北条氏康の強さはどれくらいすごい?最強の伝説や逸話とは

あなたは北条氏康という人物をご存知ですか?

北条氏康は北条5代(早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直)の3代目にあたる人物で、4代目の北条氏政の代に最盛期(領土的観点から見て)を迎えた北条氏の基礎を築き上げました。

さらに、北条氏康が活躍した時期は武田信玄・今川義元・上杉謙信といった強敵が各地にいました。

そんな時代に生きた北条氏康。

 

今回は北条氏康について

 

  • 北条氏康の代表的な戦とは
  • 【逸話】北条氏康の勝ち戦と負け戦は?
  • 【最強伝説】北条氏康の強さはどれくらい?

 

を紹介します。

ぜひ読んでみてください。

 

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北条氏康の代表的な戦とは

北条氏康の代表的な戦い1.小田原城の戦い

この戦いは永禄3年(1560年)から永禄4年(1561年)にかけて北条軍と上杉・長尾連合軍との間で起こった戦いです。

別名・大槻合戦ともいいます。

 

小田原城の戦いまでの経緯は

 

  • 天文21年(1552年)に関東管領・上杉憲政が北条氏の圧力を受け、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)に助けを求め逃れる。※関東管領とは室町幕府(足利政権)が関東に設置した鎌倉府の長官・鎌倉公方を補佐する役職で鎌倉府のナンバー2にあたる
  • 永禄2年(1559年)に長尾景虎は関東を北条氏から奪還すべく関東へ出陣
  • 長尾軍は永禄3年(1560年)11月までに北条方の沼田城(群馬県沼田市)・前橋城(群馬県前橋市)・羽生城(埼玉県羽生市)を落とす
  • 北条軍は里見氏の久留里城(千葉県君津市)を包囲していたが、すぐに撤退し同年9月に松山城(埼玉県比企郡吉見町)入る
  • 北条運は長尾軍の勢いに押され、北条氏康は小田原城まで退き籠城する(北条軍は他にも玉縄城・滝山城・河越城で籠城)

 

そして、永禄4年(1561年)3月に長尾軍は北関東の諸将も加わり小田原城をはじめ北条方の城を包囲し攻撃します。

 

両軍の兵力は

 

  • 北条軍が数万人
  • 連合軍が10万人

 

と北条軍は圧倒的に不利でした。

 

しかし、北条軍は籠城戦を徹底的に行い、小田原城に攻めてきた太田資正勢を防ぐなど、連合軍は苦戦を強いられます。

 

また、永禄4年(1561年)3月時点で、連合軍では長期遠征に対する不満や兵糧の減少などがありまとまりがなくなっていきます。

 

さらに、北条軍には同盟を結んでいた武田氏や今川氏からの援軍もあり(今川は援軍の準備だけ)、北条軍は勢いを戻します。

 

そして、同年4月になると連合軍が兵を退いたため北条軍は勝利を収めました(他の城も落城せず)。

 

復興天守
By 663highland, CC 表示 2.5, Link

※現在の天守は1960年に完成した復興天守です(北条氏が築城したものではない)。

 

北条氏康の代表的な戦い2.第2次国府台の戦い

この戦いは永禄6年(1563年)から永禄7年(1564年)にかけて、下総国の国府台城(こうのだい城)付近(現在の千葉県市川市国府台)一帯を舞台に北条氏と里見氏との間で起こった戦いです。

 

第2次国府台の戦いまでの経緯は

  • 北条家家臣で江戸城の守将・太田康資が上杉氏への寝返りを図るが失敗し、太田康資は同族の太田資正の下へ逃れる
  • この時期は越後の上杉謙信が関東へ出兵してきていた事もあり、関東の国人や諸勢力は北条方か上杉方に分かれていた
  • 関東の有力大名で房総半島一帯を治めていた里見氏は上杉氏に味方し、永禄7年(1564年)1月4日には上杉謙信の北条挟撃の要請で国府台城に入る
  • この状況に国府台城の北に位置していた小金城の城主・高城胤辰は、主君の千葉氏を介して北条氏に援軍を要請
  • 北条軍は挟撃の危機を迎えますが、北条氏康は上杉軍と里見軍が挟撃を整える前に里見軍を攻撃しようと考え1月7日に江戸城を出陣

 

そして両軍は江戸川を挟んで対峙します。

 

両軍の兵力は

 

  • 北条軍は約2万人
  • 里見軍は約1万2千人

 

と北条軍の方が優勢でした。

 

しかし、一方から攻めていった北条軍は敵の抗戦を受け家臣の清水直景と富永政家が戦死してしまいます。

 

北条軍は一時撤退し、夜になると里見軍に気づかれないように国府台城を包囲します。

そして、1月8日早朝に四方から急襲し里見愚を壊滅させます。

 

この戦い以降、北条氏と里見氏は懇着状態となります。

 

SatomiKouen.jpg
By 麒麟坊 – 投稿者による撮影, CC 表示-継承 3.0, Link

 

※現在は国府台の戦いが行われた国府台城付近は里見公園となっています。

 

【逸話】北条氏康の勝ち戦と負け戦は?

北条氏康の勝ち戦:河越夜戦

この戦いは天文15年(1546年)4月20日に北条軍と山内上杉・扇谷上杉・足利連合軍との間で起こった戦いです。

 

また、厳島の戦い(毛利軍vs陶軍)・桶狭間の戦い(織田軍vs今川軍)と並び「日本三大奇襲」の数えられています・

 

まずは足利家・山内上杉家・扇谷上杉家について簡単に紹介します。

 

  • 足利家とは、京に室町幕府を開いた足利将軍家(足利尊氏など)の分家で、はじめは鎌倉府の長官・鎌倉公方として関東を治めていましたが、関東管領との対立や北条早雲(氏康の祖父)の侵攻などがあり本拠地を鎌倉から古河(茨城県古河市)に移し、古河公方と呼ばれるようになります。
  • 山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)とは、上杉四家の1つで室町時代に関東に設置された鎌倉府の長官・鎌倉公方の補佐役である関東管領を世襲(先祖代々同じ役職を務める)してきた家です。

 

  • 扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)とは、山内上杉家と同じ上杉四家の1つで関東管領になれる家系でしたが、山内上杉家よりも力が弱かったため関東管領にはなれませんでした。

室町時代後期には江戸城を築城したことでしられる太田道灌が家臣にいました。

 

この3家は室町時代後期になると対立したため、新興勢力である北条氏に勢力の拡大を許してしまいます。

 

北条氏の勢力拡大に危機感を感じた3家は協力することにします。

 

河越夜戦が起こった天文15年(1546年)は北条氏康にとっても大きな危機となります。

北条氏康は5年前に父・北条氏綱の死によって家督を継いだばかりでした。

 

河越夜戦までの経緯としては

 

  • 天文14年(1545年)7月に駿河の今川義元が山内上杉家と手を組み北条領へ侵攻(河東一乱)し、9月初め頃には武田軍も合流したため窮地に陥る
  • 同年9月26日に連合軍が河越城を包囲(河越城の兵は3千で連合軍は8万)しますが。河越城は約半年間耐える
  • 同年10月に武田家の仲介で今川家と停戦を結ぶ
  • 西の脅威がなくなった北条氏康は8千の兵で救援に向かう

 

北条氏康は時間稼ぎのために何度も降伏の手紙を送り連合軍を油断させていました。

また、これと同時に河越城の北条綱成(氏康の弟の養子)にも奇襲の計画を伝えます。

 

そして、天文15年(1546年)4月20日の夜に北条軍は四方面から連合軍に夜襲を仕掛けます。

また、城内からも北条綱成が打って出て足利勢を強襲します。

 

夜襲を受けた連合軍は大混乱し、山内上杉家の上杉憲政は逃亡、扇谷上杉家は当主の上杉朝定が戦死したため滅亡します。

 

この戦いの結果、北条氏は一気に3つの家を衰退・滅亡させ関東での勢力をさらに拡大させます。

 

北条氏康の負け戦:三増峠の戦い

この戦いは永禄12年(1569年)10月に北条軍と武田軍の間で起こった戦いです。

 

三増峠(みませとうげ)の戦いが起こった原因は永禄3年(1560年)に起こった桶狭間の戦いです。

 

元々、北条家は武田家と今川家との間で甲相駿三国同盟(甲斐・相模・駿河)を結んでいましたが、桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると今川家は衰退していきます。

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今川家の衰退を好機と見た武田信玄は永禄11年(1568年)に同盟を結んでいた今川家への侵攻を開始します。

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武田家の一方的な同盟破棄に怒りを表した北条氏康は、今川家を援助するとともに越後の上杉謙信と同盟を結び武田家へ対抗します。

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北条家の対抗姿勢に対して武田信玄は、永禄12年(1569年)8月に約2万の兵で北条領へ侵攻し北条方の諸城を攻撃した後、10月1日には北条氏の居城・小田原城を包囲します。

 

北条氏康は籠城戦を展開しますが、武田信玄は過去に上杉謙信が落とせなかった小田原城を無理には攻めず4日後に撤退を開始します(北条氏康の代表的な戦い:小田原城の戦い参照)

 

武田軍の撤退を好機とみた北条氏康は、甲州街道守備軍・北条氏照(氏康の3男)と秩父方面守備軍・北条氏邦(氏康の5男)の2万を武田軍の退路である三増峠に着陣させるとともに、北条氏政(氏康の次男)には本隊2万の兵を小田原城から出陣させ武田軍を挟撃しようと考えます。

 

そして、両軍は10月6日に三増峠で激突することになります。

 

両軍の兵力は

 

  • 北条軍が約2万人
  • 武田軍が約2万人

 

と戦力は互角でしたが、北条軍の方が高台をとっていたためやや優勢でした。

また、4万もの軍勢が戦ったのはいままでの山岳戦の中でも最大規模の戦となります。

 

戦いが始まった当初は高台をとっていた北条軍は武田軍の動きが良く見えていたため優勢でした。

 

一方の武田軍は武田信玄の策によって軍を3つ(中央隊・右翼隊・左翼隊・他に別働隊)に分けます。

 

北条軍は津久井城を牽制していた武田軍の左翼を鉄砲で攻撃し指揮官の浅利信種を狙撃し戦死させる被害を受けさせます。

 

武田軍の中央隊には小荷駄隊(こにだたい、物資の運搬部隊)という部隊がいました。

高台から見ていた北条軍は武田軍が撤退しているように見えたため、北条軍は山を下りるように武田軍を攻撃します。

 

しかし、これは武田軍の策で北条軍が山を下っている隙に武田別働隊が高台を取り北条軍は背後を取られる形となります。

 

これによって北条軍は小田原城からの本隊の到着の前に敗れてしまいます。

 

引用https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A2%97%E5%B3%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

 

【最強伝説】北条氏康の強さはどれくらい?

北条氏康の強さ1.戦国一の民政家

北条氏康は内政にもかけていました。

 

特に税収の面では4割を年貢として納め、6割を農民の所得としました(四公六民)。

他の戦国大名は五公五民というのが一般的でした。

また、凶作や飢饉によって年貢が納められないときは減税または免除していました。

 

さらに領民の意見を聞くために目安箱を設置しました。

目安箱と言えば第8代将軍徳川吉宗が設置したことで有名ですが、日本ではすでに戦国時代からありました(甲斐の武田家も設置していた)。

 

他にも上水道の整備・商人との連携(商人との書状が数多い)・升を統一(榛原升を公用升とした)するなどしました。

 

これら北条氏康の内政は領民との信頼関係を築き、北条家滅亡後に関東を収めた徳川家康ははじめの頃は統治がしにくかったといわれています。

 

北条氏康の強さ2.多くの支城を築城

北条氏康は領土を広げていく中で多くの支城を築きます。

 

これは根城(本拠となる城)の周りに支城といわれる中小の城を数多く建て防衛ラインをしくことを目的としていました。

 

また、城と城の間が近かったことから伝達するのもスムーズに行えたことで、戦の際は連携面で敵よりも上でした。

 

子の北条氏政の代には北条氏最大の領土を支配し、その都度多くの支城が築城されました。

 

まとめ 北条氏康のおすすめ作品や本。大河ドラマ

ここまで北条氏康について紹介してきましたがいかがでしたか?

 

まとめてみると

 

  • 北条氏康は籠城戦に強かった
  • 北条氏康は河越城の戦いで3家を1度に倒した
  • 北条氏康は武田・上杉・今川と強敵相手に戦った
  • 北条氏康は内政も上手かった

 

オススメ作品

大河ドラマでは主役のはありませんが

  • 歌手・俳優の杉良太郎さんが演じた『武田信玄』
  • 俳優の松井誠さんが演じた『風林火山』

がオススメです。

本では黒田基樹さんが書いた『関東戦国史  北条vs上杉55年戦争の真実』がオススメです。

北条氏についてもっと知りたい方(北条氏を徹底的に学びたい方)は古文書をまとめた『戦国遺文〈後北条氏編〉』を読んでみてください(古文・漢文・返り点などが読めないと無理かもです)。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

以上、「北条氏康の強さはどれくらいすごい?最強の伝説や逸話とは」でした。

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