「モナ・リザ」の絵画で有名なレオナルド・ダ・ヴィンチ。
ご存知ですよね?
「モナ・リザ」が有名すぎるせいか、漠然と「レオナルド・ダ・ヴィンチは有名な画家だ。」と思われる方が多いと思います。
実はレオナルド・ダ・ヴィンチは画家であると同時に、彫刻家、建築家、科学者でもあったんですよ。
「そうだったの⁉︎名前は知ってたけど、そう言えば何をした人なのか詳しく知らない…。」という方は、ぜひこの記事を読んで下さい。
この記事では、
- レオナルドダヴィンチの生い立ちとは?実在した?
- 【代表作品】レオナルドダヴィンチの生涯の経歴と最後は?
- 【エピソード】レオナルドダヴィンチの人柄や性格が分かる逸話
- まとめ レオナルドダヴィンチはどんな人?おすすめ映画
を紹介します。
これを読めば、レオナルド・ダ・ヴィンチの生い立ちや性格、何をした人なのかがよく分かります。また、レオナルド・ダ・ヴィンチが登場する作品はたくさんありますが、そんな作品を違う見方から楽しめるようになります。
もちろん、「レオナルド・ダ・ヴィンチについて知ってる!」という方も大歓迎です!
それでは、記事をご覧下さい。
レオナルドダヴィンチの生い立ちとは?実在した?
レオナルド・ダ・ヴィンチは、15世紀のヨーロッパで生きた人です。
具体的には、
- 1452年4月15日、フィレンツェ共和国(現在のイタリアの一部)のトスカーナ地方にあるヴィンチ村で生まれる
- 1519年5月2日、フランスで亡くなる
という57年の生涯を生きました。
「フランスは分かるけど、フィレンツェってどこ?」という人は、下の地図を載せてるので確認して下さい。
この時代のイタリアは国として統一されておらず、地図を見れば分かるように、地方の有力な人物と街を中心に都市国家がたくさんありました。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、ヴィンチ村の名家であるダ・ヴィンチ家に生まれました。
ダ・ヴィンチ家は、代々公証人という職業を受け継いでいます。公証人とは、結婚や不動産の売買、遺言などに必要な文書にサインをすることで、その文書が正式な物であるという効力を与える職業です。
現代日本にも存在する職業ですが、15世紀のイタリアでは、公証人はエリートの人しかなれませんでした。
というのも中世ヨーロッパでは、まず庶民は文字の読み書きや計算が出来ません。今のように公的な学校がなくて、教わる機会すらなかったのです。そのため、教育を受けることが出来るのは裕福な家庭の子どものみでした。
また、公証人になるためには、
- 20歳以上であること
- 4年以上ラテン語を勉強したこと
- 書類上の正式な結婚をした両親から生まれたこと
- 公証人として働きたい都市かその周辺の農村地帯の出身であること
- 公証人として働きたい都市の有力な人物の派閥に所属すること
という条件を満たし、数人の証人を立てて証明した上で、
- ラテン語作文
- 口頭試問
の試験を受けなければいけませんでした。
これだけで、庶民が教育を受けることが出来ない状況の中では、これらの試験を突破した公証人たちは、エリート階層であることがよく分かります。
さらに、公証人は都市国家の政府で働くことも多かったため、自然と裕福になります。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、公証人として働く父親のセル・ピエロの長男として生まれました。一方、母親はヴィンチ村に住む農民の娘・カテリーナでした。
レオナルド・ダ・ヴィンチの両親は身分違いである上に、正式な結婚をしていませんでした。
実は、カテリーナはダ・ヴィンチ家に手伝いとして出入りする女性だったのですが、美人な彼女を見たセル・ピエロが恋に落ちてしまったのです。
しかし、セル・ピエロは出世に野心を持っており、カテリーナとの恋やレオナルドの誕生は、まだ26歳だった彼の人生には予定外のことでした。
そのため、
- セル・ピエロは家柄が合う別の女性と結婚し、フィレンチェ共和国の中心市である街・フィレンチェに出て行ってしまう
- カテリーナは持参金(結婚する女性が嫁ぎ先に持って行かなければいけないお金のこと。この時代のイタリアでの相場は、庶民でも今の日本円で約100万円が必要だった。)をダ・ヴィンチ家から持たされて、ヴィンチ村の農家に嫁がなければいけなかった
という道を選び、レオナルド・ダ・ヴィンチの両親は正式な結婚をすることはありませんでした。
正式な結婚をしていない両親から生まれたレオナルド・ダ・ヴィンチは、「庶子(非嫡出子)」という扱いになります。「庶子」の反対語は、正式に結婚した両親から生まれた「嫡出子」です。
ここで思い出してください。
レオナルド・ダ・ヴィンチの父親は代々公証人の家系でしたが、公証人になる条件には「書類上の正式な結婚をした両親から生まれたこと」がありました。
つまり、庶子であるレオナルド・ダ・ヴィンチは、公証人の長男として生まれても、将来に公証人になることは出来ないのです。
セル・ピエロは自分の後を継ぐことが出来ないレオナルド・ダ・ヴィンチをフィレンチェに連れて行かず、ヴィンチ村に残しました。カテリーナも別の男性に嫁ぎ、その男性との間に生まれた子どもたちの世話で手一杯です。
「じゃあ、誰がレオナルド・ダ・ヴィンチを育てたの?」と思いますよね。
彼を育てたのは、父方の祖父であるアントニオと叔父のフランチェスコでした。
ちなみにこの2人は、生涯ずっと無職でした。代々公証人の家系ですが、公証人にはならず、所有している領地から得られる収入だけで暮らしていたのです。
今だと完全なニートに分類されますが、元々財力がある家なので、生活には困らなかったようです。羨ましいな。
今で言うニートでも、アントニオとフランチェスコはレオナルド・ダ・ヴィンチに愛情を注いで育てました。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、両親が居なくても生活には困らず、愛情を持って育ててくれる家族が居る家庭で育ったのです。さらに、公証人になれない息子をセル・ピエロが無理に勉強させることもなかったため、自然豊かなヴィンチ村で、のびのびとして育ったのです。
この子ども時代の自由が環境が、後にレオナルド・ダ・ヴィンチの才能を開花させることになります。
その才能とは、
- 画家
- 彫刻家
- 建築家
- 科学者
- 軍事顧問官
- 解剖学
- 音楽家
としての才能でした。
「ちょっと待って!そんなに色んな分野で活躍できる人なんて居る訳ないじゃん!レオナルド・ダ・ヴィンチって、本当に実在したの!?伝説的人物なんじゃない?」と考えてしまいますよね。
でも、実はこんなにたくさんの分野を掛け持ちして才能を発揮した人は、実はレオナルド・ダ・ヴィンチだけじゃないんです。彼と同じ時代には、他の芸術家や役人、政治家なども、負けず劣らず色々な分野を掛け持ちして活躍していたのです。
その背景には、イタリアで起こった「ルネサンス」という社会の風潮の変化がありました。
ルネサンスとは日本語で「文芸復興」と訳されることが多いです。でも、これだけだと何のことは分かりませんよね。
ルネサンスを簡単にまとめると、
- 1240年頃〜1564年頃までの時代に起きた
- 古代ギリシャと古代ローマ帝国では、医学や数学、哲学、政治学、芸術が発展した
- しかし、古代ギリシャの都市国家の衰退とローマ帝国の滅亡で、学問の発展は途絶えてしまった
- ルネサンス以前、残った書籍を勉強する人は居たが、勉強したことはキリスト教の教会を保護するための手段として使われた
- 13世紀になると、地中海貿易と戦乱が少なかったことから、イタリアの都市が発展し、経済的・政治的に安定して、それぞれの都市が力を持つようになった
- 余裕ができた人々は、それまで滞っていた学問の発展に力を注ぐようになった
- また、学問をキリスト教の教会を保護する以外に、人間にとって役立つことに使えないかを考え、試行錯誤した
という社会の変化のことです。
ルネサンスが起きた時、学問のそれぞれの分野は現代のようにはっきりと分かれていませんでした。そのため、人々は自分の職業に関する学問や自分が興味を持った学問なら、平気で分野を超えて積極的に学び、活用したのです。
実際、レオナルド・ダ・ヴィンチ以外にも、ルネサンス期には分野を超えた専門家たちがたくさんいました。
具体例を挙げると、
- ガリレオ・ガリレイ…子どもの時から天才的な音楽と絵画の才能があり、一時期は画家を目指していた。大学で数学教授をしながらも天文学と科学に興味を持ち、自宅に工場を作って、職人にオリジナルの実験器具を作らせた。ここで作られた望遠鏡を使って天体観測を行い、有名な地動説(地球が太陽の周りを回っているという説)が正しいことを主張した。また文才もあり、天文学・科学についての専門書を、学者向けのラテン語ではなく一般人向けのイタリア語で初めて書いた。
- マキャベリ…フィレンツェ共和国の政治家。元々は傭兵隊長だったが、フィレンツェ公国の有力な家柄・メディチ家が衰退すると、フランスが攻めて来た。小さな都市国家だったフィレンツェ共和国は一たまりもなかった。そしてフィレンツェ共和国政府が発足し、マキャベリもその一員として14年間も政治や外交に力を尽くした。しかし、メディチ家の権力が復活して共和国政治が倒されると、マキャベリは反逆者として牢獄に入れられた。小さな都市国家ゆえに変化する政治状況に翻弄され、マキャベリは当時イタリアの多くの都市国家を支配下に治めていたチェーザレ・ボルジアのような強い君主が国家をまとめて外国から守るべきだと考えた。マキャベリはその主張を『君主論』としてまとめ、政治学者として歴史に名前を残した。また、実際の軍事経験に基づく『戦術論』、歴史の変遷を書いた『フィレンツェ史』、当時のフィレンツェに住む人々の日常を皮肉した喜劇『マンドラゴラ』を執筆した。政治家・政治学者であると同時に、歴史家、劇作家としての一面もあったのだ。
- パラケルスス…有名な錬金術師。当時の錬金術には今で言う化学の内容も一部含まれていたため、化学者でもある。また、ホムンクルスに代表されるように、人間の身体の神秘についても研究する医学学者でもあり、実験に使う鉱物を研究する鉱物学者でもあった。さらに、錬金術には天体の位置や状況が重要だと考えられていたため天体も研究しており、天文学者でもあったと言われる。
など、歴史の授業でも習うような有名人ばかりです。
えっ、知らない?初めて聞いた名前ばかり?
それじゃあこの機会に覚えて下さい。いつかテストの時に役立ちます、多分(オイッ!)。
それはさて置いた、当時は分野を超えた学問の研究なんてする人は当たり前にいて、レオナルド・ダ・ヴィンチが色々な学問に手を出していても別におかしかはないんです。
それに、レオナルド・ダ・ヴィンチはかなりの筆まめで、彼が書いた初稿の一部が残っています。また、納税に必要な書類にも名前が記載されており、年代も後世に伝わる彼の生涯とぴったり一致します。
ここまで証拠が揃っていれば、レオナルド・ダ・ヴィンチは存在したと考えて全く問題ありません。
では次に、青年時代から活躍したレオナルド・ダ・ヴィンチの経歴を見ていきましょう!
【代表作品】レオナルドダヴィンチの生涯の経歴と最後は?
レオナルド・ダ・ヴィンチは、自然豊かなヴィンチ村で、優しい祖父と叔父に育てられました。
彼は小学校にも通いませんでしたが、自然の動植物や人間の様子を見て、家で思い出しながら本物そっくりに描く画才に恵まれました。
そんなレオナルド・ダ・ヴィの絵を見た父親は、フィレンツェで絵画や彫刻の製作を行う有名な工房・ヴェロッキオ工房に入門させます。
ヴェロッキオ工房は有名な超一流の工房で
- 大理石加工
- 金・銀・鉄細工
- 絵画
- 食器
- 彫刻
などを手掛けていました。
また、この工房を経営するアンドレア・デル・ヴェロッキオはレオナルド・ダ・ヴィンチの師匠であり、本職の彫刻家の他に絵画も描くというマルチな職人でした。
レオナルド・ダ・ヴィンチはここで、絵画や彫刻、建築技術を学ぶことになります。
突然ですが、ここからレオナルド・ダ・ヴィンチはたくさんの街に引っ越しをして、引っ越し先で多くの作品を製作します。
これがひたすら文章で書くと大変読みづらい物になるため、
- 第1フィレンツェ時代
- 第1ミラノ時代
- マントヴァ侯国時代
- ヴェネツィア時代
- 第2フィレンツェ時代
- 第2ミラノ時代
- フランス時代
に分けて、主な作品の画像と共にお送りします。
では、レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯をご覧下さい。
第1フィレンツェ時代
- 1466年〜1482年
- レオナルド・ダ・ヴィンチが14歳〜30歳の期間で、いわゆる修行+駆け出し時代
- 有力者はメディチ家当主のロレンツォ豪華王
ヴェロッキオ工房に入門したレオナルド・ダ・ヴィンチは、6年間の修行生活の中で芸術に関する技術を磨きます。
そして1472年、レオナルド・ダ・ヴィンチが20歳の時に一人前の画家として認められ、当時の画家の多くが登録していたサン・ルカ信心会に登録しました。
これでレオナルド・ダ・ヴィンチも師匠のヴェロッキオと同じように親方となったのですが、すぐに独立して工房を構えることはありませんでした。その代わり、ヴェロッキオ工房で師匠の共同制作者として仕事をしました。
この時、レオナルド・ダ・ヴィンチが製作に関わった作品には、
- トビアスと天使
- キリストの洗礼
が挙げられます。
(トビアスと天使 https://www.musey.net/artist/4)
(キリストの洗礼 https://www.musey.net/artist/4)
そんな中、とんでもない事件がレオナルド・ダ・ヴィンチを襲います。
1476年、彼が24歳の時に
- 街に設置されているタンブロー(投書箱)にある密告文が投げ込まれた
- その内容は、レオナルド・ダ・ヴィンチを含む数人が、17歳のヤコボ・サルタレッリという少年に男色行為を行ったというものだった
- 当時、男色行為はキリスト教の教えに反することで、最悪の場合は火あぶりにされた
- レオナルド・ダ・ヴィンチも逮捕され、取り調べを受けたが、証拠不十分で釈放された
という経緯を経た「サルタレッリ事件」です。
この事件、結局犯人も動機も分からない、周囲に迷惑をかけただけの事件で、レオナルド・ダ・ヴィンチも当然不快な思いをしました。
「サンタレッリ事件」に巻き込まれたにも関わらず、1478年にレオナルド・ダ・ヴィンチ個人に仕事の依頼がきました。
フィレンツェ政府から、政庁内にある聖ベルナルド礼拝堂の祭壇画を依頼されたのです。
これにはレオナルド・ダ・ヴィンチの父であるサン・ピエロが仕事の口利きをしたのです。報酬は少額でしたが、レオナルド・ダ・ヴィンチは「東方三博士の礼拝」の製作を始めました。
しかし、レオナルド・ダ・ヴィンチ はこの初仕事を完成させることが出来ませんでした。
というのも
- 24ヶ月以内、遅くとも30ヶ月以内に仕上げること→納得する物ができず、不履行
- もし仕上がらなかった場合には、その作品は同修道院がいかようにも処分できること→修道院が回収した後、ベンチ家に売却された
- 報酬として修道院の土地を受け取る。しかし、3年間は売却できず、3年後に修道院に300フィオリーノで売ることが出来る→完成させられなかったため、受け取れない
- サルヴェストロ・ディ・ジョバンニの娘の結婚持参金150フィオリーノを肩代わりする→お金がなかったレオナルド・ダ・ヴィンチ は支払うことが出来ず、結局修道院が支払った
と契約内容を不履行にしてしまったのです。
これにはきちんと理由があって、レオナルド・ダ・ヴィンチは
- 納得がいく作品を仕上げたい凝り性が出た
- 材料費は自己負担
- ワインや小麦の現物支給を前借りして、困窮した生活をしのぎながら作品を製作していた
という不利な契約内容の中で少しでも良い作品を作りたかったのです。
(東方三博士の礼拝 https://www.musey.net/artist/4)
しかし、そんなレオナルド・ダ・ヴィンチの自信を砕く出来事が起こります。
1481年「東方三博士の礼拝」の制作中に、ロレンツォ豪華王が優れた技術者・芸術家を他国に派遣して、外交関係を安定させる事業を行なっていました。その中の1つに、ローマのシスティーナ礼拝堂内の壁画制作をする画家の派遣事業がありました。
ロレンツォ豪華王がローマに派遣する3人の画家を選びましたが、その選抜メンバーの中にレオナルド・ダ・ヴィンチの名前がなかったのです!
ただでさえ「東方三博士の礼拝」の制作が行き詰っていた時にこの知らせを聞き、レオナルド・ダ・ヴィンチ はすっかり自信を失くしてしまいました。
というより、まだ1つも実績を積んでいないレオナルド・ダ・ヴィンチが選ばれるという自信がどこから来たのかが不思議なんですが…。
さらに、レオナルド・ダ・ヴィンチの師匠・ヴェロッキオも、ヴェネツィアで彫刻を作ってほしいと依頼され、旅立とうとしていました。
仕事も行き詰まり、自信もなくし、師匠も別の土地に行くことになったレオナルド・ダ・ヴィンチ は、フィレンツェには自分の居場所がないと感じて、新たな土地でやり直そうと決意します。
そして、作りかけの「東方三博士の礼拝」を放り出し、遠いミラノ公国を目指して旅立ちました。
第1ミラノ時代
- 1482年〜1499年
- レオナルド・ダ・ヴィンチが30歳〜47歳
- 有力者はイル・モーロ(ルドヴィコ・スフォルツァ)
レオナルド・ダ・ヴィンチはミラノ公国のイル・モーロに自薦状を書きました。
当時のミラノ公国は、強国のフランスと内陸の領土を狙うヴェネツィア共和国とに挟まれ、軍事的な緊張関係にありました。
そこでレオナルド・ダ・ヴィンチは、自分が持つ建築や技術の知識を使って
- 無敵の戦車
- 当時の城の周りに防衛のため張り巡らされている濠の水を空っぽにする方法
- 持ち運べる橋
- 高い所まで岩を飛ばすことが出来る投石機
- 大砲から大量の石飛礫を雨あられと飛ばす臼砲攻撃
のアイデアを持っており、平和な時には
- 建築物
- 水路
- 絵画
- 彫刻
- 青銅の馬
の制作を行うことが出来ることを、自薦状に書きました。
これを読んだイル・モーロは、レオナルド・ダ・ヴィンチの軍事的なアイデア欲しさに彼をミラノ公国に呼び寄せます。
また、レオナルド・ダ・ヴィンチはリラの演奏も得意だったため、音楽好きなイル・モーロと対面した時にリラを演奏して聞かせました。あまりの演奏の上手さにイル・モーロはレオナルド・ダ・ヴィンチのことをすっかり気に入ります。
音楽の才能もあるなんて、どれだけ多才なんでしょうね。もう嫉妬を通り越して、純粋に驚くことしか出来ません…。
さて、レオナルド・ダ・ヴィンチ は無事にミラノ公国に到着し、イル・モーロから経済的な支援を取り付けました(当時の芸術家にとってお金持ちの支援者を持つことは死活問題なのです!)
そして初仕事として、「無原罪のお宿り信心会」に飾る絵画の制作を依頼されます。
しかし、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた「岩窟の聖母」は全体的に謎めいた絵で、顧客側が「イメージに合わない」とクレームを付けてきました。そこでレオナルド・ダ・ヴィンチと弟子は顧客のイメージに沿った絵画を書き直しましたが、今度は制作費が2倍になったことでクレームが来ました。
「岩窟の聖母」の費用は裁判で争うことになりましたが、この裁判はなんと、25年間も続いたのです!ヨーロッパの人って何でこんなに気が長いんでしょう…。日本人なら途中で落とし所をつけそうな歳月です。
(岩窟の聖母 パリ版 https://www.musey.net/artist/4)
(岩窟の聖母 ロンドン版 https://www.musey.net/artist/4)
しかし、ヴェネツィア公国でのレオナルド・ダ・ヴィンチの忙しさは、絵画の制作と裁判からだけではありませんでした。
そもそも彼は、軍事に関する画期的なアイデアと引き換えに、イル・モーロを芸術分野でのパトロンにしたのです。
そのため、自薦状に書いた兵器を作るための設計図を書き、制作のための実験もしました。設計図は現在も残っている物が多いのですが、兵器自体は壮大なアイデアに使える技術が当時はなく、ほとんどの兵器は実現不可能でした。
生まれる時代が早かったんでしょうね。ただ、レオナルド・ダ・ヴィンチは兵器のアイデアを思いついても、人類にとってあまりにも危険な兵器だと思ったら設計図を隠すほどの平和主義者だったので、かえってその方が良かったのかもしれません。
それに、芸術方面の仕事はしていたので、元々の専門分野でない軍事方面で成果を出さなくても問題なかったのでしょう。
実際、この頃には絵画や彫刻はもちろん、様々な分野でレオナルド・ダ・ヴィンチは活躍していました。
具体的には、
- 1490年1月13日に開催された舞台劇「天国の祭典」で舞台総監督になり、観客の記憶に強烈に残るイリュージョンをデザインした
- 自分が考えたアイデアを手稿(メモ)としてまとめ始めた
- 「青銅の馬」の彫刻の設計図を書く
- 絵画でリアルな絵を描くため、人体を解剖して図にまとめた
- 空飛ぶ機械を作る実験を行った
- 周辺の地図を制作した
- 1497年、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の食堂の壁に、有名な「最後の晩餐」を描いた
など、多岐に渡る活動をしました。
こんなに色々な分野に手を出して、突飛なアイデアを出した軍事兵器と機械設計以外は後世に残る仕事をしているんですから、もう呆れて物も言えなくなります。まあ、その分1日に何個も仕事を同時並行で進めて、期限を大幅に過ぎて顧客とトラブルになることも人一倍多かったので、人気者も大変ですね。私は基本が怠け者なので、絶対にこんな暮らしはしたくないです。
ここで注目したい作品は、「最後の晩餐」です。これは、キリストが処刑される前日に弟子たちと夕食を共に取り、「この中に裏切り者がいる。私は捕まり、明日処刑されるであろう。」と予言して、弟子たちが動揺するという聖書の場面が描かれています。
同じ場面はレオナルド・ダ・ヴィンチ以前の画家も描いていますが、彼の作品は他の画家では考えられない特徴があるため、人々に評価されているのです。それは、
- 裏切り者のユダが1人だけ目立つ位置に座っているのではなく、他の弟子たちの間に座っている。
- キリストや弟子たちの表情の違いがはっきりと書き分けられており、それぞれの動作にも躍動感がある
- 他の画家たちは晩餐で食卓に置かれている食事をリアルに再現しているが、レオナルド・ダ・ヴィンチはパンと赤ワインという最低限の物しか描いていない
などが挙げられています。
というか、それまでの絵が私たちからすれば突っ込みたい所が満載なのですが、時代によって芸術感覚は違いますのであえてスルーしましょう。絶対に突っ込みを入れてはいけません、画家が可哀想なので…。
(最後の晩餐 作:レオナルド・ダ・ヴィンチ https://www.musey.net/artist/4)
(最後の晩餐 作:アンドレア・デル・カスターニョ 14世紀頃 http://www.f.waseda.jp/tokuyam/fir.278.htm)
一方、レオナルド・ダ・ヴィンチの私生活にも良い変化が訪れます。
- 生みの母であるカテリーナがヴィンチ村で貧しい生活を送っていたため、ミラノに呼び寄せてカテリーナが亡くなるまでの約2年間一緒に暮らした。この時、レオナルド・ダ・ヴィンチは初めて母親と一緒に暮らすことが出来た。
- 1490年、10歳の少年・サライを小間使い(雑用係のような仕事をする人のこと)にする。彼はイタズラ好きな上に大食らいで、時々レオナルド・ダ・ヴィンチの物を盗む癖があった。しかし「手がかかる子ほど可愛い」のは古今東西同じで、レオナルド・ダ・ヴィンチはサライを解雇することはせず、怒る時には怒ったが、高価な服を買い与えたり、日記にも「困った子だよ。」と書きながら可愛く思っていることを書いたりしている。
- イル・モーロから仕事の褒美としてワインを作ることが出来るブドウ園を送られる。
しかし、1498年の終わり頃から、ミラノ公国の雲行きが怪しくなります。
1499年、ミラノ公国の権力者間の継承問題絡みでフランス王国がミラノ公国に攻め込んできました。そして戦いに負けたイル・モーロは失脚し、レオナルド・ダ・ヴィンチが作りかけていた「青銅の馬」も破壊されてしまいます。
もう今までのようにミラノ公国で活躍は出来ない。
そう考えたレオナルド・ダ・ヴィンチは、新たなる居場所を求めて旅立ちました。
マントヴァ侯国時代
- 1499年〜1500年
- ミラノ公国に居られなくなったレオナルド・ダ・ヴィンチが、有名なパトロン候補の元に身を寄せた時期
- 有力者はイザベラ・デステ
1499年、レオナルド・ダ・ヴィンチは以前から面識があり、芸術家へのパトロン活動を熱心に行なっていたイザベラ・デステを頼ります。
彼女は以前、イル・モーロの愛人であったチェチェリア・ガッレラーニの美しい肖像画「白テンを抱く貴婦人」を見て、自分の肖像画をレオナルド・ダ・ヴィンチに描いてほしいと依頼します。
マントヴァ侯国に腰を落ち着けた訳ではなかったレオナルド・ダ・ヴィンチは、「いずれ描く」と約束し、デッサンを1枚残して旅立ちました。しかし彼は一向にイザベラ・デステの肖像画を描こうとせず、イザベラは何年間も催促の手紙を送っています。結局レオナルド・ダ・ヴィンチがこの約束を果たすことはありませんでしたが…。
人との約束は守りましょうということよりも、嫌がっている人に無理矢理仕事をやらせようとするのは逆効果だという教訓になりそうな話ですよ、世のお偉いさん方!
(白テンを抱く貴婦人 https://www.musey.net/artist/4)
ヴェネツィア時代
- 1500年のみ
- ミラノ公国での経験を活かし、レオナルド・ダ・ヴィンチは軍事顧問就任を狙った
- 共和国のため特定の有力者は不在
- 隣のオスマン帝国との戦い、他のイタリア諸侯への侵略を画策していた
レオナルド・ダ・ヴィンチは、当時軍事顧問が高い地位を得ていたヴェネツィア共和国で、軍事顧問就任を希望しました。
ここで思い出して下さい。レオナルド・ダ・ヴィンチは新兵器のアイデアこそ豊富でしたが、当時の技術が彼に追いつかず、実現しないアイデアばかりでした。
今回も同じことを繰り返し、1年も経たないうちにヴェネツィア共和国を去っています。もうこれで軍事方面は向いてないと学んで下さいよ!
第2フィレンツェ時代
- 1500年〜1507年
- レオナルド・ダ・ヴィンチが48歳〜55歳の壮年期
- 有力者はチェーザレ・ボルジア
そんなこんなで故郷に戻ったレオナルド・ダ・ヴィンチは、ミラノ公国での活躍が噂になり、すっかり有名人になっていました。
しかし、フィレンツェの街はすっかり様変わりしていました。街の有力者だったメディチ家は政変で街を追われ、教皇アレクサンドル6世の庶子であるチェーザレ・ボルジアが政権を握っていました。また、レオナルド・ダ・ヴィンチの画家仲間であったギルランダイオとヴェロッキオは既に亡くなっていました。同じ画家仲間であったロレンツォ・ディ・クレーディとボッティチェリは、チェーザレ・ボルジアが来る前に政権を握った聖職者サヴォナローラの影響を受け、画風がすっかり変わったことで世間から忘れ去られていたのです。
一方、18年ぶりに再会した父のセル・ピエロは、74歳になっていたにも関わらず、仕事も私生活も現役でした。この時、レオナルド・ダ・ヴィンチ は父の4番目の妻が生んだ末息子、つまり異母弟に初めて会いましたが、この末息子、この時わずか2歳です。
46歳違いの兄弟って…。お父さん元気過ぎ…。
レオナルド・ダ・ヴィンチが帰郷した時、セル・ピエロはサンティッシオ・アンヌンツィアータ教会で顧問をしていましたが、この教会は祭壇画を制作している途中でした。レオナルド・ダ・ヴィンチがこの祭壇画制作に興味を持ったため、セル・ピエロは息子が祭壇画の制作をすることは出来ないか教会に掛け合いました。
しかし、この祭壇画は既にフィリピーノ・リッピという画家に教会が制作を依頼し、下書きを描いている途中だったのです!フィリピーノ・リッピはレオナルド・ダ・ヴィンチが祭壇画の制作をしたがっていると聞くと、自分からレオナルド・ダ・ヴィンチに仕事を譲りました。
何て良い人なんでしょう!
しかもこのフィリピーノ・リッピという人は、前回レオナルド・ダ・ヴィンチがフィレンツェにいた時に未完成にしてしまった作品「聖母子と聖人たち」「東方三博士の礼拝」を完成された人なのです!
他にもレオナルド・ダ・ヴィンチが依頼された仕事でありながら未完成にしてしまった作品をたくさん完成させているため、画家よりも仕上げ人として名前が残っています。
良い人過ぎますよ!
セル・ピエロの口添えと穏やかで控え目なフィリピーノ・リッピの性格のおかげで、レオナルド・ダ・ヴィンチは久しぶりにフィレンツェでの仕事を手に入れることが出来ました。
しかし、ちょうどその頃レオナルド・ダ・ヴィンチは数学の研究にハマってしまい、祭壇画の制作に気が乗らなくて、期限を引き延ばした挙句仕事を放り出してしまいます。結局、祭壇画の仕事はフィリピーノ・リッピに戻り、彼が祭壇画を完成させました。って、オイ!周りを振り回し過ぎでしょ!尻拭いばかりしてるフィリピーノさんも良い人過ぎて損してない?
とにかく、こんな調子でレオナルド・ダ・ヴィンチは
- 「バーリントン・ハウス・カルトン」
- 「アンギアーリの戦い」
を未完成にする一方で、チェーザレ・ボルジアに依頼された
- 建築技師総監督として各地に派遣
- その中で各地の地形を調べ、地図を作成
などの仕事をこなしました。
こんなに仕事があったから絵が完成できなかったのかも…。
でも、この時期に「モナ・リザ」をほとんど完成させていますし、水流や数学、解剖学、鳥の飛翔の研究をしていますので、自業自得な面もあったのです。
(バーリントン・ハウス・カルトン https://www.musey.net/artist/4)
(モナ・リナ https://www.musey.net/artist/4)
私生活では、
- 事あるごとにライバルである画家・ミケランジェロと対立
- 1507年に秘書としてメルツィを弟子にする
- 1504年に父セル・ピエロが死去
- 「岩窟の聖母」訴訟問題が遂に解決
- 1507年に叔父フランチェスコが「全ての財産をレオナルド・ダ・ヴィンチに譲る」と遺書を残して亡くなると、異母弟妹12人と訴訟問題になった
などの変化が起こりました。
故郷での思わぬトラブルに疲れたレオナルド・ダ・ヴィンチは嫌気が差し、再びミラノ公国へと行きます。「ってアンタそこからも逃げてるでしょ⁉︎」ってツッコミはしてはいけないんでしょうね…。もう常人には分からない思考回路です…。
第2ミラノ時代
- 1508年〜1513年
- レオナルド・ダ・ヴィンチが56歳〜61歳の間
- 理解あるパトロンのおかげで、少し自分の時間が持てるようになる
- 有力者はミラノのフランス人総督のシャルル・ダンボワーズ
ミラノでレオナルド・ダ・ヴィンチは好きな仕事をさせてくれるシャルル・ダンボワーズの支援の元で、
- 解剖学に傾倒して死体を解剖し、デッサンに描いた
- よく山登りをして風景画を描いた
- 作品「レダと白鳥」を制作
など思う存分好きなことをしました。
しかも
- 生活するのに十分な年金
- 没収されていたぶどう園の返還
- 水路の使用料の利権
まで付いていました。何度も言いますが、羨ましいなっ!
1511年、パトロンのシャルル・ダンボワーズが亡くなると、ローマから仕事の依頼が来ました。それが終わると、今度は最後のパトロンであるフランソワ1世に招待され、フランスへ赴きます。
何度も都市を行ったり来たりしたレオナルド・ダ・ヴィンチの旅もここでようやく落ち着きます。
長かった!書くのが!
(ウィトルウィウス的人体図 https://www.musey.net/artist/4)
フランス時代
- 1516年〜1519年
- レオナルド・ダ・ヴィンチが64歳〜67歳の間
- 壮年期を過ぎ、悠々自適な生活を送る
- 有力者はフランス王国国王フランソワ1世
フランソワ1世は尊敬するレオナルド・ダ・ヴィンチと数日おきに会話することを楽しみ、特に作品制作の依頼はしませんでした。
この頃のレオナルド・ダ・ヴィンチは、
- 「フィレンツェの女性」(モナ・リザ)「若い洗礼者ヨハネ」「聖アンナの膝の上にいる聖母子」などの絵画を完成させる
- 「アルジャンタンの舞踏会」「マリニャーノ先勝記念イベント」「皇太子洗礼式&教皇レオ10世の甥とフランス王の姪の結婚式」「フランス王への感謝の意パーティ」など、祭典のプロデュースを行う
- 植物や動物の動き、新しい機械の設計図、水の性質に関する考察などを手稿にまとめる
など、それまでの人生で取り組んだことを改めて整理することに精を出しました。
(若い洗礼者ヨハネ https://www.musey.net/artist/4)
(聖アンナの膝の上にいる聖母子 https://www.musey.net/artist/4)
そして1419年5月2日、遺書を書いて数日後に亡くなります。
67年の人生を閉じたレオナルド・ダ・ヴィンチを看取ったのは、愛弟子のメルツィでした。また、メルツィはレオナルド・ダ・ヴィンチの遺書に忠実に行動し、遺産配分も正確に行いました。
しかし、長い年月が経つうちにレオナルド・ダ・ヴィンチの作品は行方不明になったり、思わぬ所から出てきたりしています。
それでも、現在私たちが目にする作品に感銘を受けるのは、レオナルド・ダ・ヴィンチの天性が余す所なく表れており、彼の作品を守り抜いた人々の想いがあるからなのです。
【エピソード】レオナルドダヴィンチの人柄や性格が分かる逸話
さて、まさしく天才と呼ばれるに相応しい人生を送ったレオナルド・ダ・ヴィンチですが、実際に彼はどんな性格の人間だったのかを見ていきましょう!
今まで見てきた経歴からも分かるように、レオナルド・ダ・ヴィンチは、
- マイペース
- 興味を持った物にはトコトン熱中する
- 顧客の要望よりも自分の美的感覚を重視する
- 自分が良いと思った物には強いこだわりを見せる
- 周りを振り回すことが多く、トラブルになることが多かった
- 新しい物好き
という性格でした。一方で、
- 変わった格好の人を見つけると、こっそり付いて行ってスケッチの対象にしていた
- 飽きっぽい
- 女性にも男性にも興味が持てず、生涯独身だった
- 彫刻よりも絵画を重視し、彫刻作品を主に作っていたミケランジェロと事あるごとに対立していた(ちなみにミケランジェロは22歳年下です…)
- いたずら好き
- 仕事を始める前から作品が完成した時の心配をする
- おしゃれ好きで、流行に流されない独自のファッションを意識していた
- 自分に近しい人々のことは大切にした
という一面もありました。
これは
- 子どもの時から奇妙な格好の人を観察し、家に帰ってから絵にする趣味があった
- 絵画だけでなく彫刻や建築、数学、解剖などに興味を持ち、その時に興味を持つ分野の研究を始めたら平気で仕事を放棄していた
- 子どもの頃に父親や母親がいる家庭に縁がなく、同性愛を疑われたことから恋愛や結婚にはこりごりしていた様子
- ミケランジェロが作ったダビデ像を政庁内のどこに置いたら良いのかという議論で、レオナルド・ダ・ヴィンチが提案した場所が気に入らなかったミケランジェロと口論になり、結局ミケランジェロの希望が通った
- レオナルド・ダ・ヴィンチは彫刻家の仕事を「汗と埃にまみれて、まるでパン職人のような仕事だ」と批判し、ミケランジェロは絵画の仕事を「女子供に似合いの芸当だ」と批判した
- ある日奇妙なトカゲを見つけたレオナルド・ダ・ヴィンチは、そのトカゲの背中に染色した鱗をたくさん貼り付け、友人たちに見せて驚かせた
- 元々美形の顔立ちをしており、「芸術家とは自らも美しくあらねばならない」という信念を持っていたため、常に流行に流されない、自分にとっては洗練されていると感じたファッションを身につけていた
- いたずら好きのサライはもちろん、自分に仕えてくれたメルツィや使用人のヴィラニスとマトゥリーナ、異母弟妹たちに惜しげもなく遺産を分けた
というエピソードからも分かります。
天才で変わり者のイメージばかり先行するレオナルド・ダ・ヴィンチですが、それ以外では人々に慕われる優しくて好奇心が旺盛なだけの人物でした。
そう思うだけで、何となく別の世界の人だと感じていたレオナルド・ダ・ヴィンチが、何だか身近な人に思えてきませんか?
まとめ レオナルドダヴィンチはどんな人?おすすめ映画
レオナルド・ダ・ヴィンチの経歴や作品、面白いエピソードについて紹介しました。
ここでレオナルド・ダ・ヴィンチについて簡単にまとめておきますね。
レオナルド・ダ・ヴィンチは画家であると同時に、彫刻家、建築家、科学者でもあった
興味が移りやすく、一旦研究にのめり込むと作品制作の仕事を放り出し、顧客とトラブルになることが多かった
そのため、自分が快適に仕事が出来る環境を求めて、様々な都市を移動していた
しかし母親や弟子、使用人など、身近な人には優しい人柄だった
天才で破天荒な性格だと思われているレオナルド・ダ・ヴィンチも、身近な人々に慕われる性格の1人の人間だったんですね。
そんなレオナルド・ダ・ヴィンチのことをもっと知りたいという方は、映画で彼の世界観にどっぷり浸かってみませんか?
「レオナルド・ダ・ヴィンチ 美と知の迷宮」
レオナルド・ダ・ヴィンチの作品と彼についての研究を行う第一人者の解説を通して、レオナルド・ダ・ヴィンチの人生を再現したドキュメンタリー映画です。フィクションの誇張がなく、実在のレオナルド・ダ・ヴィンチの姿に迫ることが出来ます。
「ダ・ヴィンチ・コード」
世界中でセンセーショナルを起こした人気映画です。レオナルド・ダ・ヴィンチの作品の謎を追う推理物ですが、美術についての研究に興味を持つきっかけにもなります。レオナルド・ダ・ヴィンチの人生だけでなく、彼の作品に込められた想いを読み解いてみては如何でしょう?
難しいことを考えずにレオナルド・ダ・ヴィンチに軽く触れてみて下さい。
以上「レオナルドダヴィンチの性格と経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い」でした!
参考文献
レオナルド・ダ・ヴィンチ https://www.musey.net/artist/4
フィレンツェだより 番外編 http://www.f.waseda.jp/tokuyam/fir.278.htm
『イラストで読む レオナルド・ダ・ヴィンチ』 著:杉全 美帆子 出版:河出書房新社
『レオナルド・ダ=ヴィンチ ルネサンスと万能の人 (新・人と歴史 拡大版)』 著:西村 貞二 出版:清水書院
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