江戸時代初期の京都に一大芸術村を作った本阿弥光悦。
吉川栄治の小説「宮本武蔵」にも登場し、大河ドラマ「武蔵MUSASHI」では、津川雅彦さんが演じていました。
今回は、
- 本阿弥光悦の生い立ちと家族は?
- 本阿弥光悦と芸術家との出会い
- 本阿弥光悦の作品から見るその人物像
について紹介します。
こちらを読めば、本阿弥光悦の経歴や作品、その芸術家としての凄さがわかります。
ぜひ最後まで読んでください。
バガボンド読んでる最近。
纏う気が変わっていく武蔵(主人公)の変遷に惹かれる!
剣の道をゆく武蔵だけど、たぶん1番成長してんのは何よりも心だ。 pic.twitter.com/xavCaq968j
— さのだいち/金沢ゲストハウスマネージャー (@daichissy) 2019年4月12日
本阿弥光悦の生い立ちと家族を紹介
本阿弥光悦は、永禄元年(1558年)京都の上層町衆の本阿弥家の長男として生まれました。
本阿弥家は、室町時代から続く刀剣の研ぎ・ぬぐい・目利きの名家でした。
日本刀は、刀身が美しいだけでなく、鞘(さや)・柄(つか)・鍔(つば)などにも細工が施されます。
そのためには、木工・金工・漆塗り工・蒔絵・染色・螺鈿(らでん:革細工)などの様々な伝統工芸が注ぎ込まれます。
幼い時からそのような工芸品に囲まれて育った光悦は、自然と工芸意識や高い見識眼(目利きの力)が養われてきました。
その後、父が分家したために、家業から離れた光悦は、それまでに身に付けた工芸知識を基に好きな和歌や書を反映させた芸術作品の世界を歩き出しました。
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慶長7年(1602年) 厳島神社の寺宝「平家納経」の修理にあたる
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光悦50歳代の頃 俵谷宗達との合作「鶴下絵三十六歌仙和歌巻(つるしたさじゅうろっかせんわかかん)」を制作。”光悦流”という書を生み出す
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慶長20年(1615年) 徳川家康より京都鷹峯(たかがみね)に広大な土地を与えられ、芸術村を作る
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寛永14年(1637年) 死去
光悦は、亡くなるまで20年余り、鷹峯の芸術村で創作三昧の日々を過ごしました。
本阿弥家には芸術家がいっぱい
光悦の姉法秀は、尾形光琳・乾山兄弟の曾祖母ですので、光悦と光琳は遠い親戚になります。
光悦の作品作りにも関わったことがある楽焼の家元:楽家へ養子に入った宗入の曾祖母も法秀で、光琳・乾山とはいとこ同士です。
光悦の孫本阿弥光甫(こうほ)も陶芸家として有名でした。
本阿弥光悦の交友関係やエピソードからわかる性格とは?
「平家納経」の修理に携わっていた時に、光悦は、数年前に出会っていた若手絵師俵谷宗達(たわらやそうたつ)を参加させます。
俵谷宗達は、才能があるにもかかわらず未だ世に出る機会に恵まれないでいました。
ですが、この経験から大きく羽ばたき、やがて「風神雷神図屏風」や「蓮池水禽図(はすいけすいきんず)」などの傑作を生み出します。
宗達は後に
「光悦翁と出会わなかったら、私の人生は無駄なものに終わっていただろう」
と言い、本阿弥光悦との出会いによって開かれた人生を振り返っています。
光悦は、若く無名でもその才能を見出せば、周りの意見に関係なく育てていこうとする大きな器と実行力を持った人でした。
この後も光悦は宗達との合作を制作することで、宗達だけでなく自分自身も芸術家として羽ばたきます。
”光悦流”と呼ばれる「書」が誕生したことも、光悦と宗達のコラボがあったからこその成果です。
鷹峯芸術村は光悦の理想の地だった
慶長20年(1615年)大坂夏の陣が終わると、徳川家康は、今日の貴族や上流町人に大きな影響を与えていた本阿弥光悦の存在を危険視しました。
そこで家康は、光悦を京都から遠ざけようと企んで、京の北西部、鷹峯に移転させたのです。
ですが、光悦は俗世や権力から離れて芸術に没頭できると喜び、広大な土地の芸術家にとっての理想郷のような芸術村を作りました。
光悦の呼びかけに、絵師・蒔絵師・陶工・金工などの工芸家だけでなく、筆屋・紙屋・織物屋なども集まりました。
すると、風流をたしなむ豪族たちも移り住み、一大芸術村が誕生しました。
光悦の親交は、幅広く武士や公家、僧侶なども芸術村にやってきました。
あの宮本武蔵も、一乗寺での吉岡一門との決闘前に滞在したのです。
光悦の芸術に対する強い思いと人に対するおおらかな心が、このような素晴らしい芸術村を築き、発展させたのです。
光悦はこの芸術村の経営と指導に当たり、光悦自身も大いに制作に励みました。
そして、この芸術村から後世に残る多くの芸術家が育ち、”琳派”という芸術の一大流派が生まれました。
代表的な作品に見る本阿弥光悦の人物像とは?
本阿弥光悦は、近衛信尹(このえのぶただ)・松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)と共に
「寛永の三筆」と呼ばれていました。
俵谷宗達との合作でも素晴らしい光悦流の書を残しています。
ですが、光悦の芸術的才能は、書家という一面だけでなく、工芸家・画家・出版社・作庭師・能面打ちなどなど様々な顔を生み出しました。
中でも陶芸は、自由な発想で個性豊かな作品を生み出しています。
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国宝 白楽茶碗 『不二山』 雪を戴いた富士山をイメージした作品
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黒楽茶碗 『雨雲』 茶色から黒に変わる様子が嵐の予兆を表現しているような作品
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重要文化財 『雪峯』 山に積もる雪と雪解けの渓流を思わせる作品
光悦は、自分の作品である茶碗の箱に署名を入れています。
現在では、作者が署名を入れることは当たり前なのですが、当時の陶芸家には自分の作品を主張するという意識がなく、芸術作品として署名したのは、光悦が初めてでした。
国宝 白楽茶碗 『不二山』
By retouch: Qurren (トーク). – この画像は国立国会図書館のウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, Link
陶芸以外にも有名な作品は数多くあります。
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舟橋蒔絵硯箱(ふなばしまきえすずりばこ) 丸々としたふたに施された蒔絵に草書体で書かれた歌が彫られている斬新なデザイン。古典文学とコラボした逸品
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嵯峨本(さがぼん) 徒然草・方丈記・源氏物語などの作品を光悦らが書き写して出版したもの。豪商の角倉了以(すみのくらりょうい)らも協力。「光悦本」「角倉本」とも呼ばれる
光悦は、伝統を基としながらも自在にスタイルを変えて独自の芸術へと発展させました。
芸術作品は、高価でただ眺めるためのもののように思いますが、光悦は違いました。
美しく気品ある装飾を施したものを日用品として作ったのです。
気品がありながら、ちょっとした遊び心を持たせることで、普段の生活道具として定着させようとしています。
それがまた、光悦の魅力となり、人を惹きつけていたのです。
芸術村にあった本阿弥光悦の屋敷は、今は光悦寺というお寺になり、光悦が作った庭や茶室が残されています。
「光悦垣(こうえつがき)」と呼ばれる竹垣も残されていますが、光悦寺へと続く沿道の苔や石畳から、すでに光悦の世界に入ったような洗練された美しい空間が始まります。
このほかにも多くの素晴らしい芸術品を残した本阿弥光悦。
この人は、伝統文化を重んじながらも、常に新しいことを始める独創的なマルチアーティストだったのです。
まとめ:本阿弥光悦の生い立ちと作品からわかる人物像
今回は、本阿弥光悦を紹介しました。
簡単にまとめておきましょう。
- 本阿弥光悦は多方面に芸術的才能を持つアーティスト
- 本阿弥光悦は芸術家を育てる才能もある
- 本阿弥光悦は伝統と革新を調和させる天才
- 本阿弥光悦の日本芸術への影響は大きい
素晴らしい才能を持ちながら、人々に慕われた本阿弥光悦。
魅力的な人物だからこそ、魅力的な作品を作り出すことができたのですね。
本阿弥光悦をもっと知りたいなら、こんな本やドラマがおすすめです。
- 小説 本阿弥一門 光悦と家康 南条三郎著 南原幹雄編集
光悦の築いた芸術村を舞台に、家康ら幕府要人たちとの攻防、石川五右衛門の遺子まで絡んだ壮大な小説です。
- バガボンド 井上雄彦
吉川栄治氏の「宮本武蔵」を原案として描かれた漫画です。連載第30回に登場しています。刀の研ぎや目利きをする光悦と刀で戦う武蔵の語り合いがまるで闘っているように感じるほどの緊張感ある場面です。
- 大河ドラマ 「武蔵MUSASHI」 2003年放映
どっしりとした重みの中に芸術家としての鋭さと奔放さを隠した本阿弥光悦は、とても魅力的です。演じたのは津川雅彦さんでした。
- 新世紀ワイド時代劇 宮本武蔵 2001年正月放映 テレビ東京系
こちらも原作は吉川栄治氏の「宮本武蔵」です。本阿弥光悦は。田村亮さん(ロンブーではありません、田村正和さんの弟さん)が演じられていました。
以上「本阿弥光悦の生涯と作品からその人となりを見る」でした。
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