あなたは大塩平八郎という人物をご存知でしょうか。
大雨による洪水や冷害によって農作物が不作となった天保の飢饉において、庶民が手を出せないほどの高額な値で米を販売していた幕府に対し「大塩平八郎の乱」を起こした人物です。
しかし、この「大塩平八郎の乱」は失敗に終わり、大塩平八郎は自殺し亡くなりました。
そんな大塩平八郎という人物はいったいどのような人物であったのでしょうか。
そこで今回は大塩平八郎の
- 生い立ち
- 経歴
- 性格
- エピソード
をご紹介いたします。
調べてみると
- 正義感あふれる人物であった
- 大塩平八郎の乱は失敗に終わった
- 遺体は塩漬けにされた
- 厳格でストイック、短気な性格であった
ということが分かりました。
これを読めば大塩平八郎の生い立ちや経歴、性格やエピソードを知ることができますよ。
大塩平八郎の生い立ちとは?家族や兄弟、父親や子供は?
大塩平八郎は寛政5年(1793年)1月22日、大坂天満で誕生しました。
寛政5年(1793年)は江戸時代後期にあたります。
父は大塩平八郎敬高とされていますが、母や兄弟の名前などは分かっていません。
後に、平八郎は ひろ(茶屋大黒屋和市の娘)を妾とし、養子となる格之助を迎えています。
大塩家は初代の大塩六兵衛成一裕福な家庭で代々、大坂東町奉行組与力であったとされ、平八郎は初代から数えて8代目・大坂東町奉行組与力にあたります。
大坂東町の警察官と裁判官を合わせたような立場であったとされています。
大塩平八郎の生涯と最期。死因や経歴は?
10代のころから大坂東町奉行組与力であった平八郎は汚職などを嫌う性格であったため不正を次々と暴く正義感に強い人物であったとされています。
同僚の西町奉行与力・弓削新左衛門が起こした汚職事件において、内部告発を行うなどし、市民から絶大な人気がありました。
誘惑の多い奉行所内では、こうした正義感溢れる平八郎を嫌う人も多くいたとされていますが、上司の東町奉行・高井実徳からは信頼されていました。
学問に専念する
文政13年(1830年)37歳になった平八郎は、大坂東町奉行組与力を辞め養子・大塩格之助に大坂東町奉行組与力を継がせます。
大坂東町奉行組与力を辞めた平八郎は独学で陽明学を学び、隠居後は学問に専念しました。
また大坂東町奉行組与力在任時に自宅で行っていた私塾・洗心洞で弟子たちに指導していたとされています。
天保の大飢饉が日本を襲う
天保4年(1833年)になると、洪水や冷害によって大凶作となった天保の大飢饉が日本を襲いました。
この天保の大飢饉は
- 天保4年(1833年)秋から同5年(1834年)夏
- 天保7年(1836年)秋から同8年(1837年)夏
にかけてが最もひどかったとされています。
米はもちろん、野菜や穀物などすべての農作物が不作となり、天保4年(1833年)からの5年間で125万2000人も人口が減少しました。
大阪では毎日約150人から200人がこの飢饉によって亡くなっていたとされています。
そんな中、大坂東町奉行の跡部良弼は幕府のご機嫌取りのため、大阪にある数少ない貴重な米を江戸へ強制的に廻米したのでした。
それに加え、お金を持っている豪商が米を買い占めるなどしたため、米の価格は値上がり、庶民が買うことはできませんでした。
このような悲惨な現状を目にした平八郎は大坂東町奉行の跡部良弼に
- 幕府が年貢として収納している、換金前の米を民に与えること
- お金持ちの豪商による米の買い占めを禁止すること
- 米価安定を図る事
など政策を提案しますが、全く聞き入れてもらえませんでした。
また京都でも死者の数は増え、京都から大阪に逃れてきた民が増え、大坂の町は混乱状態となり治安悪化へとつながりました。
天保7年(1836年)秋になると
- 甲斐国で「天保騒動(郡内騒動)」
- 三河国挙母藩で「加茂一揆」
など百姓による米穀商居宅の打ちこわしが全国各地で発生します。
このような打ちこわしは多くの犠牲者が続出し、平八郎は打ちこわしの鎮圧に向けた軍事訓練を開始しました。
天保8年(1837年)2月になると、平八郎自身の蔵書を売却し、その資金で民の救済活動を行うなどしていましたが、もはや武装蜂起によって
- 解決に向けた行動を起こさない奉行ら
- 米の買い占めを図っていた豪商
らを討伐しなければ飢饉の根本的な解決には至らないと考え、妻と離縁し大砲や爆薬を準備すると、天保8年(1837年)2月19日、
- 門人
- 民衆
とともに蜂起しました。
しかし、参加者の1人である町目付平山助次郎が決起直前になって離脱し、東町奉行・跡部良弼に参加者の名前と計画内容を密告したため、蜂起当日の2月19日に鎮圧されることととなりました。
平八郎は、
- 大坂町奉行の跡部良弼
- 新任の西町奉行堀利堅
両者を爆薬で襲撃、爆死させるといった計画を立てていましたが、この計画は実行されないまま鎮圧となったのです。
その後、平八郎は以前から交流のあった商人美吉屋五郎兵衛の店で匿われることとなりましたが、平八郎が匿われていたことを知らない帰郷中の女中が帰ってきた際、神棚へのお供えしてあった2人分の食事が食べられた状態であったことに気づき、不審に思った女中が大阪城代土井利位の陣屋に通報したため、平八郎は幕府に捕えられ火薬を使用し自決しました。
45歳で亡くなったとされています。
火薬を使用し自決したため顔の判別ができないほどの損傷であったとされ、遺体を安置する牢獄が焼失していたため平八郎の遺体は塩漬けにされ高原溜まで送られました。
平八郎の起こした事件は重大事件であったため、罪が確定するまで1年もかかったとされています。
その間も、平八郎の遺体は塩漬けされ、罪が確定した約1年後に塩漬けにされた平八郎の遺体は引廻しの後、飛田刑場で磔にされ、民衆の前に晒されました。
【いい人エピソード】大塩平八郎の人柄や性格が分かる逸話
大塩平八郎は天保の大飢饉において、飢餓にあえぐ民を救うため
- 自身の蔵書を処分し、その資金を救済にあてる
- 飢饉の根本的解決のため、幕府に対し蜂起する
などを行いました。
平八郎はもともと正義感にあふれ、不正なども許さない性格の持ち主でしたので、危険を犯してでも民を救おうとしました。
しかし、「大塩平八郎の乱」は失敗に終わり、自決し亡くなります。
そんな平八郎の性格をご紹介いたします。
極めて厳格な人間性
平八郎は「友人になりたいと思った相手に対して、なんらかの邪心を抱いているならば、親しくすべきではない」と常日頃から述べていたとされています。
このようなことこから平八郎は厳格な性格であったとされ、自身が開く私塾の講義の際も、門人たちは怖がって平八郎の目を見なかったとされています。
ストイックな性格
平八郎は
- 夕方には就寝
- 午前2時に起床と天体観測
- 潔斎(心身を清める)と武芸の後に朝食
- 午前5時に門弟を集めて講義
これらを行った後出勤していたとされています。
これは毎日行われていたとされ、非常にストイックな性格であったことが分かります。
短気な性格
大坂西町奉行・矢部定謙に招かれ自宅で食事をとっていた際、平八郎は食事中、幕政の腐敗に激怒した際、怒りのあまり歯で砕くことができないとされる硬い魚の頭(カナガシラ)を歯で砕いたとされています。
まとめ 大塩平八郎のドラマや映画や小説はある?
大塩平八郎の生い立ちや経歴、性格やエピソードのご紹介でした。
簡単にまとめると
- 裕福な家庭の出身
- 大坂東町奉行組与力となり汚職事件を数々と解決
- 隠居後は私塾を開く
- 天保の大飢饉において飢餓にあえぐ民を救済
- 大塩平八郎と乱を起こす
- 遺体は塩漬けにされた
- 正義感を持ち非常に厳格で短期な性格であった
大塩平八郎とという人物は、非常に真面目で正義感が強く厳格な人物であったことがわかりました。
このような性格であったからこそ、不正や汚職事件を見逃すことはできず、また天保の大飢饉において民を救済するといった行動を起こせたのです。
しかし、決死の思いで起こした「大塩平八郎の乱は」半日も立たずして鎮圧され、自害し亡くなりました。
遺体が塩漬けにされていたということに驚きましたが日本では戦国時代以降、遺体の腐敗を防ぐために塩漬けにするのは、よくあったとされています。
そんな大塩平八郎が登場する映画は
- 『大塩平八郎』
- 『風雲天満双紙 第一篇』
- 『風雲天満動乱 後編』
があげられます。
小説
- 森鴎外『大塩平八郎』
- 阿部牧郎『大坂炎上 大塩平八郎「洗心洞」異聞』
- 菊池道人『大塩平八郎起つ』
- 渡辺一雄『「乱」大塩平八郎』
などにも大塩平八郎は登場しています。
これを機に大塩平八郎に興味を持った方は映画『大塩平八郎』『風雲天満双紙 第一篇』
や小説『大塩平八郎』『大坂炎上 大塩平八郎「洗心洞」異聞』などを見てみてください。
以上「大塩平八郎の性格や経歴、生い立ちやいい人すぎるエピソード」にご紹介でした。
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