あなたは柴田勝家という武将をご存知ですか?
柴田勝家は織田信長の家臣として天下統一を助けた武将です。
勇猛果敢な武将として知られていますが温情深い一面もある武将です。
しかし、信長亡き後に羽柴秀吉と戦い敗れてしまいます。
今回は柴田勝家について
- 柴田勝家の生い立ちとは?
- 柴田勝家の経歴や最後は?
- 【エピソード】柴田勝家の人柄や性格が分かる逸話
を紹介します。
こちらを読めば柴田勝家の経歴や性格がわかりますよ。
ぜひ読んでみてください。
柴田勝家の生い立ちとは?
~信長の弟・織田信行の家老~
柴田勝家は大永2年(1522年)に尾張国愛知郡上社村(現在の愛知県名古屋市名東区)で柴田勝義(確実な史料がないため父はわからない)の子として生まれます。
柴田勝家が生まれた上社村は当時は織田家の領地であったため、柴田勝家は若い頃から織田信秀(信長の父)に仕えていました。
織田信秀からの信頼は厚く、織田信秀からは子・織田信行(信長の弟)を支えてほしいと頼まれ信行の家老となります。
天文20年(1551年)に織田信秀が亡くなりますが、織田信行の家老として家督を継いだ織田信長に仕えます。
しかし、後を継いだ織田信長は「大うつけ(ばか者)」と周りから呼ばれ、尾張国内の織田一族らと対立します。
この状況に家臣達は織田信長が当主であることに不安と不満を持ちはじめます。
柴田勝家もその中の一人で、勝家は林秀貞らとともに織田信行を当主に擁立しようとし兵を上げます(稲生の戦い、いなおのたたかい)。
この戦いは織田信長の700に対して織田信行は1700と勝っていましたが、信長家臣の森勢らの奮戦もあり、柴田勝家は負けてしまいます。
戦いに負けた柴田勝家と織田信行でしたが、信長と信行の母・土田御前の助命嘆願によって許されました。
この時、柴田勝家は「大うつけ」とは別の織田信長を見て、その心の広さに敬服し信長に忠誠を誓いました。
弘治3年(1557年)に再び織田信行が謀反も計画を立てていることを突きとめた柴田勝家はすぐに織田信長に報告します。
織田信長はこの知らせを受けると、病と偽って見舞いに来た信行を暗殺しました。
織田信行の死によって織田家は織田信長をトップに動き出します。
柴田勝家の経歴や最後は?
~織田信長の上洛と第1次織田包囲網~
柴田勝家は織田信長に許されましたが10年ほど謹慎させられます。
- 尾張統一戦
- 桶狭間の戦い(1560年)
- 美濃斎藤氏攻め(1567年)
といった戦いには参戦しませんでした。
そして永禄11年(1568年)に織田信長が上洛を開始すると、柴田勝家もこの上洛戦に参加します。
- 同年9月の勝竜寺城(しょうりゅうじ)城の戦い(対 三好三人衆)で先鋒を務める
※三好三人衆とは戦国大名三好氏を支えた3人(三好長逸・三好宗渭・岩成友道)
- 永禄12年(1569年)の本圀寺(ほんこくじ)の変では岐阜城にいた信長に従い京へ向かう
※本圀寺の変とは三好三人衆が将軍・足利義昭を襲撃した事件
京に上洛した後は京都や畿内(大阪・奈良)の行政を任されます。
元亀元年(1570年)4月下旬に織田信長は越前国(福井県)の朝倉氏を征伐しに行きますが、義弟の浅井長政(継室は信長の妹・お市の方)が裏切り朝倉と浅井に挟撃されます(金ヶ崎の戦い)。
なんとか帰ってきた織田信長は体勢を立て直し
- 同年6月4日の野州河原(やすがわら)の戦いで六角氏に勝利
- 同年6月28日の姉川の戦いで浅井朝倉連合軍に勝利
し、柴田勝家もこれらの戦いで活躍します。
浅井や六角に勝利したつかの間に
- 同年8月に三好三人衆が四国から攻めてくる
- 同年9月に石山本願寺が突如として挙兵する
これに対処するために織田信長は兵を摂津へ向かわせます(野田城・福島城の戦い)。
柴田勝家も摂津へ向かいますが、北から浅井・朝倉連合軍が京へ迫っていたため柴田勝家は京の守りを任せれます。
これらは織田信長が将軍・足利義昭を介しての正親町天皇の仲介によって織田と浅井・朝倉の間で和睦が結ばれます。
~第2次織田包囲網と勝家の畿内転戦~
朝廷と将軍一時的に窮地を脱した織田信長でしたが、今度は将軍・足利義昭が信長の態度に不満を表し各地に信長討伐の御内書(室町幕府将軍が出した私的な書状)を出します(第2次織田包囲網)。
これに浅井氏・朝倉氏・石山本願寺が参加します。
また甲斐の武田信玄が加わったことで信長は大きな危機感を覚えます。
この状況の中、柴田勝家は
- 元亀2年(1571年)5月、石山本願寺の門徒が起こした長島一向一揆の鎮圧に向かうが苦戦し負傷する(第1次伊勢長島攻め)。
※一向一揆とは浄土真宗本願寺教団(一向宗)が起こした一揆のこと
- 同年9月の比叡山焼き討ちに加わる
- 元亀4年(1573年)2月には足利義昭が信長と対立し挙兵しますが、柴田勝家は将軍方の二条城を降伏させる活躍をする
そして、元亀4年(1573年)4月に上洛をしていた武田信玄が亡くなり織田包囲網が崩れると、織田信長は攻勢にでます。
天正元年(1573年)8月から9月にかけて織田信長による越前朝倉氏攻め(一乗谷城の戦い)と近江浅井氏攻め(小谷城の戦い)にも参加し両氏を滅ぼします。
浅井と朝倉を滅ぼした織田信長は再び長島一向一揆の鎮圧に動き柴田勝家も参戦し、西別所城や酒井城を落としますが、林通政が一揆に襲撃され戦死壊滅します。
林通政が戦死した場所は2年前に勝家が負傷したところでした(1573年9月から10月)。
またしても一向一揆を鎮圧できなかった織田信長は天正2年(1574年)7月に再び伊勢長島に出陣し今度は兵糧攻めを行います(第3次伊勢長島攻め)。
兵糧攻めによって一揆勢は降伏を申し出て信長は受け入れますが、信長はこの約束を破りだまし討ちをします。
柴田勝家もこれに参戦し一揆勢の大量虐殺に加わっていました。
織田信長は長島一向一揆の鎮圧に4年ほどかかりました。
この後、柴田勝家は
- 天正3年(1575年)4月の高谷城の戦い(対 三好・本願寺)
- 同年5月の長篠の戦い(対 武田)
にも参戦します。
~第3次織田包囲網と北陸方面軍司令官就任~
長島一向一揆を鎮圧した織田信長でしたが、まだ周辺勢力の脅威は残っていました。
- 朝倉滅亡後の越前国で一向一揆がおこる
- 将軍・足利義昭を助けた中国地方の覇者・毛利氏が包囲網に参加
- 足利義昭の仲介で武田氏・北条氏と和睦した越後国(新潟県)の上杉謙信が包囲網に参加
- 丹波国(京都府中部・兵庫県北東部)の波多野氏と但馬国(兵庫県北部)の山名氏が反旗を翻して包囲網に参加
など、本願寺や武田氏以外にも毛利氏や上杉氏らも包囲に加わります(第3次織田包囲網)。
この状況の中、織田信長は越前一向一揆を殲滅するために約7万の軍勢を率いて出陣し平定します。
また一揆鎮圧後に柴田勝家は越前国八郡49万石を与えられ北ノ庄城を拠点とします。
この後に柴田勝家は天正4年(1576年)に北陸方面軍司令官に任命され、前田利家や佐々成政らが与力となります。
柴田勝家は加賀国平定のため加賀に侵攻しますが、天正5年(1577年)7月に上杉謙信が加賀国に進出し畠山氏の七尾城を包囲します。
また、信長の命令で柴田勝家の援軍として来た羽柴秀吉と軍議で対立したため、七尾城を救援しに行きますが、到着前に上杉軍によって陥落してしまいます(秀吉は離脱し先に帰還する)。
柴田勝家は退却しますが追撃してきた上杉軍の襲撃を受けます(手取川の戦い)。
この後、天正6年(1578年)に上杉謙信が亡くなると越中(富山県)中部から上杉軍は撤退します。
一方、この頃の織田信長は包囲網が敷かれるなか多方面に軍を派遣します。
- 天正4年(1576年)7月、第1次木津川口の戦い(対 毛利水軍)で敗れる
- 天正5年(1577年)2月、紀州攻め(対 雑賀衆)で鈴木氏を降伏させる
- 天正5年(1577年)8月、信貴山の戦い(対 松永久秀)で信貴山城を落とす
- 天正6年(1578年)3月、月岡野の戦い(対 上杉)で勝利し越中国から上杉軍を追い出す
- 天正6年(1578年)3月、中国地方へ進出する(別所氏や毛利水軍に勝利する)
- 天正8年(1580年)3月、本願寺と講和を結ぶ(対本願寺戦は10年かかった)
- 天正10年(1582年)3月、甲斐武田氏を滅ぼす
これらによって織田信長は少しずつ反織田勢力を討っていきます。
~上杉攻めと本能寺の変~
織田信長が本願寺との講和を成立させると、柴田勝家は天正8年(1580年)11月までに加賀に進出し加賀国を平定します。
また、上杉を牽制するため伊達氏と連絡を取り合っていたとも言われています。
加賀国を平定した柴田勝家は天正10年(1582年)3月から越中国の上杉方の城である魚津城を攻撃します(魚津城の戦い)。
柴田勢は同年6月3日までに魚津城を落とし、さらなる侵攻のため準備をしていました。
そんなときに一報が入ります。
6月2日に明智光秀の謀反によって本能寺で織田信長が亡くなったという報でした。
柴田勝家はすぐに北ノ庄城へ戻り明智光秀を討つ準備をしますが、織田信長死の知らせは上杉方にも伝わっていたため、越中や能登では上杉方が国衆を扇動していたことで柴田勝家は動けませんでした。
本能寺の変から16日たった6月18日に柴田勝家はようやく近江国へ出陣しましたが、戻った時にはすで羽柴秀吉が山崎の戦いで明智光秀を討った後でした。
~清洲会議と羽柴秀吉との対立~
山崎の戦いで明智光秀が亡くなった後、織田家の後継者選びと旧織田領の配分を決める清洲会議が開かれます。
参加した武将は
- 柴田勝家
- 羽柴秀吉
- 丹羽長秀
- 池田恒興
の4人でした。
まず、領地の配分では柴田勝家は越前国と秀吉の領地であった長浜城と北近江3郡を手に入れます。
ちなみに羽柴秀吉は山城国・河内国・丹波国を手に入れます。
※丹波国は羽柴秀吉の養子・羽柴秀勝(信長の4男)の領地となる
一方、織田家の後継者選びでは柴田勝家は羽柴秀吉と対立します。
この時、後継者候補となったのは
- 織田信雄 → 信長の次男 当時24歳
- 織田信孝 → 信長の三男 当時24歳
- 三法師 → 信長の孫 当時2歳
※信孝は母の身分が低かったため三男となった
柴田勝家は才能がなかったといわれていた次男の信雄ではく、才能があり家臣の間でも評判がよかった三男の織田信孝を推します。
一方、羽柴秀吉は信雄でも信孝でもなく、まだ2歳の三法師を推します。
結果は羽柴秀吉の考えが通ります。
理由は信長を討った張本人明智光秀を討った功績と、2歳ではあったが三法師が信長の長男(信忠)の直系であったことなどからでした。
しかし、この時に柴田勝家が信孝を推したのは後の創作と言われていて、後継者は三法師と家臣の間で決まっており後見を信雄か信孝で争ったといわれています。
また、内紛にならないように丹羽長秀や池田恒興が妥協案として出したのが、三法師を後継者としてその後見を織田信孝にするというものでした。
また、この際に柴田勝家は信長の妹・お市の方を正室に迎え、浅井長政とお市の方の娘(茶々・初・江)も引き取ります。
清洲会議は互いに妥協し大きな争いとはなりませんでしたが、この後に羽柴秀吉が行った事が対立の火種となります。
羽柴秀吉が織田家の他大名と私的に誼(よしみ)を結んだこと。
また、同年10月に行われた織田信長の葬儀で、羽柴秀吉の養子となっていた羽柴秀勝が喪主となります。
羽柴秀勝は織田信長の4男でしたが羽柴姓を名乗っていたことから、これは羽柴秀吉が織田信長の後継者であることを世に知らしめたといえます。
この秀吉の行いに柴田勝家は怒り羽柴秀吉との対立が決定的となります。
~羽柴秀吉との激闘と最後~
清洲会議と織田信長の葬儀の後に、柴田勝家や羽柴秀吉はそれぞれ味方を増やしていきます。
柴田勝家は伊勢の滝川一益や三法師と一緒に岐阜城にいた織田信孝と手を組みます。
最初に動いたのは羽柴秀吉でした。
羽柴秀吉は越前国の柴田勝家が雪で動けない12月を狙って
- 天正10年(1582年)12月11日、柴田勝豊(勝家の養子)がこもっていた長浜城を包囲し降伏させる。
※勝豊は同じく勝家の養子であった勝政と不仲だった
- 同年12月16日、織田信孝と三法師がいた岐阜城を織田信雄らと攻撃し降伏させる
- 天正11年(1583年)1月、伊勢国の滝川一益を攻撃し降伏させる
羽柴秀吉の巧みな戦略で先手をとられた柴田勝家は天正11年(1583年)3月にようやく北近江へ出陣します。
そして、北伊勢から戻ってきた羽柴秀吉と同年4月16日から20日に賤ヶ岳(滋賀県長浜市付近)で戦います(賤ヶ岳の戦い)。
しかし、統率力で精彩を欠いたこと(佐久間隊の勝手な進軍)や前田利家の勝手な戦線離脱もあり柴田勝家は敗れてしまいます。
柴田勝家は北ノ庄城へ撤退しますが、同年4月23日に前田利家を先鋒とする羽柴軍に城を包囲されます。
柴田勝家は天守に敵が来るまで戦いましたが、最後は正室のお市の方を刺殺しj自身も自害しました(享年62)。
また、部下80人も一緒に自害しました。
一方、義娘の三姉妹は城から脱出し遥の谷で匿われていたところを羽柴秀吉によって保護されます。
三姉妹はこの後に壮絶な人生を送ることになります。
- 茶々 → 長女 父(浅井長政)と養父(柴田勝家)の仇である豊臣秀吉の側室となり 豊臣秀頼の母となる
大坂の陣で秀頼とともに自害する
- 初 → 次女 出身の浅井氏が仕えていた(浅井氏はもともとは京極氏に仕えてい た)京極氏の当主で従兄の京極高次の正室となる
大坂冬の陣では豊臣方として幕府との和議を仲介する
- 江 → 三女 はじめは佐治一成の正室となるが秀吉によって離縁させられる。
2度目の結婚で羽柴秀勝(秀吉の甥、信長の葬儀の際に喪主となっ た羽柴秀勝とは別人)の正室となるが夫が病死する
3度目の結婚では江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の継室となり徳川家 光を母となる
【エピソード】柴田勝家の人柄や性格が分かる逸話
柴田勝家のエピソード1.瓶割り柴田
このエピソードは織田信長が朝倉征伐の際に義弟・浅井長政の裏切りよって敗退した金ヶ崎の戦いの後の時の話です。
織田信長は体勢を立て直すために近江の各城に武将を配置します。
柴田勝家は長光寺城に配属されますが朝倉と同盟を結んだ六角氏に城を包囲されてしまいます。
六角軍の包囲によって水源を絶たれてしまいますが、柴田勝家は兵の士気を落とさないように考え、余裕があるように装い水が溜まっていた3つの瓶を出し水を振る舞います。
柴田勝家はその3つの瓶を割って決死の覚悟をし皆を奮起させます。
そして、柴田勝家は多勢の六角軍を打ち破りました。
この話を聞いた信長は「瓶割り柴田」と記した感状を送ったと言われています。
※この逸話は一次史料(同年代に書かれたもの)の『信長公記』には信長が瓶割り柴田を使っ たことは書かれていないため、現在では後世の創作とされています。
正し長光寺城の戦いは実際にありました。
柴田勝家のエピソード2.裏切り者の前田利家を許す
柴田勝家が羽柴秀吉と戦った賤ヶ岳の戦いの後の逸話です。
本能寺の変の後に柴田勝家は羽柴秀吉と対立し賤ヶ岳の戦いが起こります。
柴田勝家側には前田利家という武将が付いていました(勝家が北陸方面軍司令官になった際に信長の命で与力となっていた)。
しかし、前田利家が賤ヶ岳の戦いの際に戦わずに戦線離脱したため、結局、柴田勝家はこの戦いで負けてしまいます。
柴田勝家が居城の北ノ庄城に撤退する途中に、前田利家の嫡男・前田利長の居城・府中城で前田利家と対面します。
前田利家は羽柴秀吉とも親密な関係がありました。
それを踏まえた上で柴田勝家は「秀吉と仲が良ければ必ず降るように」、「私のことを思って道を誤ってはいけない」と言い利家の裏切りを咎めませんでした。
この後に起こった北ノ庄城の戦いでは前田利家が先鋒となりました。
※この逸話は最近の研究では前田利家が裏切ったことを正当化するための創作とされていま す。
まとめ 柴田勝家はどんな人?大河ドラマや映画はある?
ここまで柴田勝家について紹介してきましたがいかがでしたか。
まとめてみると
- 柴田勝家は最初は織田信長の家臣ではなかった
- 柴田勝家は織田信長を倒そうとした
- 柴田勝家は織田信長に仕えた後は天下統一の夢を助けた
- 柴田勝家は織田信長の死後は羽柴秀吉と戦った
柴田勝家に関する作品
大河ドラマでは
- 俳優の中尾彬さんが演じた『秀吉』1996年
- 俳優の松平健さんが演じた『利家とまつ~加賀百万石物語~』2002年
- 俳優の勝野洋さんが演じた『功名が辻』2006年
- 俳優の大地康雄さんが演じた『江~姫たちの戦国~』2011年
- 俳優の近藤芳正さんが演じた『軍師官兵衛』2014年
があります。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
以上、「柴田勝家の性格と経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い」でした。
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