のためにはキリスト教が必要であったのです。
しかし、常長一行が出港した翌年、徳川家康は日本全国に、キリスト教禁止令を発令してしまいます。
このヨーロッパへの遣欧は2つの国との通商交渉が目的とされていますが、倒幕を企てていた伊達政宗がエスパーニャとの軍事同盟を結ぼうとしていたのではないか。とも考えられています。
この遣欧において遣欧使節は
- 正使に支倉常長
- 副使にエスパーニャ人のフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロ
が任命されました。
こうして慶長17年(1612年)、常長は第一回目の使節として浦賀から出港しましたが、暴風雨に遭い、座礁したため仙台へと戻ると、船を修理し翌年の慶長18年(1613年)9月15日、月ノ浦から再び出港します。
出港した常長たちはまず、エスパーニャ(スペイン)のヌエバ・エスパーニャ副王領であるアカプルコ(メキシコ・ゲレーロ州)に向かいました。
その後、ベラクルス(メキシコ・ベラクルス州)に移動し、サンルーカル・デ・バラメーダ(スペイン・アンダルシア州セビリア県)に到着します。
慶長20年(1615年)1月2日にようやくエスパーニャ国王フェリペ3世に謁見すると、陸路でローマに渡り、同年9月12日にはローマ教皇パウルス5世に謁見することができました。
謁見後、ローマ市内を凱旋したと記録され、またドン・フィリッポ・フランシスコというキリスト教の洗礼名を持っていた常長は、ローマ市の公民権が与えられることとなり、貴族の称号も授与されました。
日本に帰国する
常長は、ヨーロッパで数年間を過ごし元和6年(1620年)8月24日に日本に帰国します。
はるばるローマへと渡り任務を終えた常長でしたが、帰国した日本では既に徳川家康がキリスト教弾圧を行っていました。
つまり、キリスト教普及のためにヨーロッパへと渡った常長らの努力は水の泡になってしまったということです。
常長も同じように、キリシタンであったため一介の反逆者として捉えられ、激しい弾圧を受けることとなりますが、帰国から2年後の元和8年(1622年)7月1日に、心労が重なり51歳で亡くなりました。
常長が亡くなると長男・常頼が家督を継いだとされていますが、激しいキリスト教の弾圧であったため、寛永17年(1640年)に家臣がキリシタンであったことから常長の長男・常頼は処刑されます。
また次男・常道もキリシタンの容疑がかけられ出奔したため、支倉家は断絶となりました。
しかし、寛文8年(1668年)常頼の息子・常信の代で許されることとなり現在も支倉家は存続しているとされています。
【エピソード】支倉常長の人柄や性格が分かる逸話
常長は
- スペインを訪れた際、スペイン風の衣装を着用
- ローマを訪れた際はローマ風の帽子をかぶり、馬に跨った常長はその帽子を脱ぐと観衆に微笑みを返した
と記録されています。
訪問先によって衣裳を変更するなど、訪問先の人々から好感を得るために様々な気配りをしていた人物でした。
また東京大学史料編纂所に所蔵されている、日本に残る常長の唯一の自筆書状で、メキシコから帰る途中に書かれたとされる支倉常長書状には、
- 常長ら一行の無事
- 主君・政宗に頼まれた買い物や船の支度で忙しいということ
- 来年には帰るので、それまで祖母や母を頼むということ
このようなことが自身の長男に宛てて書かれました。
この手紙から、常長は家族思いであったことがわかります。
まとめ 支倉常長のドラマや映画や小説はある?
支倉常長の生い立ちや経歴、性格やエピソードのご紹介でした。
簡単にまとめると
- 伊達政宗の家臣であった
- 伊達政宗に命じられ、ヨーロッパへと渡る
- キリスト教普及のためローマ教皇パウルス5世に謁見するも、帰国した頃には、キリスト教弾圧が既に始まっていた
- 帰国した2年後に亡くなる
支倉常長は、主君・伊達政宗の名でヨーロッパへと渡った人物でした。
キリスト教普及のために、ローマ教皇パウルス5世との謁見に成功しましたが、日本に帰国した当時は既に、徳川家康によってキリスト教の弾圧は始まっており、常長らの努力は水の泡となってしまいます。
しかし、日本とスペインの交流は今でも続いており、常長の努力は無駄ではなかったことが分かります。
そんな支倉常長が登場する有名な大河ドラマは『独眼竜政宗』です。
この作品において
- 支倉常長を俳優のさとう宗幸さん
- 伊達政宗を俳優の渡辺謙さん
が演じられました。
また、遠藤周作さんの『侍』という小説は支倉常長をモデルにされています。
他にも
- 伊坂幸太郎さんの『オーデュボンの祈り』
- 太田尚樹さんの『ヨーロッパに消えたサムライたち』
に支倉常長は登場しています。
これを機に支倉常長に興味を持った方は大河ドラマは『独眼竜政宗』、小説『侍』、『オーデュボンの祈り』、『ヨーロッパに消えたサムライたち』を手に取ってみてください。
以上「支倉常長の性格や経歴、生い立ちやエピソード」のご紹介でした。
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