役者絵「大谷鬼次の奴江戸兵衛」を代表作品とするのは、かの有名な東洲斎写楽です。
日本のみならず、世界でも有名な浮世絵絵師ですので、1度は作品を目にしたことがあるといった方は多いのではないでしょうか。
そんな東洲斎写楽が絵師として活躍したのは約10カ月という短い間でした。
突然と姿を消した謎の絵師とされ、今でも研究は続けられています。
そこで今回は東洲斎写楽の
- 生い立ち
- 本名
- 代表作品
- 姿を消した謎
をご紹介していきます。
これを読めば、浮世絵絵師・東洲斎写楽の生涯や本名、代表作品などを知ることができますよ。
新文芸坐『写楽』
真田広之、演技派に移行しても冒頭舞台での軽ワザや喧嘩で見せる「片足が不自由になったが身のこなしは依然凄まじい男」役の身体表現力、
古今のアクションスターと比べても世界一でないかと個人的に思う綺麗な軌道と残心の殺陣!
この男なら絵の才能にも一癖あろうという説得力。 pic.twitter.com/hTzjrP1jQr— なべっかず (@nabe_kazoo) 2017年11月5日
東洲斎写楽の生い立ちと本名。写楽という名前の由来や意味
東洲斎写楽はいつどこで誕生し、亡くなったのか未だ判明していない人物です。
東洲斎写楽という名前は本名ではありません。
考証家であり、江戸の町の基本的な史料を残していた斎藤月岑は天保15年(1844年)に『増補浮世絵類考』を著しました。
この『増補浮世絵類考』の「写楽斎」の項の中には、「俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿州侯の能役者也」と記しています。
つまり、東洲斎写楽とは本名を斎藤十郎兵衛といい、八丁堀に住む、阿波徳島藩主蜂須賀家お抱えの能役者である。ということです。
八丁堀は現代でいうと、東京中央区あたりとなります。
このような記述から、江戸時代では東洲斎写楽は斎藤十郎兵衛だと認識されてきました。
当時、八丁堀には徳島藩の屋敷が多く立ち並び、その中にも、徳島藩のお抱え能役者達が多く住んでいました。
また八丁堀の近くには、のちに写楽の作品の出版を行う蔦屋重三郎の書店や、写楽が画題とした芝居小屋もありました。
「東洲斎」というペンネームは、江戸の東に洲がある土地という意味で、このような土地は八丁堀か築地あたりしかありません。
そして「東洲斎」の名を並び替えると、斎、藤、十(さい、とう、じゅう)となり、このようなことから、東洲斎写楽の本名は斎藤十郎兵衛であると考えられました。
こうして東洲斎写楽の素性は斎藤十郎兵衛であるということが分かりましたが、斎藤十郎兵衛の史料は残されておらず、長く証明することができませんでした。
斎藤十郎兵衛の史料が長く見つからなかったため、東洲斎写楽は斎藤十郎兵衛ではなく、有名な絵師が改名した際に用いた名前ではないか?という写楽別人説が誕生しました。
しかし近年の研究において、斎藤十郎兵衛の史料が発見され、
- 斎藤十郎兵衛が八丁堀に住んでいた
- 能役者の公式名簿『猿楽分限帖』、能役者の伝記『重修猿楽伝記』に斎藤十郎兵衛の名前が残されている
- 蜂須賀家の古文書『蜂須賀家無足以下分限帳』『御両国無足以下分限帳』の「御役者」の項目の中に、斎藤十郎兵衛の名前が残されている
- 江戸で活躍した文化人についてまとめた『諸家人名江戸方角分』の八丁堀の項目に「写楽斎 地蔵橋」と記される。これは、八丁堀地蔵橋に「写楽」と名乗る人物が住んでいた。という意味。
- 浄土真宗本願寺派今日山法光寺に保存されている過去帳の中に文政3年(1820年)3月7日に58歳で「八丁堀地蔵橋 阿州殿御内 斎藤十良(郎)兵衛」が亡くなったと記されている
このようなことから、東洲斎写楽は阿波徳島藩主蜂須賀家お抱えの阿波の能役者であった斎藤十郎兵衛であるということが証明されました。
この斎藤十郎兵衛が住んでいた八丁堀地蔵橋は現在の日本橋茅場町郵便局周辺とされています。
写楽の幼少期の記録などは残されておらず、どのような人物であったのかもわかっていません。
絵師として活躍した東洲斎写楽について
しかし、写楽が絵師としてデビューしたのは寛政6年(1794年)5月とされています。
デビュー作となったのは28点もの黒雲母摺大首絵とされ、芝居興行に合わせて販売されました。
写楽が描いた役者絵は、人物の特徴的な容姿をしっかりと描き、容姿の欠点となる部分も誇張して描いていました。
芝居を見に来ていたファンからすると、美化された役者絵を購入したいのに、欠点を誇張され描かれた役者絵を買おうとは思いません。
このことから、売れ行きが良くなかったとされ、また写楽は容姿の欠点を誇張された絵を描かれた役者たちから批判を受けました。
自身のコンプレックスともなる容姿を誇張され、販売されるのですから批判を受けて当然な気もしますね。
このような欠点を誇張し描いた役者絵は
- 「市川蝦蔵の竹村定之進」
- 「三代坂田半五郎の藤川水右衛門」
- 「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」
- 「嵐龍蔵の金貸石部金吉」
があげられます。
寛政6年(1794年)7月から11月にかけて約30枚の作品を残し、この頃は「東洲斎写楽画」という落款を用いました。
11月から寛政7年(1795年)正月までには
- 顔見世狂言を取材した作品58図
- 役者追善絵2点
- 相撲絵2種4図
計64枚の作品を残し、その際
- 「東洲斎写楽画」
- 「写楽画」
この2種類の落款を使用していました。
寛政7年(1795年)正月に残された作品は
- 桐座の狂言を描いた細判10枚
- 大判相撲絵2枚
- 武者絵2枚
計14枚の作品を残し、「写楽画」という落款を用います。
写楽が絵師として活躍したのは、寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年(1795年)1月までの10か月間とされています。
しかし、寛政6年11月頃の作品からは精彩は欠け、絵師としての腕の技術は落ちていきます。
また10カ月という短期間のうちに145点余の大量の作品を残していることから
- 寛政6年11月頃から別人が描いたのでは?
- 写楽が1人で描いたのではなく、写楽の工房によって大量の作品が描かれたのでは?
という推測がなされています。
写楽が描いた役者絵は
- 勝川春章
- 鳥居清長
- 勝川春好
- 勝川春英
- 狩野派
- 曾我派
などの画風が取り入れられているという指摘もされています。
これらの写楽の作品は全て、写楽の屋敷の周辺に書店をかまえていた、蔦屋重三郎によって販売されました。
蔦屋重三郎の書店から販売された写楽の作品には、「蔦屋」という印が捺され、蔦屋重三郎によって販売されたということが分かります。
寛政7年(1795年)正月に作品を制作して以来、絵師・写楽は姿を消しました。
その後、写楽はどのように過ごしていたのか謎に包まれたままですが、浄土真宗本願寺派今日山法光寺に保存されている過去帳には、斎藤十郎兵衛(写楽)は文政3年(1820年)3月7日に58歳に亡くなったとされていることから、写楽が本当に斎藤十郎兵衛(であるならば宝暦12年(1762年)に誕生したということとなります。
【画像】絵師・東洲斎写楽の代表作品。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年(1795年)1月までの、わずか10か月しか絵師として活躍しなかった写楽は145点余のも及ぶ作品を残しました。
その中でも有名な作品をご紹介いたします。
東洲斎写楽の代表的な作品1:「三代目大谷鬼次の奴江戸兵」
この役者絵は寛政6年5月に発表された作品です。
落款は「東洲斎写楽画」と記されました。
この頃に描かれた役者絵は人物の欠点となる部位を誇張して描かれ、売れ行きは良くなかったとされています。
東洲斎写楽の代表作品2:「三代目澤村宗十郎の大岸蔵人」
この役者絵も「三代目大谷鬼次の奴江戸兵」と同じ頃に描かれました。
東洲斎写楽の代表作品3:「市川鰕蔵の竹村定之進」
この役者絵も寛政6年5月頃に描かれました。
『恋女房染分手綱』という狂言に登場した役者の1人です。
重要文化財に指定されています。
【謎のエピソード】東洲斎写楽は誰なのか?外国人?
東洲斎写楽が一体だれなのか、江戸時代から謎となっていました。
斎藤月岑の記した『増補浮世絵類考』の「写楽斎」の項の中に、「俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿州侯の能役者也」と記されており、東洲斎写楽は斎藤十郎兵衛ということがわかりました。
そして近年の研究において、斎藤十郎兵衛という人物が
- 八丁堀に住んでいた
- 能役者の公式名簿に名前が残されていた
- 蜂須賀家の古文書の「御役者」の項目の中に名前が残されていた
- 『諸家人名江戸方角分』の中に、斎藤十郎兵衛という人物が八丁堀地蔵橋に住んでいた
- 浄土真宗本願寺派今日山法光寺に保存されている過去帳の中に文政3年(1820年)3月7日に58歳で斎藤十郎兵衛という人物が亡くなった
ということから東洲斎写楽は斎藤十郎兵衛という人物であることが判明しました。
このように、東洲斎写楽が斎藤十郎兵衛と判明するまで、東洲斎写楽の正体は
- 東洲斎写楽と改名した歌川豊国
- 東洲斎写楽と改名した歌舞妓堂艶鏡
- 東洲斎写楽と改名した葛飾北斎
- 東洲斎写楽と改名した司馬江漢
- 東洲斎写楽と改名した谷文晁
- 東洲斎写楽と改名した円山応挙
- 東洲斎写楽と改名した歌舞伎役者の中村此蔵
なごの推測がされていました。
中には、
- 朝鮮人画家である金弘道
- 西洋人画家
など東洲斎写楽の正体は外人なのではという外人説もあったとされています。
まとめ 東洲斎写楽のドラマや映画はある?
絵師・東洲斎写楽の生い立ちや本名、代表作品などの紹介でした。
簡単にまとめると
- 東洲斎写楽の本名は斎藤十郎兵衛
- 斎藤十郎兵衛という人物は宝暦12年(1762年)に誕生し文政3年(1820年)3月7日に58歳で亡くなった。
- 斎藤十郎兵衛は阿波徳島藩主蜂須賀家お抱えの阿波の能役者であった
- わずか10カ月の活動期間の中で145点余の作品を残した
- 謎の多い人物で、絵師としての活躍以外は、分かっていない
東洲斎写楽は本当に謎の多い人物であったことが分かりました。
絵師として活躍した後は、どのように過ごしていたのか気になりますね。
そんな東洲斎写楽が登場する有名な作品は映画「宮城野」です。
この映画は東洲斎写楽を主人公とした時代劇で、2010年に公開されました。
- 東洲斎写楽を俳優の國村隼さん
- 女郎・宮城野を女優の毬谷友子さん
- 写楽の弟子とされる矢太郎を歌舞伎役者の片岡愛之助さん
- 女将を女優の樹木希林さん
が演じられました。
他にも、映画「写楽」では
- 東洲斎写楽を俳優の真田広之さん
- 蔦屋重三郎を俳優のフランキー堺さん
- 喜多川歌麿を俳優の佐野史郎さん
が演じられました。
これを機に、東洲斎写楽に興味を持った方は映画「宮城野」「写楽」を見てみてください。
以上「東洲斎写楽の生い立ちと本名。代表作品や謎のエピソード」のご紹介でした。
コメント