あなたは平徳子(建礼門院)という女性をご存知でしょうか?
平安末期に活躍した平清盛の娘で、高倉天皇の皇后となった後、安徳天皇の母親となりました。
壇ノ浦の戦いにおいて源義経軍に追い詰められ、平家一門は入水し滅亡しましたが、徳子は生き残り出家したのち生涯を閉じました。
そんな悲劇の女性、平徳子はどのよな人物であったのでしょうか。
今回は平徳子の
- 生涯
- 性格
- 子供
- 右京大夫集
についてご紹介いたします。
これを読めば平徳子の生涯や性格、子供や右京大夫集について知ることができますよ。
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— バニラ@窪田正孝 (@Masataka_K_N) 2015年1月25日
平徳子(建礼門院)の経歴と最期の死因。建礼門院の読み方や意味は?
平徳子(たいらんのとくこ)は平安時代末期にあたる久寿2年(1155年)
- 父・平清盛
- 母・平時子
の娘として誕生しました。
同母兄弟には
- 平宗盛(1147~1185)
- 平知盛(1152~1185)
- 平重衡(1157~1185)
がいました。
後に徳子は治承5年(1181年)11月25日に院号宣下を受け建礼門院(けんれいもんいん)と呼ばれることなります。
父の平清盛は
- 保元元年(1156年)7月に起きた保元の乱
- 平治元年(1160年)12月に起きた平治の乱
に勝利し、武士としては初めて公卿となることができた人物です。
公卿となった父・平清盛は朝廷内で発言権を持ち、軍事・警察権を掌握していました。
仁安元年(1166年)10月10日、憲仁親王(後の高倉天皇)が立太子させられ、その2年後の仁安3年(1168年)2月19日、わずか8歳で即位します。(高倉天皇)
高倉天皇の院政を行ったのは、その父である後白河上皇でした。
この高倉天皇の即位を実現させたのは平清盛の支援もあったため、後白河上皇は平清盛を優遇し、大将を経ずに内大臣に就任させるなどを行います。
平清盛と後白河上皇は仲のいい関係に見えましたが、実は後白河上皇の院政内部では
- 院近臣
- 堂上平氏
- 武門平氏
- 摂関家
などが対立しており、常に分裂の危機があったとされています。
また嘉応2年(1170年)7月頃から平氏と摂関家が衝突するといった事件(殿下乗合事件)もあり、平家と後白河上皇、また摂関家などの間では常に緊張状態が続いていました。
高倉天皇の妃となる
そんな中、承安元年(1171年)高倉天皇が元服を迎えます。
これに伴い、父の平清盛はもっと天皇家と関わりを深くするため、娘である徳子を高倉天皇に嫁がせようと考えました。
平清盛だけではなく、高倉天皇の父・後白河上皇もまた平清盛なしでは政治基盤の強化は図れないとし、双方の利害関係が一致したため、同年12月2日に徳子は入内し、高倉天皇の后となりました。
平清盛による入内と考えられていますが、実際の入内の背景は、平清盛と後白河上皇の対立を避けたいと願う、後白河上皇の妃・平滋子(建春門院)の意向が反映されたとされています。
こうして高倉天皇の妻となった徳子でしたが、子供はなかなかできませんでした。
こうしている間に夫である高倉天皇は
- 乳母との間に功子内親王
- 小督局との間に範子内親王
2人の子供を授かります。
これに対し、徳子の父・平清盛は激怒し、小督局を追放したとされていますが、本当かどうかはわかっていません。
高倉天皇と徳子の間になかなか子供ができなかったのは、2人の関係が冷め切っていたからとも考えられますが、天皇が側室を持つことは一般的でもあり、また『建礼門院右京大夫集』では2人の関係性は不仲であったといった記述もないため、不仲であったためなかなか子供ができなかったとは考えられません。
安徳天皇が誕生する
しかし、結婚から7年後の治承2年(1178年)5月24日、徳子はついに高倉天皇の子供を妊娠します。
ようやくできた我が子に大喜びした徳子や朝廷は、出産のための祈祷に明け暮れたとされ、後白河上皇も祈祷を行っていたとされています。
こうして同年、11月12日に徳子は言仁皇子(後の安徳天皇)を出産し、立太子しました。
安徳天皇が即位する
その翌年の治承3年(1179年)11月14日、父・平清盛は後白河院を幽閉するといったクーデターを起こします。
仲のいい関係でありましたが、ついに平清盛と後白河院は対立関係となったのです。
このクーデターは治承三年の政変と呼ばれ、後白河院は幽閉されたため、後白河院による院政は完全に停止となりました。
そのため翌年の治承4年(1180年)2月21日に高倉天皇はまだ幼い我が子・言仁皇子(後の安徳天皇)に譲位し、1歳2か月の言仁皇子が即位しました。(安徳天皇)
こうして即位した安徳天皇の院政は父である高倉上皇が行うようになり、徳子も政務に関わるようになりました。
しかし、院政を開始したばかりの夫・高倉上皇は病に倒れ、治承5年(1181年)正月14日、21歳で崩御しました。
この時、未亡人となった徳子を亡き夫の後白河院の後宮にしようという提案が持ち込まれます。
夫が亡くなったから、義父の妻になるなんてとんでもない提案であったため、さすがに徳子はこれを拒否、後白河院もこの提案を辞退したという逸話が残されています。
平家討伐が行われる
院政を行っていた高倉上皇が崩御してしまったため、平清盛と対立し、幽閉されていた後白河院が院政に復活することとなりました。
これに対し、平清盛は自身の娘・徳子は安徳天皇の母であるということを盾に、再び平家の権勢を立て直そうとしますが、治承5年(1181)2月4日に平清盛は熱病によって亡くなってしまいました。
またこの頃になると後白河天皇の第三皇子・以仁王が
- 安徳天皇の廃位
- 新政権の樹立
- 平氏追討の計画
を全国の武士に発していました。
この以仁王とは後白河天皇の第三皇子であり、安徳天皇が即位しなければ本来、天皇となれた人物です。
そのため安徳天皇の即位には以前から不満を抱いており、このような計画を打つ出したのでした。
これによって全国各地で平氏討伐を目的とした争いが勃発することとなりました。
夫・高倉天皇と父・平清盛を亡くした徳子にはこの対立を抑える力はなく、ついに京都にいる平家一門と安徳天皇の討伐のため寿永2年(1183年)4月、源義仲が上洛します。
そのため、徳子は
- 兄の平宗盛
- 近衛基通
- 安徳天皇
- 平家一門
とともに西国へと逃れることとなりました。
この際、天皇即位に必要な三種の神器も持ち出したとされています。
朝廷はすぐさま、平家討伐と三種の神器の奪還を源氏に命じると、福原まで逃げていた徳子らの元に源範頼・源義経軍が追いつき、治承8年(1184)2月、平氏と源氏は一ノ谷で争うこととなりましたが、源氏に敗走し、徳子らは現在の高松市である屋島に陣を構えました。(一ノ谷の戦い)
しかし、元暦2年(1185年)2月19日に徳子らが逃げた屋島も源氏方の襲撃を受け、彦島へと逃れた徳子や安徳天皇、平氏一門は源平合戦最後の戦いである、壇ノ浦の戦いを迎えることとなりました。
壇ノ浦の戦いが勃発
元暦2年(1185年)3月24日に起きた、壇ノ浦の戦いは海上戦であり、海上戦を得意とする平氏は潮の流れを利用し、源氏方に総攻撃を仕掛けてます。
しかし、潮の流れが反転すると、源氏方から総攻撃を受けることとなり、平家一門は総崩れし、死を悟った平氏は皆次々に海に身を投げ捨てました。
『平家物語』によると、安徳天皇は徳子の母・時子に抱えられ入水したとされ、徳子も自身の死と平家の滅亡を悟ると、海に身を投げ捨てました。
しかし、源氏軍の武将・渡辺昵に救助され、その後生き残った徳子は、ともに壇ノ浦の戦いで生き残った
- 兄・平宗盛
- 叔父・平時忠
とともに京都へと護送されました。
出家する
本来ならば平家の生き残りであるため斬首されましたが、徳子は罪に問われることなく、同年5月1日に出家し、「直如覚」と名乗り始めました。
その後、徳子は比叡山のふもとにある大原寂光院に入ったとされています。
大原寂光院に徳子が入ったという知らせを聞いた後白河院法皇はお忍びで、文治2年(1186年)4月、徳子のいる大原寂光院を尋ねたとされ、後白河法皇と対面した徳子は、泣きながら半生を振り返り、壇ノ浦の戦いで安徳天皇や一族など多くの命を失ったことを話しました。
この話を聞いた後白河法皇は「あなたは目前に六道を見たのですね。」と涙を流したとされています。
徳子の最期についてははっきりとした時期は分かっていませんが、一般的には建保元年(1213年)に生涯を閉じたとされています。
右京大夫集(とはずがたり)の作者やあらすじ内容解説
『右京大夫集(とはずがたり)』とは鎌倉初期に成立した歌数約360首の私家集です。
作者は建礼門院右京大夫とされています。
右京大夫とは女房名で本名は分かっていません。
承安2年(1172年)から徳子に出仕したものの6年足らずで辞め、その後、後鳥羽上皇とその生母七条院に20年以上出仕しました。
天福元年(1233年)頃に歌人・藤原定家から選考歌の提出を求められこの『右京大夫集(とはずがたり)』を提出しました。
この作品には
- 平家の栄華
- 交際していた平資盛(中宮の甥)との恋愛模様
- 都落ちする平資盛との別れ
- 壇ノ浦の戦いにおいて平資盛が亡くなったこと
- 生き延びた徳子に会いに大原を訪れ、話を聞き、涙を流したこと
- 後鳥羽院に再出仕したこと
などが記されています。
【逸話】平徳子(建礼門院)の性格は?大河ドラマのように美人だった?
平徳子は父・平清盛、夫・高倉上皇を亡くし、また壇ノ浦の戦いにおいて母・平時子、息子・安徳天皇を亡くしました。
それだけではなく、多くの一族も亡くしたとされ、1人生き残った徳子は出家すると京都大原へと移りました。
『右京大夫集(とはずがたり)』には大原に移った徳子の様子について
- 住まいはまともに見られないほど、酷いものだった
- 都にいたときは美しい着物をきた女房が、60人ほどいたが、大原では3、4人だけしか仕えていない
と記されています。
父や母、夫や子供まで亡くし1人となった徳子の晩年は、悲しみに明け暮れる毎日でした。
徳子の性格が分かる史料はありませんが、徳子は家族や一族を大切に思っていた優しい心の持ち主であったことがわかります。
大河ドラマ「平清盛」では徳子を女優の二階堂ふみさんが演じられています。
とても綺麗な女優さんですが、二階堂ふみさんのように徳子が美人であったという記述は残念ながら残されていません。
まとめ 平徳子(建礼門院)を描いたドラマや映画や小説はある?
By 水野年方 – http://www.zacke.at/en/item/18880/four-original-woodblock-prints-mizuno-toshikata-shui-ye-nian-fang-1866-1908, パブリック・ドメイン, Link
平徳子(建礼門院)の生涯や性格、子供や『右京大夫集(とはずがたり)』についてご紹介いたしました。
簡単にまとめると
- 平清盛の娘
- 高倉天皇の妻となり、安徳天皇を出産
- 壇ノ浦の戦いで母・時子、息子・安徳天皇を亡くす
- 『右京大夫集(とはずがたり)』の作者は建礼門院右京大夫
- 一族を大切に思う優しい女性
平徳子は平清盛の娘として誕生しました。
高倉天皇の妻となった後、安徳天皇を出産しましたが、その後、壇ノ浦の戦いにおいて、安徳天皇や母・時子、また一族を失いました。
入水をはかるも源氏方に捕えられ生き残った徳子は、その後、一族や家族を失った悲しみに明け暮れ、生涯を閉じます。
一族の滅亡といった悲劇を経験した平徳子を描いた有名な大河ドラマは「平清盛」です。
この作品では
- 平徳子を女優の二階堂ふみさん
- 平清盛を俳優の松山ケンイチさん
- 安徳天皇を貞光奏風さん
- 高倉天皇を俳優の千葉雄大さん
が演じられています。
また
- 佐伯真一 さんの『建礼門院という悲劇』
- 角田文衛 さんの『平家後抄 落日後の平家』
にも平徳子が登場しています。
これを機に平徳子に興味を持った方は大河ドラマ「平清盛」書籍『建礼門院という悲劇』『平家後抄 落日後の平家』を見てみてください。
以上「平徳子(建礼門院)の生涯と性格、子供や右京大夫集(とはずがたり)の意味や内容あらすじ」のご紹介でした。
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