かの有名な政策「生類憐みの令」を発令したのは江戸幕府の第5代将軍、徳川綱吉です。
ご存知の方は多いでしょう。
徳川綱吉は戌年であったことから犬を中心とし、生き物を大切にしよう。といった「生類憐みの令」を発令しました。
しかし、この政策では、犬の他に猫や鳥、貝、魚、虫もが保護対象となり、一般庶民の生活に大きな影響を与え、このことから綱吉の発令した「生類憐みの令」は「天下の悪法」と評価されてしまいます。
「天下の悪法」とされる「生類憐みの令」を発令した徳川綱吉は一体どのような人物だったのでしょうか。
今回は徳川綱吉の
- 生い立ち
- 経歴
- 性格
- 面白いエピソード
をご紹介いたします。
これを読めば生類憐みの令を発令した徳川綱吉の生い立ち、経歴、性格や面白いエピソードを知ることができますよ。
徳川綱吉の生い立ちとは?
正保3年(1646)1月江戸城で、3代将軍・徳川家光と桂昌院の四男として誕生しました。
幼名は徳松とされます。
慶安4年(1651年)4月に父の3代将軍・徳川家光が亡くなると兄の徳川家綱が父の後を継ぎ、4代将軍となりました。
この時、綱吉は元服し、徳松から綱吉に名前を変えます。
その後、
- 明暦3年(1657年)明暦の大火で自身の屋敷が焼失したため竹林から神田に移る
- 寛文元年(1661年)8月、上野館林藩主になる
などがありました。
徳川綱吉の経歴や最後は?
延宝8年(1680年)、兄の家綱が40歳で亡くなります。
兄・家綱には、男子の子供がおらず三兄の綱重も亡くなっていたことから、兄・家綱の後を継ぐ形で綱吉は内大臣および右近衛大将となり江戸幕府5代将軍に任命されます。
将軍となった綱吉はまず
- 兄・家綱が将軍であった頃の大老・酒井忠清を廃し、次期将軍に綱吉を推薦した堀田正俊を大老とさせます。
- 越後高田藩の継承問題の裁判のやり直し
- 各諸藩の政治活動の監視
などを行います。
綱吉は積極的に文治政治を行う
亡き兄・家綱は生前「左様せい様」と陰口を叩かれていました。
綱吉は家綱時代に下向した将軍権威の向上に力を注ぎ積極的に政治活動を進めます。
この頃、世の中は徳川幕府によって戦は減り安定した生活の送れる時代となっていました。
しかし、江戸の町の中では
- 町民同士の喧嘩
- 放火
- 辻斬り
- 病人や病気にかかった馬などの放置
- 捨て子
など戦国時代の殺伐とした雰囲気は未だ残ったままでした。
そんな社会のモラルを変えようと、綱吉は徳を重んずる文治政治を行います。
綱吉は幼いころから父・家光によって儒学を学ばされていました。
綱吉は、この儒学に大きく影響され
- 儒学者・林信篤を招き経書の討論を行う
- 幕臣たちに四書、易経を講義する
- 幕府が管理を行う学問所である湯島聖堂を建立
このような文治政治を行います。
このことから歴代将軍の中で、最も尊王心が厚かったのは儒学に影響された綱吉とされます。
しかし、貞享元年(1684年)大老であった堀田正俊が若年寄・稲葉正休に殺害されるといった事件が起きます。
その後、綱吉は大老を設置せず、側用人の牧野成貞、柳沢吉保を重臣とし老中を避けるようになりました。
また綱吉は儒学では子供が自身の親に忠実に従うといった「孝」と呼ばれる道徳概念から、自身の母・桂昌院を従一位という高位につけました。
その他にも、母・桂昌院に関わる本庄家、牧野家に対しても手厚い計らいをしたとされていまし。
綱吉によって「生類憐みの令」が発令される
この頃から綱吉は「生類憐みの令」を発令したとされています。
生類憐みの令が発令された理由として有名なのは、綱吉には跡継ぎとなる子供ができなかったため、それを憂いた母・桂昌院が新義真言宗の僧侶・隆光に相談したところ、綱吉は戌年であることから、犬を中心とした生き物を大切にすれば、世継ぎとなる子供ができる。と隆光は進言し、綱吉によって「生類憐みの令」が発布された。というのが一般的に知られています。
一方で、綱吉が戦国時代の殺伐とした雰囲気が未だ残る社会を変えるための、政策の一環として「生類憐みの令」が発布された。とも考えられています。
この生類憐みの令で、綱吉は特に犬の保護に関する条例を多く発布していました。
当時、江戸の中では野良犬が増加しており、そのことから
- 野良犬の虐待
- 野良犬の殺害
- 野良犬によって噛まれる
などが頻繁にあり、綱吉は犬に関しての条例を多く取り上げました。
犬だけではなく、捨て子や放置された病人の保護もこの条例で取り上げており、社会的弱者の保護にも力を注いでいました。
しかし、その保護対象はどんどんと極端なものとなっていき社会的弱者や犬、猫、馬などの他に
- 魚
- 虫
- 貝
までも保護対象となります。
綱吉は「生類憐みの令」の他にも、幕府の財政を立て直すために行った貨幣改鋳は、のちにインフレーションを起こすこととなり、このような政策から庶民に混乱を招いてしまうこととなりました。
よって綱吉の行った政策は庶民に大きな混乱を招いたため「天下の悪法」とされるようになります。
しかし、綱吉が「生類憐みの令」を発布したのは、江戸のモラルの改善、社旗福祉のためでした。
極端な動物愛護法となりましたが、捨て子や放置された病人の保護なども積極的に行っていたため、一概に、綱吉の政策を「天下の悪法」とは言えず、近年では綱吉の行った政策の見直しが行われています。
綱吉は64歳で亡くなる
宝永元年(1704年)綱吉の嫡男・徳松が亡くなっていたため、甥にあたる綱豊(家宣)が6将軍に決定します。
宝永6年(1709年)1月10日、綱吉は64歳で亡くなります。
死因は
- 麻疹の感染
- 餅を喉に詰まらせたことによる窒息死
- 継承問題による鷹司信子の殺害
などの推測がなされています。
【エピソード】徳川綱吉の人柄や性格が分かる逸話
綱吉は、幼いころから父によって儒学を叩き込まれてきました。
その影響は綱吉の行う政治にも大きく反映されます。
政治に影響するまで儒学を勉強していたことから、綱吉が勤勉であったことは間違いないです。
また綱吉は、能がとても好きでした。
代々の将軍たちも、能を好んでいましたが、そのなかでも綱吉は、ずば抜けた能の愛好家で「能狂」と呼ばれたほどとされています。
能の愛好家であった綱吉は自ら能を舞い楽しんでいましたが、自分が舞うだけではなく、小姓や側近、大名たちにも能を舞うことを強制していました。
貞享3年(1686年)4月に能が催しされた際
- 徳川綱教
- 前田綱紀
- 徳川光友
- 徳川綱豊
- 徳川光貞
らが参加しました。
しかし、この日の直前に綱吉が能を舞うよう命じてきたため、急いで能の稽古をしたとされています。
また綱吉が儒学の講義を行うと続けて能を舞っていたとされています。
綱吉は自身で能を舞うだけではなく、家臣に能を舞うことを強制させるまでの能の愛好家であったのですね。
まとめ 徳川綱吉はどんな人?分かりやすいおすすめ作品
徳川綱吉の生い立ち、経歴、性格や面白いエピソードをご紹介しました。
徳川綱吉を簡単にまとめると
- 江戸幕府5代将軍となる
- 社会のモラル向上のため、文治政治を行う
- 「生類憐みの令」を発布
- のちに綱吉の行ってきた政治は悪法とされる
- 勤勉であった
- 能の愛好家であった
極端な動物愛護法「生類憐みの令」の発布によってあまりいい将軍の印象がもたれない徳川綱吉でしたが、江戸のモラル向上、社会福祉のためを思っての発布でした。
そう考えると綱吉が発布した「生類憐みの令」は一概に悪法とは言い切れませんよね。
そんな徳川綱吉は多くの作品に登場しています。
- 映画、大奥〜永遠〜[右衛門佐・綱吉篇]では綱吉役を菅野美穂さん
- ドラマ、忠臣蔵では綱吉役を津川雅彦さん
- ドラマ、大奥〜華の乱〜では綱吉役を谷原章介さん
この中でも映画、大奥〜永遠〜[右衛門佐・綱吉篇]は男女の立場が逆転した江戸を舞台に、主人公の菅野美穂さん演じる徳川綱吉と堺雅人さん演じる右衛門佐が恋に落ちるといった物語で、とてもおもしろかったですよ。
これを機に徳川綱吉に興味を持った方は「大奥〜永遠〜[右衛門佐・綱吉篇]」を見てみてください。
以上「徳川綱吉の性格と経歴、生い立ちや面白いエピソード」のご紹介でした。
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