徳川家定の性格はどんな人で病気や最後の死因とは?妻篤姫との仲や子供とのエピソードが面白い

あなたは徳川家定という人物をご存知でしょうか。

現在放送中の大河ドラマ「西郷どん」において芸人の又吉直樹さんが徳川家定を演じられているので、知っているという方も多いかと思います。

徳川家定は江戸幕府の第13代征夷大将軍となった人物で篤姫を妻に迎えました。

しかし、もともと体調が悪かった徳川家定は将軍に就任してから5年後、35歳でこの世を去りました。

将軍として活躍することのなかった徳川家定は一体どのような人物であったのでしょうか。

今回は、徳川家定の

  • 生涯
  • 性格
  • 病気と死因
  • 篤姫との夫婦仲
  • 子供とのエピソード

についてご紹介いたします。

これを読めば、徳川家定の生涯や死因、性格や篤姫との夫婦仲、子供とのエピソードについて知ることができますよ。

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徳川家定の父母兄弟、篤姫との結婚や子供は?

徳川家定(とくがわ いえさだ)は江戸時代後期にあたる文政7年(1824年)4月8日

  • 父・徳川家慶(江戸幕府第12代将軍)
  • 母・本寿院(側室)

の四男として誕生しました。

父・徳川家慶は正室や側室との間に家定を含め14男13女の子供が誕生しています。

しかし、成人まで生きることができたのは家定だけであったため、天保12年(1841年)頃から父・徳川家慶の後継ぎとなりました。

後継ぎとなった家定でしたが、もともと体は弱く、また幼いころに痘瘡を患い、その後遺症として目に痣があったことから人前に出ることを極度に嫌がっていたため、父・徳川家慶は後継ぎとして務まるか心配したとされています。

そのため、一橋家の徳川慶喜を将軍継嗣として考えましたが、老中の阿部正弘らが反対したため、結局、家定が将軍後継ぎとなったのです。

嘉永6年(1853年)6月22日、父・徳川家慶が61歳で亡くなります。

徳川家定の政治政策の経歴と病気や最後の死因。なぜ死んだ?

父・徳川家慶が亡くなったため、29歳の家定が江戸幕府第13代将軍となりました

嘉永7年(1854年)1月16日、浦賀にペリーが7隻の艦隊を率いて来航します。

この来航は2度目となる来航でした。

1度目は父・徳川家慶が亡くなる19日前であったとされ、この際、幕府に対し開国を要求したとされています。

この時、将軍である父・徳川家慶は病床に伏せていたため、開国の要求に返事をするような状況ではありませんでした。

そのためペリーは開国の要求に対する返事を聞くために、再び1年後日本に訪れると告げ、日本を去って行ったのです。

こうして迎えた1年後の嘉永7年(1854年)1月16日、再びペリーが江戸湾(東京湾)へと到着しました。

去年と同じく、ペリーは幕府に開国・通商を要求してきたため、約1ヶ月にわたる協議の末、幕府は同年の3月3日、アメリカと日米和親条約を結びました。

しかし、この頃から家定の体調は悪化し、幕政は老中・阿部正弘に任せるようになります。

ですが、安政4年(1857年)6月17日にその老中・阿部正弘が亡くなったため、幕政は老中・堀田正睦によって主導されることとなりました。

後継者問題が浮上

病状が悪化した家定は廃人に近い状態となったとされ、家定亡き後の後継者問題が浮上します。

家定には

  • 正室・鷹司政煕の娘・任子
  • 一条忠良の娘・秀子

がいましたが、どちらも早くに亡くなってしまったため、子供はいませんでした

2人が亡くなった後、近衛忠煕の養女・篤姫(天璋院)が迎えられましたが篤姫との間に子供は恵まれず、これに対し

  • 島津斉彬・松平慶永・徳川斉昭ら有力大名は後継者として水戸藩主徳川斉昭の子・徳川慶喜を擁立
  • 保守派である譜代大名や大奥らは、後継者として従弟の紀伊藩主・徳川慶福(後の徳川家茂)を擁立

しました。

前者は一橋派、後者は南紀派と呼ばれるようになり、互いに将軍継嗣をめぐって争うようになります。

しかし、安政5年(1858年)家定は後継者として従弟の紀伊藩主・徳川慶福(後の徳川家茂)を指名したため、家定の後継者は徳川慶福と決定しました。

廃人に近い家定でしたが、意識はあたっため、個人的に気にかけていた従弟の徳川慶福を指名したとされています。

また家定が個人的に徳川慶喜を嫌っていたため、徳川慶福を自らの後継者にしたのではないかと考えられています。

なぜ、家定は徳川慶喜を嫌っていたのかというと、単純に徳川慶喜が自身よりもイケメンであったからとされています。

家定よりもイケメンだったから後継者に外された徳川慶喜、なんだか可愛そうですね。

こうして後継者問題は解決し、家定は同年7月5日、徳川慶喜を擁立していた一橋派の諸大名の処分を行いました。

しかし、その翌日、家定は35歳の若さでこの世を去ります。

家定の後継ぎとして徳川慶福(家茂)が養子となりましたが、家定には実子はいなかったため、これにより家定の血は途絶えることとなりました。

死因について

家定は、一橋派の処分を行った翌日にこの世を去りました。

そのため、処分を不満に思う一橋派によって毒殺されたのではと考えられていますが、

  • 持病の脚気が悪化したため亡くなった
  • 当時流行していたコレラによって亡くなった

とも考えられています。

また家定と会見した米国総領事タウンゼント・ハリスは自身の日記のなかで、家定は言葉を発する直前に頭を後方に反らし、足を踏み鳴らすという行動を行っていたと記されています。

これらの症状は脳性麻痺による症状とされ、家定は脳性麻痺を患っていたのではとも考えられています。

【逸話】徳川家定の性格が分かる大奥とのエピソードは?

篤姫の入興

篤姫は 安政3年(1856年)11月に家定の正室となりました。

この時、篤姫は21歳、家定は33歳、一回りも年齢の離れた夫婦となりました。

ちなみに篤姫は初婚でしたが、家定は3回目の結婚です。

家定の祖父・徳川家斉は男子26人・女子27人の子供がいたとされています。

そんな祖父・徳川家斉の御台所広大院は島津重豪の娘であったことから、それにあやかり家定も、島津出身の篤姫を妻にしたとされています。

また家定のみならず、大奥もこのような意向を示していたとされ、島津家出身の篤姫が入興することとなりました。

しかし、もともと家定は体が弱かったため、篤姫や他の側室との間に残念ながら子供が誕生することはありませんでした。

篤姫と結婚した家定でしたが、結婚してわずか1年7カ月で家定は亡くなってしまったため、2人の夫婦仲についての史料はあまり残されていません。

お菓子つくりが趣味であった

家定はお菓子を作ることが趣味であったとされています。

カステラや饅頭、また煮豆やふかし芋などを自ら作って食べていたとされています。

時には、家臣にも配っていたとされ家定に仕えていた松平春嶽は家定のことを「イモ公方」と呼んでいたとされています。

用心深い性格であった

家定はお菓子つくりを趣味にしていましたが、単純にお菓子つくりが好きだったのではなく、暗殺を恐れ自ら調理していたのではとも考えられています。

暗殺を恐れていた家定は祖父・家斉の屋敷を訪れた際、毒が盛られているかもしれないと疑い、出された食事に一切箸をつけませんでした。

そこから、祖父・家斉と家定は不仲になったとも考えられます。

祖父でさせも、自らを暗殺しようとしているのではないか。と考え、箸をつけなかった家定は、非常に用心深い性格であったことが分かります。

まとめ 徳川家定はどんな人?ドラマや映画や小説はある?

徳川家定の生涯や性格、病気や死因、篤姫との夫婦仲についてご紹介いたしました。

簡単にまとめると

  • 江戸幕府第13代将軍となる
  • 正室や側室を持つも、持病のため子供は恵まれなかった
  • コレラで亡くなったとされる一方、暗殺されたとも推測される
  • 脳性麻痺を患っていたと推測される
  • お菓子つくりが趣味
  • 用心深い性格

徳川家定は、江戸幕府第13代将軍となった人物でした。

しかし、もともと持病を抱えていたため、将軍らしい政務を行うことができなかったとされています。

また篤姫などの正室や、側室を持つも子供に恵まれず、結果世継ぎ問題と発展し、家定の後を従弟の徳川慶福が継ぐこととなります。

しかし、お菓子つくりが趣味だなんて、なんとも可愛らしい将軍ですね。

そんな徳川家定が登場する有名な大河ドラマは現在放送中の「西郷どん」です。

この作品では

  • 徳川家定を芸人の又吉直樹さん
  • 篤姫を女優の北川景子さん
  • 徳川慶喜を俳優の松田翔太さん
  • 徳川慶福(徳川家茂)を俳優の勧修寺保都さん

が演じられています。

芸人として活躍されている又吉さんの、役者としての新たな一面を見ることができますね。

また大河ドラマ「篤姫」では

  • 徳川家定を俳優の堺雅人さん
  • 篤姫を女優の宮崎あおいさん
  • 徳川慶喜を俳優の平岳大さん
  • 徳川慶福(徳川家茂)を俳優の松田翔太さん

が演じられました。

宮尾登美子さんの小説「天璋院篤姫(上)」にも徳川家定は登場していますよ。

これを機に徳川家定に興味を持った方は大河ドラマ「西郷どん」「篤姫」、小説「天璋院篤姫(上)」を見てみてください。

以上「徳川家定の性格、病気や最後の死因、妻篤姫との仲や子供とのエピソード」のご紹介でした。

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