あなたは、日本の発明家・平賀源内という人物をご存知でしょうか。
江戸時代に活躍した人物で、日本が鎖国の時代でありながらヨーロッパからもたらされたエレキテル(静電気発生機)を修理、完成させ、また日本初となる量程器(万歩計)、磁針器(方角を測る道具)、燃えない布とされる火浣布を開発しました。
発明家のみならず、コピーライターとしても活躍し「土用の丑の日」というキャッチコピーは平賀源内が作ったとされています。
そんな多彩な才能を持つ平賀源内とは一体どのような人物であったのでしょうか?
今回は平賀源内の
- 生い立ち
- 経歴
- 性格
- エピソード
をご紹介いたします。
これを読めば平賀源内の生い立ちや経歴、性格やエピソードを知ることができますよ。
平賀源内の生い立ちとは?家族や兄弟、父親や子供は?
平賀源内は享保13年(1728年)、現在の香川県さぬき市志度に位置する讃岐国寒川郡志度浦で誕生しました。
- 父・白石茂左衛門
- 母・山下氏の娘
の三男として誕生した源内は多数の兄妹がいたとされています。
兄弟の名前や年齢などは分かっていません。
源内は生涯独身を貫いたため、子供はいなかったとされています。
平賀源内の生涯と最期。死因や経歴は?
讃岐国寒川郡志度浦で誕生した源内は子供の時からものづくりに興味を示し、11歳になった頃、掛け軸に細工をほどこした「おみき天神」を制作します。
掛け軸に取り付けられた紐を引っ張ると掛け軸に描かれる天神様の顔が赤くなるという、からくり掛け軸で、源内は近所の子供たちの驚く顔を見ては喜んでいました。
この「おみき天神」が評判を呼び源内は13歳になった頃、藩医の元で
- 本草学
- 儒学
を学びます。
またこの頃から俳諧なども行っていたとされています。
寛延元年(1748年)になると父・白石茂左衛門が亡くなったため後役として藩の蔵番となりました。
その働きぶりが藩主に認められ宝暦2年(1752年)頃、長崎へと遊学が認められます。
長崎の遊学で源内は
- 本草学
- オランダ語
- 医学
- 油絵
などを学びました。
この長崎の遊学で様々な学術を学んだ源内でしたが、最も印象に残ったのは、長崎の人々が外国製品を不当な価格で購入していたことでした。
源内は不当ともいえる高価な外国製品を買う光景を見て、日本でも同じような製品が作れるのではないか。と考え始めます。
1年の遊学を終え、故郷に戻った源内は妹に婿養子を迎えさせ家督を放棄すると、藩を抜け出し浪人となり宝暦6年(1756年)には江戸へと向かいました。
江戸に出た源内はまず本草学者・田村元雄に弟子入りをし本草学を学びます。
その間、漢学を学ぶために林学にも入門しました。
この頃に
- 量程器(万歩計)
- 磁針器(方角を測る道具)
を発明しました。
再び長崎遊学を行うと、
- 鉱山の採掘
- 精錬の技術
を学びます。
宝暦11年(1761年)には伊豆で鉱床を発見しました。
源内は江戸において日本初となる博覧会を企画します。
この博覧会には、日本各地の珍しい物品などが集まりました。
仕官お構いとなる
宝暦9年(1759年)源内は高松藩の家臣として再登用されましたが、その2年後の宝暦11年(1761年)に江戸へ戻るため再び辞職をしました。
このようにたったの2年で仕事を辞めてしまったため、源内は「仕官お構い」となります。
この「仕官お構い」とは、再雇用の禁止のことであり、今後一切「平賀源内」という人物を雇用してはいけません。と各藩に通告するものでした。
よって源内は今後一切、藩の職につけないということとなります。
しかし、源内は再雇用の禁止が各藩に通告されてもお構いなしであったのでしょう、宝暦12年(1762年)になると第5回目となる物産会「東都薬品会」を江戸の湯島にて開催します。
この物産会は大いに盛り上がり知名度も上がると、この頃から
- 蘭学医・杉田玄白
- 医者・中川淳庵
と交流を深めたとされています。
宝暦13年(1763年)になると「東都薬品会」で出品された出品物の解説書である『物類品隲』を刊行します。
この頃からオランダ博物学に興味を持っていた源内でしたが、オランダ語を読むことができず、オランダ通詞に読み分けさせて読解を行いました。
また談義本の類を執筆するなど文芸活動も行っていました。
またこの頃に
- 平線儀(水平を出す道具)
- 燃えない布である火浣布
を発明します。
鉱山開発を行う
源内が38歳となった明和3年(1766年)、武蔵川越藩の秋元凉朝から依頼され現在の秩父市大滝である奥秩父の川越藩秩父大滝の中津川で鉱山開発を行います。
そこで石綿を発見すると、鉱山開発にのめり込み、
- 秩父における炭焼
- 荒川通船工事の指導
- 安永2年(1773年)には出羽秋田藩・佐竹義敦の依頼で鉱山開発の指導
などを行います。
発電器エレキテル(摩擦静電気発生装置)を修理、完成させる
このように鉱山開発を行う中、7年前の長崎遊学の際に長崎から持ち帰った発電器エレキテル(摩擦静電気発生装置)を修理、完成させます。
この発電器エレキテルとはヨーロッパにおいて使用されていた電気治療のため医療機器で、源内が持ち帰ったときはすでに壊れていました。
当時、日本は鎖国を行っていたため、全く発電器エレキテル(摩擦静電気発生装置)の情報はありません。
修理の仕方も全く分からない状態でしたが、源内は試行錯誤の上、修理完成させることに成功しました。
発電器エレキテル(摩擦静電気発生装置)を修理、完成させたことによって、高価な異国の発明品を輸入しなくても、日本人でもこのような発明品は作ることがきると、源内は日本各地に知らしめることとなります。
殺人事件を起こす
安永8年(1779年)夏になると、源内は橋本町の邸へ移ります。
この頃になると、源内は大名屋敷の修理を請け負うようになりました。
修理の請け負いを共に行う大工の棟梁2人と酒を交わした夜、源内は懐に入れた修理計画書が無いことに気づきます。
酒に酔っていた源内は、棟梁が修理計画書を盗んだと勘違いし、なんと棟梁2人を殺害してしまいました。
こうした事件によって殺人犯となった源内は11月21日に投獄され、12月18日に52歳で破傷風によって獄死となりました。
なんだかあっけない最期ですね。
【エピソード】平賀源内の人柄や性格が分かる逸話
源内は発明家や本草学者、地質学者だけではなく、
- 戯作者
- 浄瑠璃作者
- 俳人
と文芸活動を行っていました。
宝暦13年(1763年)36才の時に「風来山人」というペンネームを使用し『根南志具佐』『風流志道軒傳』を出版して以来、多くの作品を残します。
明和7年(1770)には浄瑠璃『神霊矢口渡』を執筆すると、なんと舞台上演までされることとなりました。
その他にも、コピーライターとしても活躍し、多くの人が聞いたことのある「土用の丑の日」という言葉は源内が作ったとされています。
また画家として「西洋婦人図」(神戸市博物館蔵)を描き、陶芸家として天草深江村の土が製陶に適しているという点に気付いた源内は『陶器工夫書』を幕府に提出するなどを行います。
『陶器工夫書』には、天草深江村の土が陶芸に適している理由、輸出計画などが細かく記載され国益を考え幕府に提出しました。
しかし、幕府には取り上げてもらえず実現はしていません。
源内は生涯
- 発明家
- 文芸家
- 陶芸家
- 画家
- 本草家
- 起業家
- 鉱山家
として活躍しました。
マルチな才能の持ち主であったことがわかります。
同性が好きだった
また平賀源内は生涯独身でした。
忙しくて女性と恋愛する暇がなかったと考えられますが、そもそも源内は男性が好きであったとされています。
男性を恋愛対象として見ていた源内は歌舞伎役者を贔屓にしていたとされ、その中でも大人気の女形の役者である二代目瀬川菊之丞とは親しい仲でありました。
源内が晩年に起こした殺人事件も、実は男性同士の恋愛に関するものが起因なのではと考えられています。
まとめ 平賀源内のドラマや映画や小説はある?
平賀源内の生い立ちや経歴、性格やエピソードをご紹介いたしました。
簡単にまとめると
- 幼少期からモノづくりが好きであった
- 長崎の遊学で異国文化に触れる
- 日本初となる博覧会を企画する
- 日本初となる発電器エレキテル(摩擦静電気発生装置)の修理、完成を行う
- 殺人罪で投獄され、破傷風で獄死する
- マルチな才能の持ち主
- 同性が好きであった
平賀源内はマルチな才能を持ち、多くの副業を経験した人物でした。
しかし、どの職業でも才能は開花され「江戸時代の奇才」「江戸時代のダ・ヴィンチ」と呼ばれています。
たくさんの発明品を世に出し、多くの文学作品を残した源内はもう少し遅くに誕生していれば、もしかすると世界的に有名な発明家になれたかもしれません。
そんな平賀源内は
- 2018年、NHKで放送された『風雲児たち〜蘭学革命篇〜』平賀源内を俳優の山本耕史さん
- 2015年、テレビ東京で放送された『大江戸捜査網2015〜隠密同心、悪を斬る!』平賀源内を俳優の小林稔侍さん
- 1989年、TBSで放送された『翔んでる!平賀源内』平賀源内を俳優の西田敏行さん
に登場しています。
また『それいけ!アンパンマン』には「からくりげんない」として平賀源内がキャラクターで登場しています。
これを機に平賀源内に興味を持ったという方は『風雲児たち〜蘭学革命篇〜』、『大江戸捜査網2015〜隠密同心、悪を斬る!』『翔んでる!平賀源内』を見てみてください。
以上「平賀源内の性格や経歴、生い立ちやエピソード」のご紹介でした。
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