持統天皇の性格や経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い

日本はこれまで、8人の女性天皇がいました。

このうちの持統天皇は686年から697年まで女帝として在位した人物です。

また「春すぎて夏來にけらし白妙の 衣ほすてふ天の香具山」と和歌を詠んだとされ万葉集にも選ばれています。

では持統天皇という女性は一体どのような人物であったのでしょうか?

そこで今回は持統天皇の

  • 生い立ち
  • 経歴
  • 性格
  • エピソード

をご紹介いたします。

これを読めば持統天皇の生い立ちや経歴、性格やエピソードを知ることができますよ。

 

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持統天皇の生い立ちとは?家族や兄弟、父親や子供は?

持統天皇は飛鳥時代にあたる大化元年(645年)

  • 第38代天皇・天智天皇(中大兄皇子)
  • 蘇我倉山田石川麻呂の娘である母・遠智娘

から誕生しました。

諱は鸕野讚良(うののさらら)とされています。

姉には大田皇女がいました。

大化5年(649年)、鸕野讚良(後の持統天皇)の祖父・蘇我石川麻呂が当時天皇であった第36代天皇・孝徳天皇に謀反を起こしていると密告されたため鸕野讚良(後の持統天皇)の父・中大兄皇子(後の天智天皇)によって祖父・蘇我石川麻呂は攻められ自殺します。

蘇我石川麻呂は鸕野讚良(後の持統天皇)の母・遠智娘の父であったため、母・遠智娘は父を失った悲しみから亡くなってしまいました。

 

大海人皇子(後の天武天皇)と結婚する

斉明3年(657年)、13歳になった鸕野讚良(後の持統天皇)は叔父である大海人皇子(後の天武天皇)と結婚します。

父・中大兄皇子(後の天智天皇)には多くの夫人がいたため、鸕野讚良(後の持統天皇)含め16人の子供がいました。

そのうちの

  • 大田皇女
  • 大江皇女
  • 新田部皇女

大海人皇子(後の天武天皇)の妻となります。

その後、天智元年(662年)になると鸕野讚良(後の持統天皇)と大海人皇子(後の天武天皇)との間に第一子・草壁皇子が誕生しました。

 

持統天皇の生涯と最期。死因や経歴は?

翌年には同じく大海人皇子(後の天武天皇)の妻となった大田皇女に大津皇子が誕生しますが、天智6年(667年)以前に大田皇女は亡くなってしまったため、鸕野讚良(後の持統天皇)は大海人皇子(後の天武天皇)の複数いる妻の中で最も身分の高い女性となりました。

この頃、鸕野讚良(後の持統天皇)の父・中大兄皇子が即位し天智天皇と名乗りました。

天智天皇10年(671年)10月17日になると父・天智天皇はもともと病を患っていたため、次期天皇となる鸕野讚良(後の持統天皇)の夫・大海人皇子(後の天武天皇)を呼び出し後事を託そうとします。

しかし、天智天皇の第一皇子・大友皇子と以前から親しい関係であった蘇我安麻呂は、夫・大海人皇子(後の天武天皇)に対し、即位は大友皇子としっかり話し合ってから決めるよう忠告したため、夫・大海人皇子(後の天武天皇)は天皇即位を辞退し、天智天皇の皇后・倭姫王を次期天皇に即位させ、大友皇子に執政するよう薦めると、自身は出家し吉野(現在の奈良県)へと向かいました。

この時、鸕野讚良(後の持統天皇)も息子・草壁皇子を連れ共に吉野へと向かったとされています。

天智天皇10年(671年)になると、鸕野讚良(後の持統天皇)の父・天智天皇が46歳で崩御し、大友皇子が跡を継ぐこととなります。

 

壬申の乱が勃発する

しかし、夫・大海人皇子(後の天武天皇)は地方豪族を味方につけると大友皇子に反旗を翻し壬申の乱が開始されました。

この際、鸕野讚良(後の持統天皇)は自身の息子・草壁皇子と夫・大海人皇子(後の天武天皇)と宍人カジ媛娘の息子・忍壁皇子を連れ美濃国(現在の岐阜県)に向けて吉野を脱出します。

壬申の乱において反乱者である夫・大海人皇子(後の天武天皇)が勝利したため天武天皇2年正月に即位し天武天皇を名乗り始めると、鸕野讚良(後の持統天皇)は皇后となりました。

『日本書紀』によると鸕野讚良(後の持統天皇)は常に夫・天武天皇のそばにおりサポートしていたとされています。

この頃、夫・天武天皇には

  • 尼子娘との子供・高市皇子(長男)
  • 鸕野讚良(後の持統天皇)との子供・草壁皇子(次男)
  • 大田皇女との子供・大津皇子(三男)
  • かじ媛娘との子供・忍壁皇子 (四男)

と2人の甥

  • 天智天皇と忍海造色夫古娘の子供・川島皇子
  • 天地天皇と道君伊羅都売の子供・志貴皇子

計6人の子供がいました。

この6皇子のうち、草壁皇子のみが鸕野讚良(後の持統天皇)の子供となります。

天武8年(679年)5月5日、鸕野讚良(後の持統天皇)と夫・天武天皇は、この6人の子供たちに次期天皇となるのは、持統天皇の息子・草壁皇子であることを宣言します。

鸕野讚良(後の持統天皇)と夫・天武天皇は次期天皇は草壁皇子であると子供たちに宣言することで、異母兄弟同士互いに助け合い、争わないことを誓わせました。(吉野の盟約

 

夫・天武天皇が崩御する

翌年の天武天皇9年(680年)、鸕野讚良(後の持統天皇)は病を患ってしまいます。

これを心配した夫・天武天皇は病気平癒を祈願し、薬師寺の建立を思いつき、薬師寺建立の建設作業を進めます。

ですが、夫・天武天皇は天武天皇15年(686年)5月頃からは病気がちとなり、7月には鸕野讚良(後の持統天皇)と夫・天武天皇は2人で政務を執るようになっていました。

その後、同年7月15日に夫・天武天皇は、政治を持統皇后と次期天皇とされる草壁皇子に任せると、薬師寺の完成を見ることなく9月11日に病死となりました。

 

大津皇子が謀反を計画する

夫・天武天皇が亡くなる少し前、天武天皇の息子・大津皇子が次期天皇となる草壁皇子の皇子に謀反を起こそうとしていました。

草壁皇子を次期天皇にすると宣言し、兄弟同士、皇位を巡って争わないと吉野の盟約で誓ったはずでしたが、大津皇子は以前から草壁皇子をあまりよく思っていなかったとされています。

なぜなら、大津皇子の母・大田皇女は鸕野讚良(後の持統天皇)の姉であるため、草壁皇子とは同じ身分だったからです。

しかし、

  • 大津皇子は早くに母・大田皇女を亡くしていた。
  • 一方、草壁皇子の母・鸕野讚良(後の持統天皇)は存命で皇后である。

このようなことがあり大津皇子は次期天皇に選ばれなかったのです。

母親がすでに亡くなっているか存命しているかで、次期天皇に選ばれないのは非常に悔しいことでしょう。

このようなことから、大津皇子は謀反を企てたのですが父・天武天皇が亡くなった翌月の10月2日に謀反が発覚したため、大津皇子は自殺し亡くなりました

一説では、大津皇子が謀反を起こそうと不穏な行動をしていたのに気付いた鸕野讚良(後の持統天皇)が大津皇子を排除したのではないか。と考えられています。

 

第41代天皇となる

夫・天武天皇が亡くなったため皇位は息子・草壁皇子へと受け継がれることとなりましたが、689年4月に草壁皇子は亡くなってしまいます

よって誰に皇位継承をするのかといった問題が発生しました。

鸕野讚良(後の持統天皇)は草壁皇子の子・軽皇子(後の文武天皇)つまり鸕野讚良(後の持統天皇)の孫に皇位継承を希望しましたが軽皇子(後の文武天皇)はこの時まだ幼かったため、鸕野讚良(後の持統天皇)自ら即位し、第41代天皇となりました。

即位後、持統天皇が主に行ったのは夫・天武天皇の政策を引き継ぎ

  • 飛鳥浄御原令の制定
  • 藤原京の造営

を中心としました。

他にも

  • 戸籍の作成
  • 685年より前の負債の利息を免除
  • 百姓と奴婢の身分を分けるために、指定の色の衣服を着るよう命じる
  • 柿本人麻呂に天皇を賛仰する歌を作らせる
  • 夫・天武天皇の権威を意識させるため夫・天武天皇との思い出の地である吉野に頻繁に行幸を行う
  • 生前、夫・天武天皇が建立を進めていた薬師寺を完成させる
  • 引き続き新羅と通交する

などを行いました。

持統天皇をサポートしていたのは、夫・天武天皇と尼子娘の息子・高市皇子です。

この頃、高市皇子は太政大臣でした。

高市皇子は太政大臣であったため、次期天皇の有力候補として名前があげられていましたが、高市皇子は持統天皇10年(696年)7月10日に亡くなったため、持統天皇の後継者をどうするかといった話し合いが行われました。

この話し合いの結果、15歳となった草壁皇子の子・軽皇子(後の文武天皇)が次期天皇となり、8月1日に持統天皇が軽皇子(後の文武天皇)に譲位し文武天皇が誕生しました。

この一連の流れから、持統天皇は自身の孫・軽皇子に譲位するため高市皇子を殺害したのでは。と考えられています。

持統上皇(天皇の位を譲位すると上皇となる)は譲位した後も、文武天皇と一緒に政務を執っていたとされます。

しかし、影の薄かった夫・天武天皇の甥・忍壁皇子が登場するとともに、持統上皇の出番は少なくなり

  • 大宝元年(701年)には吉野へと向かう
  • 翌年には三河国へと向かい壬申の乱の際、活躍した豪族らをねぎらう

などを行います。

大宝2年(702年)12月13日には病を患い、その後22日に58歳で崩御しました。

 

【エピソード】持統天皇の人柄や性格が分かる逸話

持統天皇は、自身が即位する前、夫・天武天皇の政務をサポートするだけではなく妻でありながら政治について助言するなど、夫・天武天皇と並び政務活動を行いました。

『日本書紀』には持統天皇の人物像について

  • 「深沈で大度」落ち着いていて、度量が大きい
  • 「礼を好み節倹」皇女でありながら礼、節度、倹約を好んでいた
  • 「母の徳あり」母親のような愛情深く寛大な性格

であったと記されています。

ところが、

息子・草壁皇子を次期天皇とさせるため、兄弟たちには皇位継承を巡って争わないと誓わせ(吉野の盟約)、息子・草壁皇子のライバルで謀反を起こそうとした大津皇子を排除します。

しかし、息子・草壁皇子が亡くなってしまったため、やむなく自身が即位することとなりました。

やむなく即位したと考えられていましたが、近年では

  • 謀反の計画が発覚してしまったため自殺した大津皇子は実は謀反計画など立てておらず、持統天皇が謀反に仕立てあげ大津皇子を排除した。
  • 自身の皇位継承に高市皇子が有力候補として名前があげられていたが、自身の孫・軽皇子を立太子させるため、高市皇子を殺害した。

このような説から、持統天皇はやむなく即位したのではなく、初めから皇位に向けた政治的野心を持っていたのではないかと推測されています。

これらの逸話から持統天皇は『日本書紀』の人物像からかけ離れ、政治活動に積極的な性格で、かなり気の強い女性であったことが分かります。

なんだか、自身の権力を大いに使用した独裁者のような女性に見えてしまいます。

 

まとめ 持統天皇のドラマや映画や小説はある?

持統天皇の生い立ちや経歴、性格やエピソードのご紹介でした。

簡単にまとめると

  • 天智天皇の娘
  • 天武天皇と結婚し草壁皇子が誕生
  • 草壁皇子と夫・天武天皇と大田皇女の息子・大津皇子が後継者争いをしたため、大津皇子を排除
  • 第41代天皇となる
  • 政治活動に積極的な女性であった

持統天皇は夫・天武天皇亡きあと自身の息子・草壁皇子を次期天皇とさせるためにライバル関係であった血の繋がっていない息子・大津皇子を殺害し、それだけではなく孫・軽皇子を自身の後継者にすべく次期天皇有力候補であった高市皇子を殺害したとされています。

『日本書紀』には持統天皇は皇女ながら礼、節度、倹約を好み、落ち着いた女性で母親のように愛情深く寛大な性格であったと記されていますが、持統天皇の生涯を見てみると、真反対の政治活動に積極的非常に気の強い女性であったと感じます。

そんな持統天皇が登場したドラマや映画は残念ながらありませんでしたが、

  • 里中満智子さんの漫画『天上の虹 持統天皇物語』
  • 小石房子さんの小説『鉄の女帝持統』
  • 三田誠広さんの小説『炎の女帝 持統天皇』
  • 坂東眞砂子さんの小説『朱鳥の陵』

に持統天皇は登場しています。

これを機に持統天皇に興味を持った方は漫画『天上の虹 持統天皇物語』、小説『鉄の女帝持統』『炎の女帝 持統天皇』『朱鳥の陵』を読んでみてください。

以上「持統天皇の性格や経歴、生い立ちやエピソード」のご紹介でした。

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