安徳天皇の性別はかわいい女の子との説がある?最後のエピソードや伝説とは

あなたは安徳天皇という人物をご存知でしょうか。

平清盛の娘・徳子と高倉天皇の間に誕生した第一皇子で、1歳2か月で即位し幼帝となりました。

しかし、かの有名な源平合戦の最期の戦い、壇ノ浦の戦いにおいて平氏方として母・平徳子とともに入水し、わずか6歳で生涯を閉じます。

そんな悲劇の生涯を送った安徳天皇の

  • 生い立ちと家族
  • 経歴
  • 死因
  • 墓の場所
  • 女の子説

についてご紹介していきます。

これを読めば安徳天皇の生い立ちや経歴、死因や墓の場所、女の子説について知ることができますよ。

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安徳天皇の生い立ち。家族や母親は?

安徳天皇は平安時代末期にあたる治承2年(1178年)11月12日、

  • 第80代天皇であった父・高倉天皇
  • 母・平徳子(後の建礼門院)

の第一皇子として誕生しました。

安徳天皇が誕生した平安時代末期は、平家全盛期とされています。

平氏の全盛期に誕生

安徳天皇が誕生する約20年前、

  • 保元元年(1156)7月に後白河天皇と崇徳上皇争いである保元の乱
  • 平治元年(1160)12月9日に二条親政派と信西との争いである平治の乱

がありました。

このように朝廷と貴族の間で武力闘争が行われていた際、平家の平清盛は対立関係であった後白河上皇と二条天皇の間で友好関係を築き、皇族とかかわりを深めるため摂政・近衛基実と姻戚関係を結ぶなど行っていました。

安徳天皇の母・平徳子は平清盛の娘であり、平徳子もまた、朝廷との関係を深めるために高倉天皇の妻となったのです。

皇族や貴族との間で深い関わりを持った平清盛は地位を高めていくと、それに伴い平氏一門の地位も上昇していくこととなり、朝廷内で発言権なども持つようになりました。

このように平家一門が活躍した平安時代末期は平家全盛期であり、おごり高ぶった平家の平時忠は「平家にあらずんば人にあらず」と述べたとされています。

つまり、平家でない者は人間ではない。という意味です。

ですが、このような平清盛の行動に対し、朝廷は不満を抱くようになります。

平清盛と友好関係であった後白河法皇も、平清盛に不満を抱き始めて遂に、平清盛と後白河法皇は対立関係となってしまいました。

こうして治承2年(1178年)、ちょうど安徳天皇が誕生したこの年、平清盛は対立していた後白河法皇を幽閉し、後白河法皇の院政を完全に停止させたのです。

当時、天皇であった安徳天皇の父・高倉天皇は治承2年(1178年)11月12日に誕生した安徳天皇を12月15日に立太子させ、治承4年(1180年)4月22日、わずか1歳2か月という幼さで即位させました。

安徳天皇の経歴。最後や死因。遺体や墓の場所は?

こうして第81代天皇となった安徳天皇でしたが、非常に幼い幼帝であったため政治など行うことはできるはずがありません。

そのため天皇の代わりに補佐役が必要となりました。

そこで補佐役となったのが平清盛でした。

安徳天皇の母・平徳子は平清盛の娘であるため、安徳天皇にとって平清盛は祖父となります。

安徳天皇の補佐役となった平清盛は、安徳天皇が即位する以前に、後白河法皇を幽閉させ院政を停止していたので、これによって好き勝手に政治を行うことができました。

安徳天皇は平家にとって政治台頭の切り札となったというわけです。

こうして安徳天皇の補佐役となった平清盛は即位した年に、平安京から都を現在の神戸市である福原に遷都するという計画を建て始めます。

計画通り福原に遷都されましたが、結局半年ほどで京都に還幸されています。

この頃、幽閉されていた後白河法皇の第三皇子・以仁王平家討伐を計画し始めます

この以仁王という人物は後白河法皇の第三皇子であったため、次期天皇となれる人物でした。

しかし、安徳天皇が即位してしまったため皇位継承は絶望的となったのです。

これに不満を抱き平家討伐の計画をたてていた以仁王は治承4年(1180年)

  • 安徳天皇の廃位
  • 新政権の樹立
  • 平氏討伐

の計画を発します。

この計画は源氏に伝えられ、全国各地で源氏と平氏の争いが勃発しました。

そんな中、治承5年(1181年)安徳天皇の後ろ盾となっていた平清盛が64歳で亡くなります。

これにより、安徳天皇の補佐役となるのは父である高倉天皇でしたが、父・高倉天皇もすでに亡くなっていたためサポート役は不在となってしまいました。

この安徳天皇の不運をチャンスと感じた源氏は京都に向け挙兵します。

寿永2年(1183年)ついに、安徳天皇のいる京都にまで源義仲が迫っていたため、安徳天皇は平氏一門に連れられ現在の香川県高松市の東北に位置する屋島へと逃れることとなりました。

この際、平氏は天皇の即位に必要となる三種の神器

  • 八咫鏡
  • 八尺瓊勾玉
  • 草薙剣

も一緒に持ち出したとされています。

2人の天皇の擁立

こうして安徳天皇が屋島へと逃れたため京都では天皇不在となってしまいました。

そのため、急遽安徳天皇に代わる天皇として元暦元年(1184年)7月28日、後鳥羽天皇が天皇即位に必要となる三種の神器がないまま即位します。

後鳥羽天皇が即位したことによって、日本史上初めて同時に2人の天皇が擁立されることとなったのです。

屋島の戦いで敗れる

一方、西国の屋島へと逃れていた安徳天皇と平家一門は屋島の高台にある場所に行宮を置きました。

しかし、源範頼軍、源義経軍が屋島へと追いつくと、平氏との間で

  • 寿永3年(1184年)2月7日、一ノ谷の戦い
  • 元暦2年(1185年)2月19日、屋島の戦い

が勃発します。

どちらも平家は源氏に敗れ、屋島の戦いの後、安徳天皇と平家一門は四国における拠点を失うこととなりました。

この頃になると九州地方にいた平氏も源氏に抑えられていたため、平家一門と安徳天皇らは、現在の山口県下関市の南端にある彦島で孤立状態となります。

平家一門が孤立状態となっている間も、源氏の源義経は平家討伐に向け水軍を編成するといった準備を進めていました。

そして寿永4年(1185年)4月、平氏と源氏の最期の戦いである壇ノ浦の戦いが現在の山口県下関市において行われます。

壇ノ浦の戦いで敗れる

この戦いにおいて源氏の源義経は

  • 摂津国の渡辺水軍
  • 伊予国の河野水軍
  • 紀伊国の熊野水軍

を味方につけ830艘の水軍を用意しました。

それに対し平氏軍は水軍500艘。

圧倒的に源氏の勝利が目に見えていました。

また九州地方にいた平氏は源氏の源範頼に抑えられていたため、平家一門と安徳天皇らは完全に取り囲まれる形となっていたのです。

こうして行われた海上戦である壇ノ浦の戦いは、はじめ関門海峡の海流の流れを熟知していた平氏方が源氏をおしていましたが、途中から潮の流れが代わり平氏は源氏の総攻撃を食らうこととなります。

総攻撃を受けた平家一門は壊滅状態となり、敗北を悟った平家一門は次々と入水を図りました。

つまり、海に身を投げ自殺したということです。

安徳天皇とともにいた安徳天皇の祖母・平時子(二位尼)も死を悟ると、三種の神器のうちの

  • 八尺瓊勾玉
  • 草薙剣

を身に着けると、安徳天皇を抱きかかえたとされています。

これに対し、幼い安徳天皇は「尼ぜ、わたしをどこへ連れて行こうとするのか」と問いかけたとされます。

すると、祖父・平時子は「極楽浄土という結構なところにお連れ申すのです」と述べました。

この時まだ安徳天皇は6歳であったとされています。

しかし、死を悟った祖母の言葉を受け止めると、小さな手を合わし伊勢神宮のある東の方角を向き遙拝すると、続いて西の方角を向き念仏を唱え始めました。

祖母はこのような安徳天皇を見て「波の下にも都がございます」と述べ、安徳天皇を抱き、三種の神器とともに入水したとされています。

こうして安徳天皇は6歳4か月という若さで崩御しました。

よって死因は入水自殺ということとなります。

ちなみに、安徳天皇の母・平徳子も海に身を投じましたが、源氏方に引き上げられたとされています。

また三種の神器のうち

  • 八咫鏡
  • 八尺瓊勾玉

は源氏方に回収されましたが、草薙剣は海に沈み見つからなかったとされています。

安徳天皇の遺体と墓について

海に沈んだ安徳天皇の遺体は壇ノ浦の戦いの翌日、網にかかっていたとされ、漁師たちに引き上げられると御旅所に一時安置されたとされています。

源頼朝は壇ノ浦の戦いの1年後に安徳天皇の怨霊を鎮めるため現在の山口県下関市に阿弥陀寺御影堂を建立しました。

しかし阿弥陀寺御影堂は明治時代の廃仏毀釈運動によって今では赤間神社と名を変えています。

この赤間神社に安徳天皇阿弥陀寺陵があります。

【伝説】安徳天皇の性格や性別女の子説のエピソード

安徳天皇はわずか6歳という若さでこの世を去りました。

しかし、その生涯は平家と源氏との争いに巻き込まれた生涯でした。

壇ノ浦の戦いにおいて死を悟った祖母・平時子は安徳天皇を抱きかかえ入水を図ります。

その直前、安徳天皇は幼いながらにして、伊勢神宮のある東の方角を向き遙拝、また西の方角を向き念仏を唱えるといった行動を起こしており、幼いながら自身の死を悟っていたのではないでしょうか。

親政を行うことのできなかった安徳天皇でしたが、もし自身の意見をしっかり発言するくらいの年齢であったのなら、歴史は大きく変わっていたに違いありません。

安徳天皇の女の子説

平安時代、皇后・中宮が出産した際、甑(こしき)を屋根から投げるといった習慣がありました。

誕生した子供が

  • 男なら甑(こしき)は南側
  • 女なら甑(こしき)は北側

に投げなければいけなかったとされています。

安徳天皇が誕生した際もこの習慣が行われていました。

しかし、安徳天皇が誕生した際甑(こしき)は誤って北側に落されたとされ、甑(こしき)を拾いもう一度、執り行われたと『平家物語』巻3に記述されています。

このような記述が疑って見られることとなり、安徳天皇は実は女の子であったのでは?という女の子説が誕生しました。

また京都市東山区にある泉湧寺に残されている安徳幼帝の肖像も女の子のように見えるとされています。

ですが安徳天皇が女の子であったという証拠はなく、男の子であったとされています。

まとめ 安徳天皇のドラマや映画や小説はある?

安徳天皇の生い立ちや経歴、死因や墓の場所、女の子説についてご紹介いたしました。

簡単にまとめると

  • 高倉天皇と平清盛の娘・徳子の第一皇子
  • わずか1歳2か月で即位
  • 壇ノ浦の戦いにおいて入水し6歳で亡くなる
  • 女の子説があるが性別は男

安徳天皇はわずか1歳2か月で即位するも、源氏と平家の争いに巻き込まれ6歳で崩御しました。

悲劇の生涯を送った安徳天皇が、自身の意見を発言することのできる年齢であったのであれば、壇ノ浦の戦いにおいて平家が勝利していれば、日本の歴史は大きく変わることとなったのではないでしょうか。

そんな安徳天皇が登場する有名なドラマは大河ドラマ「平清盛」です。

この作品において

  • 安徳天皇を子役の田中悠太さん
  • 平清盛を俳優の松山ケンイチさん
  • 高倉天皇を俳優の千葉雄大さん
  • 平徳子を女優の二階堂ふみさん

が演じられました。

また宇月原晴明さんの小説『安徳天皇漂海記』にも安徳天皇が登場しています。

これを機に安徳天皇に興味を持った方は大河ドラマ「平清盛」、小説『安徳天皇漂海記』を見てみてください。

以上「安徳天皇の性別はかわいい女の子説、最後のエピソードや伝説」についてのご紹介でした。

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