あなたは江戸幕府第10代将軍・徳川家治という人物をご存知でしょうか。
かの有名な、第8代将軍・徳川吉宗の孫にあたる人物です。
祖父・徳川吉宗の存在が大きく、影の薄い人物でしたので、あまり知らない方も多いかと思います。
将軍となるも、趣味である将棋に没頭していたため、度々、無能として評価されていますが、将棋の才能は非常に優れていたとされています。
そんな徳川家治という人物は一体、どのような生涯を送っていたのでしょうか。
そこで今回は、徳川家治の
- 生涯
- 死因
- 性格
- 政策
- 大奥や将棋のエピソード
についてご紹介いたします。
これを読めば徳川家治の生涯や性格、政治政策や大奥、将棋のエピソードについて知ることができますよ。
今日のランタンw
第十代将軍徳川家治。世継ぎだった実子、家基が急死してめっさ(´・ω・`)ショボーンなって寝込むけど超美人の大奥側室キタ━(゚∀゚)━ッ!!で持ち直すも毒には勝てなかったお0(:3 )~で亡霊で再登場w#大奥 pic.twitter.com/1l90MTjXYA— 燦々 (@sansanx) 2016年2月16日
徳川家治の生い立ち。父母兄弟は誰?
徳川家治(とくがわ いえはる)は江戸時代中期にあたる元文2年(1737年)5月22日
- 父・徳川家重(江戸幕府第9代将軍)
- 母・梅渓通条の娘・幸子(至心院)
の長男として江戸城西ノ丸で誕生しました。
後の、延享2年(1745年)2月15日に弟・徳川重好が誕生しています。
父・徳川家重は江戸幕府8代将軍・徳川吉宗を父としていたため、徳川吉宗は家治の祖父にあたります。
幼いころから祖父・徳川吉宗に寵愛を受け、将来を期待されていました。
家治の父・徳川家重は言語障害を持っていたとされ、そのため祖父・徳川吉宗から教育・指導を受けていたとされています。
倫子女王と結婚
寛保元年(1741年)8月、家治は4歳で元服を迎えると、宝暦4年(1754年)12月に閑院宮直仁親王の娘・倫子女王と結婚します。
2人の間には
- 宝暦6年(1756年)に長女・千代姫
- 宝暦11年(1761年)に次女・万寿姫
が誕生しました。
家治には正室・倫子女王だけではなく、側室・蓮光院、側室・養蓮院がおり、
- 側室・蓮光院との間に、徳川家基
- 側室・養蓮院との間に、貞次郎
がいたとされています。
徳川家治の政治政策の経歴と最後の死因は?
宝暦10年(1760年)5月3日、父・徳川家重が隠居となります。
第10代将軍職を継承
それによって、父の後を継いだ家治は9月2日に、第10代将軍職を継承することとなりました。
しかし、翌年の宝暦11年(1761年)6月12日に父・徳川家重は亡くなります。
この際、父・徳川家重は遺言として田沼意次を側用人に重用するよう遺していました。
この田沼意次という人物は元は小身旗本でしたが、延享2年(1745年)に父・徳川家重の将軍就任に伴い本丸に仕えると、御側御用取次から1万石の大名に取り立てられた人物でした。
そんな田沼意次を父の遺言通り、側用人に重用すると、老中・松平武元らと共に政治活動を開始させ
- 印旛沼・手賀沼(現在の千葉県)の干拓事業
- 蝦夷地の開拓
- ロシア貿易の計画
などを行います。
将軍となった家治でしたが、趣味である将棋に没頭し政策のほとんどを田沼意次に任せていたとされています。
そのためこれらの政策は田沼意次が実施したものであり、家治が行ったのは最終的な政策の許可を出すといったものだけでした。
そのため幕政を家臣に任せていた家治は、将軍として無能という評価が付けられています。
大奥の経費削減に努める
このように表向きの幕政を家臣に任せきりの家治でしたが、実は私生活においてはかなりの節約家であったとされ、将軍の私生活の場である大奥は特に経費が掛かるため、家治は大奥の経費削減を行いました。
家治の祖父・徳川吉宗も将軍であった時、大奥の人員削減を行っていたとされ、当時4000人いた大奥を1300人にまで減らしています。
そのため大幅な大奥の経費削減となったとされていますが、家治は祖父・徳川吉宗の時代から大奥の経費を3割も削ることに成功しました。
表向きの幕政は家臣に任せていましたが、実はひっそりと大奥の経費削減を行っていたのです。
かなりの経費削減ができたとされているため、家治は一概に将軍として無能ではなかったのでは?と感じます。
徳川家治の最期と死因
安永8年(1779年)側室・蓮光院との間に、誕生した徳川家基が18歳で亡くなります。
徳川家基は側室との間に誕生した子供でしたが、家治と正室・倫子女王との間に、男子の子供はいなかったため、徳川家基は正室・倫子女王の養子となり、将来、家治の後を継ぐ第11代将軍として期待されていました。
しかし、18歳という若さで亡くなってしまったため、家治は自身の後継ぎとして天明元年(1781年)一橋家当主・徳川治済の長男・豊千代(後の第11代将軍・徳川家斉)を自身の養子として迎え入れました。
その後、天明6年(1786年)8月25日に、家治は心不全により50歳で亡くなります。
家治の後を継いだ、豊千代は翌年の天明7年(1787年)に15歳で第11代将軍に就任となりました。
【性格逸話】徳川家治の性格や将棋との面白いエピソード
徳川家治は将軍として無能扱いされることが多いですが、実は将軍の私生活を行う場所である大奥の経費削減を行うなど、非常に節約家であったとされています。
一方で、家臣の実家の屋根の修理費として100両、今の価値にすると400万から1300万を与えたとされています。
普段、節約していたとされる家治でしたが、時と場合によっては大金を一気に使うといった性格であったようです。
気遣い上手な将軍
将軍の起床は朝の6時とされていました。
しかし家治は50歳頃から、6時よりも早くに目を覚ますことが多かったとされています。
そのため誰よりも早く起床してしまう家治は、起床時間の6時まで座敷を行ったり来たりして時間をつぶしていたとされています。
トイレに行く際も当番の御小納戸役を起こさないように、忍び足で廊下を歩いていました。
愛妻家であった家治
歴代の将軍に比べ、家治は愛妻家であったとされています。
家治は正室・倫子女王との間に2人の女の子が誕生しました。
しかし、世継ぎとなる男子には恵まれませんでした。
多くの将軍は世継ぎとなる男子が正室との間に誕生しているので、異例であったとされています。
男子が生まれなかったため、家臣たちは家治に対し側室を持つように勧めます。
しかし、愛妻家であった家治はどうしても側室を持つことを嫌がっていました。
そこで遂に、田沼意次が動き出します。
田沼意次は家治に対し、側室を用意しました。
数人の側室から家治は側室を選ぶこととなるのですが、側室を持ちたくなかった家治は、なぜか田沼意次も側室を持つというなら、側室を選ぶと条件をつけたのです。
この結果、田沼意次も側室を持つこととなり、家治と側室との間には無事、世継ぎとなる男子が誕生しました。
しかし、世継ぎとなる男子が誕生すると、お役御免かのように側室に通わなくなったとされています。
将棋が趣味であった家治
家治は将棋を趣味としていました。
特に詰将棋を得意とした家治は図式集『将棋攻格』百番を記し、また新しい将棋用語を考案するなど行っていたとされています。
今でも家治の棋譜は残されており、関西将棋会館は家治の棋譜に対し「周囲が若干緩めて対局している風が棋譜から感じられ、正直実力七段は疑問ではあるが、 非常に筋の良い軽い棋風で現在のアマ高段の力は十分にある」と評価しています。
しかし、対局中のマナーは非常に悪かったとされ、自身が不利な状況となると、待ったをして駒を戻すなどしたとされています。
このように将棋の世界にのめり込んでいった家治でしたので、将軍としての仕事はそっちのけであり、無能と評価されることとなりました。
将棋の他にも、
- 書画
- 鷹狩り
などを得意としていたとされています。
引用
まとめ 徳川家治のドラマや映画や小説はある?
徳川家治の生涯と性格、政策や将棋などのエピソードについてご紹介いたしました。
簡単にまとめると
- 徳川吉宗の孫
- 無能と評価されるも、大奥の経費削減に貢献
- 心不全により50歳で亡くなる
- 愛妻家であった
- 将棋を趣味としていた
徳川家治は、江戸幕府第10代将軍となった人物でした。
将棋に没頭していた家治は、家臣に幕政を任せていたため無能と評価されることが多くあります。
しかし、将軍の私生活の場である大奥の大幅な経費削減を行っていたため、けっして無能であったとは思えません。
その性格は、気遣い上手で愛妻家、また将棋の才能もあったとされ将軍としての魅力はなくとも、人としての魅力は十分にありました。
そんな徳川家治が登場する有名なドラマは2016年に放送された「大奥」です。
この作品では
- 徳川家治を俳優の峰蘭太郎さん
- 田沼意次を俳優の青野敏行さん
- 徳川家基を俳優の鮎川太陽さん
が演じられています。
また
- よしながふみさんの漫画「大奥」
- 誉田龍一さんの小説「世直し将軍家治 天下成敗組、見参!」
にも徳川家治は登場しています。
これを機に徳川家治に興味を持った方はドラマ「大奥」、小説「世直し将軍家治 天下成敗組、見参!」漫画「大奥」を見てみてください。
以上「徳川家治の性格や政治政策は?死因や将棋などのエピソード」についてのご紹介でした。
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