あなたは「見返り美人図」という作品をご存知でしょうか?
赤い着物を着た女性が振り返る様子が描かれた作品で、1人立ち美人図として日本で最も有名な作品となっています。
昭和23年からは記念切手として採用されているため、「見返り美人図」を目にしたことがあるといった方は多いかと思います。
そんな「見返り美人図」を描いたのは菱川師宣(ひしかわ もろのぶ)という人物です。
今回は菱川師宣の
- 生涯
- 経歴
- 代表作品
- 性格
- エピソード
をご紹介いたします。
これ読めば、菱川師宣の生涯や経歴、代表作品やエピソードを知ることができますよ。
壇蜜さんが切手にもなった「見返り美人」に扮して、週刊朝日3月16日号の表紙を飾っています。肩と首が非現実的にひねられたポーズなので、大変だったそうです。 pic.twitter.com/ptGG0sNpqF
— 公益財団法人 日本郵趣協会 (@kitteclub) 2018年3月13日
菱川師宣の生い立ちと生涯は?
菱川師宣は元和4年〈1618年〉または寛永7年(1630年)現在の千葉県鋸南町保田である安房国保田で誕生しました。
縫箔刺繍業を営んでいた
- 父・菱川吉左衛門
- 母・オタマ
との間に7人兄妹の第4子と誕生します。
菱川師宣は後に結婚したとさています。
しかし、妻がどのような女性であったかは分かっていません。
その妻との間に
- 長男・菱川師房
- 次男・菱川師喜
- 娘・ヲイヌ
がいました。
長男、次男は父・師宣の弟子となり、同じく絵師として活躍します。
菱川師永という人物も師宣の子供ではないかとされていますが、娘・ヲイヌの婿であったと考えられています。
絵師・菱川師宣の経歴。有名な代表作品一覧
明暦3年(1657年)頃から、師宣は縫箔刺繍業の修業として江戸に出ました。
狩野派、土佐派、長谷川派から技法を学ぶ
縫箔刺繍業の修業を行う傍ら、もともと絵を描くことが好きだった師宣は江戸幕府や朝廷の御用絵師であった
- 狩野派
- 土佐派
- 長谷川派
から絵画技法を学びます。
様々な絵派から技法を学んだ師宣は独自の新様式を確立すると
- 挿絵
- 日本各地の名所を描いた名所絵
などを描き、絵師として活躍し始めます。
当時の庶民の生活で、本を読むという文化がありました。
しかし、文字だけでは読みにくいということで、挿絵が入れられたとされています。
その後も絵画制作を行い、遂に絵画を職とすることとなりました。
江戸にいる際は
- 堺町
- 橘町
- 人形町
に住居を移していたとされ、また京都にも行った記録が残されています。
寛文後期から延宝前期になると
- 仮名草子
- 浄瑠璃本
- 吉原本
- 野郎評判記
- 俳書
など様々な挿絵を担当することとなります。
延宝中期からは
- 江戸の庶民の生活風景を描いた風俗画
- 吉原遊里を描いた吉原もの
- 歌舞伎役者を描いた歌舞伎もの
- 各地の名所を描いた名所図
を描きました。
この頃の師宣の作品は、細やかなタッチで色鮮やかに描かれたものが多く残されています。
これまで、絵画作品は墨だけで描かれるのが一般的でしたが、師宣は様々な色を使用し、庶民の生活風景を描きました。
「浮世絵の祖」とよばれる
このように当時の庶民の生活風景を細やかに師宣は描いたため、「浮世絵の祖」とされています。
「浮世絵の祖」と呼ばれる人物は、師宣だけではなく師宣亡き後に活躍する絵師・岩佐又兵衛という絵師も「浮世絵の祖」とされています。
どちらも、庶民の生活風景などを描いたことでこのように呼ばれました。
『好色一代男』の挿絵を担当する
師宣は
- 延宝3年(1675年)刊行の無署名『若衆遊伽羅之縁』
- 同年、『伽羅枕』
- 延宝5年(1677年)刊行の『小むらさき』
- 延宝6年(1678年)刊行の役者絵本『古今役者物語』『吉原恋の道引』
- 延宝8年(1680年)正月刊行の『人間不礼考』
- 天和元年(1681年)刊行の半井卜養の狂歌絵本『卜養狂歌集』
など絵本や挿絵を残します。
その後、天和2年(1682年)になると大坂において浮世草子・人形浄瑠璃作者である井原西鶴が処女作『好色一代男』を出版します。
この作品の挿絵を担当した師宣は浮世絵師として地位が認められるようになりました。
菱川師宣の最期
貞享3、4年(1686年から1687年)頃には自身の絵画様式の固定化が目立つようになり、庶民の人気を得た師宣は次々と男女間の情事を描写した小説(好色本)を主に、絵入り本を刊行していきました。
その絵入り本の挿絵がやがて、観賞用として1枚の絵になると、版画を用いで大量印刷され、多くの人の手に安い価格で師宣の作品が渡るようになります。
師宣の代表作「見返り美人図」は師宣の晩年にあたる元禄年間(1688〜1704)に描かれたとされています。
師宣は元禄7年(1694年)6月4日、現在の東日本橋に位置する江戸の村松町にあった自宅で、76歳または64歳、65歳で亡くなりました。
菱川師宣の代表作品
菱川師宣の代表作品①:「見返り美人図」
By 菱川師宣 – Tokyo National Museum, パブリック・ドメイン, Link
多くの方が見たことがあるであろう「見返り美人図」は菱川師宣の代表作品です。
制作年は元禄年間(1688〜1704)とされています。
振り返る女性を描いた作品で、この女性は
- 貞享年間(1684~88)に流行した「玉結び」というヘアースタイルをしている
- 鼈甲でできた櫛を髪にさしている
このようなヘアースタイルは当時流行していたものとされています。
髪型だけではなく、女性の着ている着物は濃い紅色に染めた綸子が描かれ、このような着物の絵柄は師宣の作品に度々、登場することから当時流行した模様であったと考えられます。
そして描かれる女性の着物の後ろで結ばれる帯は「吉弥(きちや)結び」と呼ばれ、この「吉弥(きちや)結び」もまた当時流行した帯結びの1つでした。
このように、師宣の描いた「見返り美人図」は単純に振り向く女性が描かれたのではなく、当時の流行ファッションも取り入れながら描かれたということが分かります。
どの時代にも、ファッション・トレンドというものがあり、女性たちはこぞって流行を取り入れました。
菱川師宣の代表作品②:「歌舞伎図屏風」重要文化財
いつ制作されたのかはは分かっていませんが、師宣の晩年の作品とされています。
右の一隻に芝居小屋と舞台、観客席が描かれ、左の一隻に楽屋と芝居小屋が描かれた作品で、その中に285人の人物が描かれ臨場感あふれる風俗画となっています。
菱川師宣の代表作品③:「北楼及び演劇図巻」
寛文年間末から元禄年間までの間、師宣が描いた吉原遊郭と歌舞伎の風景を集めた絵巻です。
【エピソード】菱川師宣の性格が分かる面白い逸話
菱川師宣は、
- 当時の庶民の生活
- 流行となる文化(遊楽や歌舞伎)
- 流行のファッション(髪型や着物の絵柄など)
をいち早く知り、それを絵画に反映させました。
このようなことから「浮世絵の祖」と呼ばれることとなります。
師宣の生涯について詳しく分かっていませんが、師宣は当時の流行ファッションが多く取り入れられた「見返り美人図」を晩年に制作したとされることから、晩年になってもなお、当時の江戸の流行をチェックしていたことが分かります。
師宣だけではなく、多くの美人画や風俗画には当時のファッションや文化などが描かれていることが多いため、当時の風俗を知りたいという方は、美人画や風俗画を見てみることをおススメします。
まとめ 菱川師宣のドラマや映画や小説はある?
菱川師宣の生涯や経歴、代表作品やエピソードのご紹介でした。
簡単にまとめると
- 江戸時代に活躍した絵師
- 晩年に「見返り美人図」を描いた
- 「見返り美人図」には当時の流行ファッションが描かれている
- 「浮世絵の祖」とされている
- ファッションに敏感であった
菱川師宣という絵師の生涯は未だ多くの謎が残されています。
しかし、代表作品「見返り美人図」には当時流行していたファッションが描かれ、日ごろからファッションには敏感であったことが分かりました。
絵画は鑑賞するだけではなく、当時の流行ファッションや文化などが知ることができます。
そんな菱川師宣が登場する映画やドラマ、小説は残念ながらありませんでした。
ですが、江戸時代を舞台にしたアニメ「サムライチャンプルー」の第5話「馬耳東風」に菱川師宣は登場しています。
このアニメは、「向日葵の匂いのする侍」の情報を得るため、数多くのバイトをしていた少女・フウが2人の用心棒ムゲンとジンを連れ「向日葵の匂いのする侍」を探す旅に出るといった物語で、第5話「馬耳東風」に登場する菱川師宣は浮世絵のモデルとなった少女を海外へ売り飛ばす片棒を担いでしまった役として登場しています。
歴史に忠実な物語ではないですが、おもしいアニメです。
これを機に、菱川師宣に興味を持た方はアニメ「サムライチャンプルー」を見てみてください。
以上「菱川師宣の性格と経歴。生涯の代表作品と面白いエピソード」のご紹介でした。
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