鳥羽天皇の家系図や後鳥羽天皇との違いを分かりやすく。待賢門院や平清盛、崇徳天皇との関係は?

あなたは鳥羽天皇という人物をご存知でしょうか。

崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の父親であり、3代にわたり約28年間、院政を行いました。

大河ドラマ「平清盛」では自身の子供である崇徳天皇を無理やり譲位させるなど、酷い父親として登場していました。

そんな鳥羽天皇は平安時代後期に活躍した人物なのですが、名前が似ているため平安時代後期から鎌倉時代初期に活躍した後鳥羽天皇と間違えるといった方も多いかと思います。

では鳥羽天皇という人物は一体どのような生涯を送っていたのでしょうか。

今回は鳥羽天皇の

  • 生涯
  • 家族
  • 後鳥羽天皇との違い
  • 待賢門院や平清盛、崇徳天皇との関係性

についてご紹介していきます。

これを読めば鳥羽天皇の生涯や家族、後鳥羽天皇との違い、待賢門院や平清盛、崇徳天皇との関係性について知ることができますよ。

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鳥羽天皇の生い立ち。父母兄弟や妻子供、家系図は?

鳥羽天皇は、平安時代にあたる康和5年(1103年)2月24日

  • 第73代天皇の父・堀河天皇
  • 母・藤原苡子

の息子として誕生しました。

2人の間に誕生したのは鳥羽天皇のみとされているため、兄弟はいなかったとされています。

誕生して間もなく、母・藤原苡子は亡くなってしまったため、祖父・白河法皇に引き取られ育てられました。

生後七か月で父・堀川天皇の後継ぎとして立太子となります。

もともと病弱であった父・堀川天皇が嘉承2年(1107年)8月9日に29歳で亡くなたっため、わずか5歳にして即位し、第74代天皇となりました。

5歳という年齢では政務を行うことができず、代わりに摂関・藤原忠実が補佐役となるはずでしたが、その地位は低かったため、祖父・白河法皇が院政を行うこととなりました。

永久5年(1117年)、鳥羽天皇が14歳の頃、祖父・白河法皇の養女・藤原璋子(待賢門院)が入内し、鳥羽天皇の中宮となります。

その後、2人の間には元永2年(1199年)第一皇子:顕仁親王(崇徳天皇)が誕生しました。

のちに

  • 第一皇女:禧子内親王
  • 第二皇子:通仁親王
  • 第三皇子:君仁親王
  • 第二皇女:統子内親王
  • 第四皇子:雅仁親王(後白河天皇)
  • 第五皇子:覚性入道親王(本仁親王)

が誕生することとなります。

また妻・藤原璋子(待賢門院)以外にも皇后がいたとされ、妻・藤原璋子(待賢門院)の子供と合わせ20人の子供がいたとされています。

夫婦仲は良好のように見えましたが、鳥羽天皇の妻・藤原璋子(待賢門院)にはよからぬ噂がありました。

その噂とは妻・藤原璋子(待賢門院)と鳥羽天皇の祖父・白河法皇は男女関係を持っているのでは、という噂です。

妻の藤原璋子(待賢門院)は、父を幼くして亡くしたため、鳥羽天皇の祖父・白河法皇の養女となったのですが、入内前から2人の間は親密な関係となっていたとされています。

しかし、入内後もその関係は続いたとされ、そのため鳥羽天皇は第一皇子:顕仁親王(崇徳天皇)は自身の子供ではないと疑うようになりました。

つまり、第一皇子:顕仁親王(崇徳天皇)は妻・藤原璋子(待賢門院)と祖父・白河法皇の息子なのでは?と疑問を感じ始めたのです。

その噂は朝廷内にも広まっていたとされています。

そのため、鳥羽天皇は息子である顕仁親王(崇徳天皇)に対し、冷淡な態度を生涯とり続けることとなります。

崇徳天皇の即位

元永2年(1199年)第一皇子:顕仁親王(崇徳天皇)が誕生した頃もまだ、祖父・白河法皇が院政を行っていました。

政治的権限を掌握し続けていた祖父・白河法皇は保安4年(1123年)1月23日、鳥羽天皇に対し、第一皇子:顕仁親王(崇徳天皇)に譲位するよう迫り、同年2月25日、3歳7か月で顕仁親王(崇徳天皇)が即位します。

祖父・白河法皇が鳥羽天皇に譲位を迫った理由として、崇徳天皇が自身の息子であると確信していたからとも考えられますが、鳥羽天皇はこの時、21歳であったとされ、政務を行うことのできる年齢に達していました。

そのため祖父・白河法皇は政務の行える年齢となった鳥羽天皇の在位が続けば、自身はいずれ引退に追い込まれることとなり、権力を維持することができなくなる。そのためにはまだ政務を行うことのできない幼い崇徳天皇を即位させ、院政として自身の権力の保持を行おうと考えたのです。

こうして鳥羽上皇は息子・崇徳天皇に譲位することとなり、祖父・白河法皇が引き続き院政を行うこととなりました。

しかし、大治4年(1129年)7月7日、院政を行っていた祖父・白河法皇が亡くなります。

これによって、崇徳天皇の父である鳥羽上皇が院政を行うこととなりました。

祖父・白河法皇と関係を持っていた妻・藤原得子(美福門院)は白河法皇が亡くなったことによって、だんだんと居場所を失っていくこととなります。

これまで、祖父・白河法皇が院政を行っていたため、やっと鳥羽上皇に政務を行うチャンスが到来したのです。

院政を敷いた鳥羽上皇は、まず、白河法皇から職務を剥奪されていた藤原忠実を天承元年(1131年)に関白に呼び戻し、その娘・泰子(高陽院)を入内させ自身の妃とさせます。

その後、白河法皇の側近であった藤原長実・家保兄弟を排除すると、自身の側近で要職を固め始めます。

さらに、長承2年(1133年)頃になると、藤原長実の娘である藤原得子(美福門院)を寵愛するようになりました。

藤原得子(美福門院)との間には、

  • 皇女:叡子内親王
  • 皇女:暲子内親王(八条院)
  • 皇子:体仁親王(近衛天皇)
  • 皇女:姝子内親王(高松院)

が誕生します。

この時、天皇であった崇徳天皇には、藤原聖子(皇嘉門院)が中宮としていましたが、2人の間には子供はできず、そのため鳥羽天皇は永治元年(1141年)、23歳の崇徳天皇を無理やり譲位させ、藤原得子(美福門院)との間に誕生した皇子・体仁親王(近衛天皇)を3歳で即位させました。

これにより鳥羽上皇は法皇、崇徳天皇は上皇となります。

皇子・体仁親王(近衛天皇)が即位する際、鳥羽上皇は崇徳天皇に対し、皇子・体仁親王(近衛天皇)を養子にするよう勧めていました。

この勧めを受けた崇徳天皇は皇子・体仁親王(近衛天皇)を自身の養子とし、これによって皇子・体仁親王(近衛天皇)は崇徳天皇の「皇太子」となりました。

しかし、鳥羽天皇は譲位の宣命に皇子・体仁親王(近衛天皇)は崇徳天皇の「皇太子」と書かず、「皇太弟」と書いたのです。

体仁親王(近衛天皇)が崇徳天皇の「皇太子」であるならば、崇徳天皇が院政を行うことができますが、「皇太弟」と記された場合、兄弟の院政を行うことはできないため、崇徳天皇は体仁親王(近衛天皇)の院政を行うことが不可能となりました。

これにより、3歳で即位した近衛天皇の院政は父である鳥羽法皇が行うこととなったのです。

近衛天皇の崩御と後白河天皇の即位

崇徳天皇に続き、近衛天皇の院政を行うこととなった鳥羽法皇でしたが、久寿2年(1155年)近衛天皇が17歳で亡くなります

近衛天皇には子供はいなかったため後継者問題が発生しました。

この時、後継者の候補としてあげられていたのは

  • 崇徳上皇の崇徳院の第一皇子・重仁親王
  • 鳥羽天皇の第四皇子・雅仁親王(後白河天皇)の息子・守仁親王(のちの二条天皇)

です。

結果、守仁親王(のちの二条天皇)が次期天皇として選ばれることとなったのですが、この時、父の雅仁親王はまだ生きていたため、守仁親王が天皇となるまでの間の中継ぎ天皇として守仁親王が久寿2年(1155年)8月13日、即位することとなりました。(後白河天皇)

こうして、自身の息子・後白河天皇が即位したのに伴い、鳥羽法皇は崇徳天皇、近衛天皇に続き、院政を行うこととなったのです。

鳥羽法皇の最期

しかし、後白河天皇が即位し、まだ政治基盤が完成していない保元元年(1156年)5月、後鳥羽法皇は病に倒れます。

いよいよこれから、また院政がはじまるぞ。といった時期に病に倒れた鳥羽法皇は、それから1か月後の7月2日午後4時頃に53歳で崩御しました。

臨終の際、あれだけ嫌っていた息子・崇徳上皇が、父の死を悲しみ見舞いに訪れたとされていますが、鳥羽法皇は生前、側近・藤原惟方に「自身の遺体は絶対、崇徳上皇に見せるな。」と述べていたとされ、崇徳上皇は、父である鳥羽法皇の死を見届けることはできませんでした。

鳥羽天皇と後鳥羽天皇との違いを分かりやすく

鳥羽天皇と名前が似ているため、よく間違えられるのが後鳥羽天皇です。

後鳥羽天皇とは平安時代末期から鎌倉時代初期、第82代天皇となった人物です。

鳥羽天皇の第四皇子・後白河天皇の孫にあたります。

つまり、後鳥羽天皇にとって鳥羽天皇はひいおじいさんにあたります。

簡単にまとめると

鳥羽天皇は

  • 平安時代後期の第74代天皇
  • 第四皇子・後白河天皇の父

後鳥羽天皇は

  • 平安時代末期から鎌倉時代初期の第82代天皇
  • 鳥羽天皇の第四子・後白河天皇の孫

です。

【逸話】鳥羽天皇と待賢門院や平清盛との関係は?

待賢門院との関係性

待賢門院(藤原璋子)は鳥羽天皇の中宮となった女性です。

2人の間には、7人の子供が誕生し、そのうちの

  • 第一皇子・崇徳天皇が第75代天皇
  • 第四皇子・後白河天皇が第77代天皇

となりました。

待賢門院(藤原璋子)は鳥羽天皇の祖父・白河法皇と関係を持っていたと噂され、鳥羽天皇は2人の間に誕生した崇徳天皇を我が子として認めませんでした。

そのため崇徳天皇は父親の愛情を受けず生涯を閉じることとなります。

祖父・白河法皇と関係を持ったいたことから妻・待賢門院(藤原璋子)との夫婦仲はよくなかったのでは?と思われますが、鳥羽天皇は妻・待賢門院(藤原璋子)が亡くなった際、大声を出して泣き叫んだとされており、夫婦仲は決して悪くはなかったと考えられています。

平清盛との関係性

平清盛は上皇の身辺を警衛する北面武士として活躍していました。

そのため、北面武士として鳥羽法皇の護衛などを勤めていましたが、保元元年(1156年)5月、鳥羽法皇は病に倒れます。

その際、鳥羽法皇は自身が倒れると、法皇の権威を盾に不満を持つ崇徳上皇を抑制していた

  • 美福門院(藤原得子)
  • 摂関・藤原忠通
  • 院近臣ら

にとって重大な政治的危機を迎えると考え、美福門院(藤原得子)のもとに北面武士らを向かわせました。

この際、鳥羽天皇は自ら亡くなった後で北面武士らが美福門院(藤原得子)に従うか不透明であったため北面武士らに誓約書を書かせたとされています。

まとめ 鳥羽天皇のドラマや映画や小説はある?

鳥羽天皇の生涯や家族、後鳥羽天皇との違い、待賢門院・平清盛・崇徳天皇との関係性についてご紹介いたしました。

簡単にまとめると

  • 堀河天皇の息子
  • 第74代天皇となる
  • 祖父・白河法皇と関係を持っていた藤原璋子を妻に持つ
  • 自身の息子・崇徳天皇を嫌う
  • 3代にわたり約28年間、院政を行う
  • 後鳥羽天皇にとって鳥羽天皇はひいおじいさんにあたる

鳥羽天皇は、藤原璋子を妻とするも、祖父・白河法皇と関係を持っていたことから藤原璋子との間に誕生した崇徳天皇に対し、生涯愛情を見せることなく冷淡な態度を貫きました。

そんな息子・崇徳天皇は鳥羽天皇に譲位を迫られ、和歌の世界に没頭しはじめます。

しかし、鳥羽天皇が崩御した後、崇徳天皇と後白河天皇による兄弟同士の対立、保元の乱が勃発することとなります。

崇徳天皇にとって鳥羽天皇は最低な父親でありましたが、ことの発端となったのは妻・藤原璋子と祖父・白河法皇の男女関係です。

いつの時代も、男女関係は争いの元となるのですね。

そんな鳥羽天皇が登場する有名な大河ドラマは「平清盛」です。

この作品では

  • 鳥羽天皇を俳優の三上博史さん
  • 白河法皇を俳優の伊東四朗さん
  • 藤原璋子を女優の檀れいさん
  • 崇徳天皇を俳優の井浦新さん

が演じられています。

また渡辺淳一さんの小説「天上紅蓮」や井上靖さんの小説「後白河院」にも鳥羽天皇は登場しています。

これを機に鳥羽天皇に興味を持った方は大河ドラマ「平清盛」や小説「天上紅蓮」「後白河院」を見てみてください。

以上「鳥羽天皇の家系図や後鳥羽天皇との違いを分かりやすく。待賢門院や平清盛、崇徳天皇との関係について」のご紹介でした。

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