生類憐みの令の内容と狙いを簡単にわかりやすく要約解説!何年になぜ出したか目的は?

かの有名な「生類憐みの令」は江戸時代、江戸幕府5代将軍・徳川綱吉が出した法令です。

徳川綱吉が戌年であったため、人間よりも犬を大事にした悪法と学校で習った方は多いかと思います。

 

しかし調べてみると徳川綱吉が出した「生類憐みの令」は犬を人間よりも大切に扱った悪法などではなく、身分関係なく弱者を保護、全ての生き物を大切に扱おうといった社会福祉のための法律でした。

 

そんな「生類憐みの令」の

  • 内容
  • 目的
  • いつ出したのか

などを簡単に解説していきます。

 

これを読めば徳川綱吉の出した「生類憐みの令」の内容や目的、発布された時期などについて知ることができますよ。


 

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「生類憐みの令」の内容を簡単に要約

「生類憐みの令」とは江戸幕府5代将軍・徳川綱吉がだした法令です。

 

この法令が初めて出されたのは貞享2年(1685年)2月とされ、「生類憐みの令」は1本の成文法ではなく、出されたいくつもの法令の総体とされています。

 

人間よりも犬を優先し、保護した悪法と習った方も多いかと思いますが、実は犬のみならず

  • 傷病人
  • 捨て子
  • 病馬

などを保護していました。

 

その他にも

などの動物愛護を行います。

 

しかし、徳川綱吉による動物愛護はだんだんとエスカレートしていき、遂には

  • 昆虫

までが対象となります。

 

よって食用である魚や鶏も動物愛護の対象となったため、庶民の生活は混乱が生じることとなり、結果、徳川綱吉の行った「生類憐みの令」は悪法と評価されることとなりました。

 

徳川綱吉による「生類憐みの令」は約24年間続きました。

 

この間、「生類憐みの令」を破った者も多くいたとされ、中には蚊を手で殺したという理由で流罪になった武士もいたとされています。

「生類憐みの令」が出された時期について

徳川綱吉によって「生類憐みの令」が初めて出されたのは江戸時代初期にあたる貞享2年(1685年)2月とされています。

 

「生類憐みの令」というのは、さまざまな動物愛護を目的とした法令です。

 

そのため、多くの法令が出されることとなり、それらの法令をまとめて「生類憐みの令」と呼ばれるようになりました。

 

さまざまな法令が出されていたため、明確な時期は分かっていませんが、初めて法令が出されたのは貞享2年(1685年)とされています。

「生類憐みの令」の目的についてわかりやすく解説

「生類憐みの令」が出された理由は、徳川綱吉の世継ぎ誕生の願掛けのために「生類憐みの令」が発布されたと習った方は多いのではないでしょうか。

世継ぎ誕生の願掛けのために「生類憐みの令」が発布

「生類憐みの令」が発布された1つ目の理由として、徳川綱吉の世継ぎ誕生のための願掛けがあげられます。

 

多くの方が、子供に恵まれない徳川綱吉が自身が戌年であったため、犬を大事にすれば子供に恵まれると僧侶に言われたことから「生類憐みの令」が発布されたと習ったのではないでしょうか。

 

確かに、徳川綱吉はなかなか子供に恵まれず悩んでいたとされています。

 

徳川綱吉は1度、側室・伝との間に徳松という男子を授かりました。

 

しかし、徳松は5歳という幼さで亡くなってしまい、以降、なかなか子供に恵まれなかったとされています。

 

こうして世継ぎの誕生に恵まれなかった徳川綱吉に、母・桂昌院は僧・隆光に相談します。

 

すると、隆光は「世継ぎに恵まれないのは、前世で殺生をしていたからだ。徳川綱吉は、戌年だから、犬を大切にすれば世継ぎに恵まれることであろう。」と徳川綱吉に助言したとされ、「生類憐みの令」が発布された。と考えられています。

 

しかし、最近の研究で、「生類憐みの令」が発布されたのは徳川綱吉の世継ぎ誕生の願掛けは関係なかったと判明しました。

実は江戸のモラル改善、社会福祉のために「生類憐みの令」は発布された

最近の研究で判明したのは、「生類憐みの令」は徳川綱吉の世継ぎ誕生のための願掛けに発布されたのではなく、江戸のモラル改善、福祉政策のために発布されたということが明らかとなりました。

 

「生類憐みの令」が初めて発布されたのは江戸時代初期にあたる貞享2年(1685年)のことです。

 

この1年前の貞享元年(1684年)、徳川綱吉の片腕であった老中・堀田正俊が若年寄・稲葉正休に殺害されるといった事件がありました。

 

「生類憐みの令」が発布された天下統一後の約80年後にあたる江戸時代初期という時期は、徳川幕府が安定し、人々の暮らしにも余裕が見えてきた時期でした。

 

しかし、戦国時代の殺伐とした雰囲気は町中に未だに残っており、町中では武士だけではなく

  • 町民、農民同士の喧嘩争い
  • 放火
  • 辻斬り

などがあったとされています。

 

また喧嘩や辻斬りだけではなく、町の片隅では

  • 捨て子
  • 病人の放棄
  • 病馬の放棄

などが横行していたのです。

 

さらに、人口密度の高い江戸の大都市では、残飯の処理などがしっかりと行われておらず、その残飯が野良犬の餌となり、野良犬の増加に繋がっていました。

 

野良犬が増加すると、野良犬に襲われ怪我を負う町民などが続出し、中には野良犬を虐待、殺害といった野蛮な行為を行うものもいました。

 

このように江戸の町中は不衛生であり、またモラルに欠けた人々が多くいたとされています。

 

この時の将軍・徳川綱吉はこのような状況を目の当たりにし、なんとかしなくてはと改善に取り組みます。

 

将軍・徳川綱吉は儒学を学び、学問を愛していた人物でした。

 

そんな徳川綱吉でしたので、儒学を学ばせることによって、江戸の人々のモラルは改善されるのではないかと考えます。

 

そこで

  • 経書の討論を行う
  • 四書や易経の講義を行う
  • 幕府直轄の学問所を作る

など、学問を普及させることに力を注ぎます。

 

しかし、学問が普及したところで、江戸のモラル改善には繋がりませんでした。

 

そのため、徳川綱吉は学問の普及ではなく、動物愛護を目的とした法令「生類憐みの令」を貞享2年(1685年)、初めて発布したのです。

 

初めて出された法令は「将軍御成りの際に道筋に犬猫が出ても苦しからず」であったとされています。

 

この法令は将軍の御成の際、犬や猫を繋いでおく必要はないといった法令です。

 

将軍が御成する際、これまで犬や猫は飛び出さないように鎖に繋がれていたとされています。

 

しかし、この法令では繋ぐ必要性はないと訴えたのです。

 

その後も、徳川綱吉は

  • 貞享4年(1687年)1月1日に病馬を捨てることを禁止する法令を発布
  • 貞享4年(1687年)4月に捨て子を養育することを発布、人が傷つけてしまった鳥類・畜類に関して届け出をするよう通達
  • 元禄4年(1691年)10月24日に蛇使いの興行、犬や猫、鼠に芸を覚えさせ見世物にすることを禁止

するなど多くの動物愛護に関する法令を発布しました。

 

しかし、モラル向上のために作られた「生類憐みの令」をしっかりと守らない者が多くいたとされ、そのため徳川綱吉はより細かく厳しい法令を定めるようになり、遂には

  • 趣味として釣りをすることを禁止
  • 道端で子犬を見つけたら母犬を探し出すこと
  • 馬のたてがみを切ることの禁止
  • 生きている魚、鶏、貝などの販売の禁止
  • 金魚を飼っているものは、いくつ飼っているか届け出を行う
  • 昆虫の殺生の禁止

など非常に細かい禁止事項を追加します。

 

そのため、庶民や武士の生活の混乱に繋がる結果となることとなりました。

 

しかし、このような極端な動物愛護法となった「生類憐みの令」は約24年間続くこととなります。

 

その間、135回もの法令がなされたとされています。

 

徳川綱吉は亡くなる直前、世継ぎ・家宣に対し、自分が亡くなっても動物の愛護を行う「生類憐みの令」は継続するように頼んだとされていますが、徳川綱吉が亡くなった10日後には「生類憐みの令」は廃止されることとなり厳しい法令も順次、廃止されることとなりました。

 

しかし、その中でも

  • 牛馬の遺棄の禁止
  • 捨て子の保護
  • 病人の保護

などはしっかりと継続されることとなったとされています。

 

徳川綱吉が発布した「生類憐みの令」は最終的に極端な動物愛護として悪法と評価されることとなりましたが、「生類憐みの令」が発布された時代背景を知ると、江戸のモラル改善のために行ってきた徳川綱吉の政策は一概に悪法とは思えません。

 

蚊を殺してしまったため流罪となった武士

発布された当初、「生類憐みの令」の法令を守らないものが多くいたとされています。

 

そのため、だんだんと動物愛護の対象は厳しくなり、ついには昆虫の殺生の禁止まで定められることとなりました。

 

伊東淡路守基祐という人物は「生類憐みの令」を守らなかった為に罰を受けた1人です。

伊東淡路守基祐は頬についた蚊をおもわず、手で叩き殺してしまったと記されています。

 

「又淡路守がほうへ蚊ついつく(き)申候を、おもわずしらず手にてうち殺し申し候」

出典元:戸田茂睡著『御当代記 将軍綱吉の時代』

 

その後、蚊を殺した伊東淡路守基祐は流罪になったと記されており、伊東淡路守基祐という武士は思わず蚊を殺したため、流罪となってしまいました。

貞享3年6月6日「小姓伊東淡路守基祐奉職無状にて。南部遠江守直政にあづけらる。」

出典元:『国史大系』(第42巻)

まとめ 徳川綱吉の生涯がわかるドラマや映画、小説は?

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By 土佐光起 – “歴代徳川将軍の肖像”, パブリック・ドメイン, Link

徳川綱吉が発布した「生類憐みの令」の内容や目的、発布した時代についてご紹介いたしました。

 

簡単にまとめると

  • 徳川綱吉が発布
  • 動物愛護を目的とした法令
  • 犬のみならず、捨て子や病人の保護も行う
  • 徳川綱吉が発布
  • 次第に極端な動物愛護法となり、庶民や武士の生活の混乱に繋がる
  • 徳川綱吉亡き後、廃止

 

徳川綱吉によって発布された「生類憐みの令」は実は、江戸のモラル改善、福祉政策の一環として行われた政策でした。

病人の保護や、捨て子の保護など現在では当たり前のことですが、戦国時代の動乱が未だ残る江戸時代初期の大都市、江戸では行われていませんでした。

しかし「生類憐みの令」によって捨て子や病人は保護されるようになったため、日本で初めての福祉政策であると考えられています。

最終的に、極端な動物愛護法となってしまいましたが、徳川綱吉はなんとしてでも江戸のモラル改善を行いたかったのです。

 

そんな「生類憐みの令」を発布した徳川綱吉が登場する有名なドラマは2005年に放送された「大奥〜華の乱〜」です。

 

この作品では

  • 徳川綱吉を俳優の谷原章介さん
  • 側室・伝を女優の小池栄子さん
  • 側室・安子を女優の内山理名さん
  • 堀田正俊を俳優の本田博太郎さん

が演じられています。

 

他にも、男女逆転の江戸を描いた映画「大奥〜永遠〜[右衛門佐・綱吉篇]」では女優の菅野美穂さんが徳川綱吉を演じられています。

 

これを機に徳川綱吉に興味を持った方はドラマ「大奥〜華の乱〜」、映画「大奥〜永遠〜[右衛門佐・綱吉篇]」を見てみてください。

 

以上「生類憐みの令の内容と狙いを簡単にわかりやすく要約解説!何年になぜ出したか目的」についてのご紹介でした。

 

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