「なぜ明智光秀は織田信長を討ったのか? 改めてその理由を整理/考えてみる!!」

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『本能寺の変』とは

『本能寺の変』前の全国の情勢

1582年3月に長年の宿敵であり脅威でもあった武田家を滅ぼした織田信長にとって、天下統一は現実のものとなっていました。

東北地方の諸大名は、信長に恭順する姿勢であり、北条氏政ともすでに同盟関係にあり、東において信長に敵対し、抗戦を続けるのは上杉景勝のみとなっていました。

西では毛利輝元と長曾我部元親が反抗の姿勢を見せていましたが、九州では大友宗麟、島津義久とも同盟関係を結んでいました。

さらに、徳川家康は長年にわたり信長と同盟を結んでいるので、敵対は考えられず、反信長勢力は全国を見渡しても、かなり限定的になっていました。

4月には信長を太政大臣、関白、征夷大将軍、のいずれかに推挙するという旨も朝廷から打診され、信長の天下統一への道筋は整えられていました。

この頃の織田家の家臣団を見てみると、柴田勝家、前田利家、佐々成政らは北陸方面で上杉氏の討伐に向かい、滝川一益は関東方面の処理に当たり、丹羽長秀は四国征伐のために大坂で準備を行い、羽柴秀吉は中国地方で毛利氏と対峙していました。

主要な家臣はほとんどが前線に位置していて、畿内は明智光秀を除いてガラ空きとなっていました。

このような中、羽柴秀吉から出陣を要請され、信長は中国地方平定に向けての出陣を決意、毛利輝元討伐のための軍を整え、上洛しました。

『本能寺の変』


[現在の本能寺]

1582年5月29日に信長はわずかな手勢を連れただけで上洛し、本能寺に入りました。信長は本能寺と妙覚寺を京都における宿泊先としてよく使っていました。

本能寺には濠がはりめぐらされ、土塁も備えられていて、寺院といえども決して無防備な施設ではありませんでした。

信長の上洛の目的としては、中国地方の平定を見届けるためというのはもちろんのこと、朝廷からの太政大臣、関白、征夷大将軍、のいずれかに推挙という打診への返答をする目的もあったと言われています。

信長は名品といわれる茶器も本能寺に集め、6月1日に公家たちを招き、大茶会を開きました。茶会の後は酒宴となり、嫡男の信忠も参加しました。深夜にようやく信長は就寝しました。

同じく6月1日、明智光秀は1万3千の兵を率いて丹波亀山城を出陣し、京都に向かい、6月2日午前4時ごろには本能寺を包囲、襲撃しました。

信長勢は奮戦したものの、大量の兵に押され、ついに信長は自刃しました。

一方妙覚寺に宿泊していた信忠のところにも明智勢が押し寄せました。信忠は二条御所に移って奮戦したものの明智勢の数は多く、信忠も自刃しました。

こうして信長だけでなく信忠も自害したことにより、織田家は一夜にして歴史の表舞台から姿を消すことになりました。

『本能寺の変』後

本能寺の変の後、光秀は京都を制圧し、6月5日には安土城に入城して金銀財宝を家臣に分け与えるなどしました。

しかし、細川氏や筒井氏など縁戚関係などから光秀に味方してくれると考えていた武将たちは、ほとんど反光秀の立場を鮮明にして、光秀の構想は早い段階から崩れていました。

そのような中で、地方に散らばっていた有力家臣たちにも本能寺の変の報が入ってきます。

なかでも備中高松城を包囲していた羽柴秀吉は、本能寺の変の報を受けるとすぐさま毛利氏と和睦し、畿内へとって返しました。

そして猛スピードで畿内へ戻ってきた羽柴軍と明智軍は天王山の麓の山崎で対峙することになりました。

ここに山崎の戦いが始まりましたが、奇襲により側面を突かれた明智軍はもろくも崩れ去り、明智光秀は坂本城を目指して落ち延びていく途中、落ち武者狩りの農民に襲われて命を落としました。

光秀は大したこともできないでいるうちに、本能寺の変から13日後に敗れ去りました。あまりにも短い天下であったため「三日天下」と呼ばれるようになりました。

羽柴秀吉は、仇敵明智光秀を討ったことにより織田家の家臣団の中でも発言力が増し、一気に天下人への道を突き進むことになります。

なぜ光秀は信長を討ったのか?


[織田   信長]

「光秀の天下取りの野望説」

天下を狙う野望を抱いた明智光秀が、家臣団が分散し、畿内ががら空きになった時を好機と見て、天下取りに乗り出し、信長を討ったとする説もっとも古くから存在する説です。

謀反や反逆といった下克上が当たり前のことであった戦国時代において、光秀にも天下取りの野望があったということです。

丹波亀山城からの出陣を前にした光秀が、愛宕権現に参籠し、翌日、威徳院西坊で連歌の会を催したという記録が残っていて、その連歌の会で光秀は、「ときは今 天が下知る 五月哉」と詠みました。

「とき」というのは源氏の系統に当たる土岐氏の一族である光秀自身のことを指していて、自分が天下を取るためのチャンスは今しかないという意味に受け取ることもでき、この連歌の句は光秀の大いなる野望を指し示すものとして、かなりの説得力を持ちました。

光秀も戦国武将であり、天下への好機をうかがっていたというのが、この野望説であります。

「光秀の怨恨説」

怨恨説は信長の横暴な態度に我慢できなくなった光秀が、恨みを募らせて本能寺の変を起こしたとする説です。

本能寺の変の直前に、安土城を訪れた徳川家康への饗応役を命じられた光秀でしたが、信長の不興を買い解任されてしまったことや信長から中国遠征の直前に現在の領地の丹波と近江の志賀郡を召し上げられ、その代わりとしてまだ敵の領土である出雲、石見を与えると伝えられたことなどが大きな怨恨の原因として挙げられています。

その他にも光秀に対し信長が横暴なふるまいをしたというエピソードは数多くあり、嘘か本当かは別として、本能寺の変の原因として語り継がれてきました。

いずれにせよ、信長の冷酷な態度が原因で光秀は恨みを募らせることになり、ついには我慢が爆発して本能寺の変で信長を殺したというのがこの説の主張です。

この怨恨説は、先に述べた野望説とともに、長い間、本能寺の変の有力な説として支持されてきました。

「黒幕説」

本能寺の変は明智光秀の単独犯行ではなく、裏で糸を引いている人間が存在するとする説です。

1960年代前半までは、光秀の野望説や怨恨説といった単独犯説がほとんど議論の中心であったのですが、1960年代後半には、新たな可能性として注目を集めるようになりました。

朝廷、羽柴秀吉、徳川家康などいろいろな黒幕の存在が挙げられているのですが、その中でも有力と考えられるのは徳川家康ではないでしょうか。

家康は織田信長の命令により嫡男である松平信康を切腹させ、正室である築山殿も殺すことになってしまいました。このような積年の恨みが募って信長に対し反旗を翻したのではないか、また武田氏滅亡によって、信長は家康を不要と感じるようになったのではないかという焦りがあったのではないかなど、いろいろな根拠が出てきます。

明智光秀を使って家康が信長を討ったとするのが黒幕説の一つであり、ここでは家康を例に挙げましたが、その他にもいろいろな黒幕が登場しています。

「四国説」

四国説四国征伐を止めるために明智光秀が本能寺の変を起こしたとする説です。

1575年以後、長曾我部元親は信長から領土は好きに取って、取った領土は元親のものとしてよいというお墨付きをもらっていました。1580年前後には明智光秀が長曾我部元親との交渉に当たっていました。

しかし、信長の狙いは三好三人衆の一人である三好康長を追い詰めることにあったのであり、三好康長が臣従したことにより信長は長曾我部元親に領土を自由に拡大させる必要がなくなってしまいました。

1581年に元親が康長の本領である阿波美馬と三好の2郡を奪う康長は信長に領土自由というお墨付きを撤回して欲しいと懇願します。これを受けて信長は、元親に対して、「長宗我部は土佐1国と南阿波2郡以外は返上せよ」という命令を出します。

これに対して元親は激怒しました。交渉役の光秀は何とか元親を説得しようとしますが失敗し、信長は、四国征伐の準備を進めます。

信長の方針転換により面目をつぶされる形となった光秀が、四国征伐を止めるために信長を襲ったとするのが四国説です。

『本能寺の変』の真相


[明智   光秀]

従来の見解の矛盾点の指摘

ここでは、野望説、怨恨説、黒幕説の矛盾点を指摘していきたいと思います。

野望説には事前に光秀は主だった家臣と信長追討後の戦略を練ったとしている説明があるのですが、この出どころは信長の家臣が書いた「信長公記」であり、どうして信長の家臣が光秀の動向を知ることができたのかという疑問が出てきます。

また、先に述べた 「ときは今 天が下知る 五月哉」という歌も本能寺の変が起きたのは6月なのになぜ5月と呼んだのかという疑問が生じます。

これが野望説の根拠の弱さを示すものであります。

次に怨恨説ですが、これは、信長が光秀に冷たい仕打ちばかりをしていたということが本能寺の変の根拠となったとする説です。しかし、実際の文献を調べてみると、信長の光秀に対する厳しい仕打ちというのは全く出てきません

おそらく、後世に芝居などで面白みを増すために脚色されて、事実がねじ曲げられてしまったのでしょう。

明確な文献資料がない所が怨恨説の弱点となっています。

さらに黒幕説ですが、例えば徳川家康が黒幕だったとしたならば、なぜ本能寺の変が起こった時に堺に滞在していたのかの説明がつきません。本能寺の変後に家康は苦心して伊賀越えを敢行して領国に戻ることになるのですが、家康が黒幕だとしたら、このようなリスクを伴う行動をわざわざ取るでしょうか。

このような矛盾点がどの黒幕にも何か必ず存在しているので黒幕説も今一つ説得力に欠けることになります。

注目される「四国説」


[長曾我部 元親]

ここで四国説に注目が集まるわけですが、もう一度四国説を整理しておきます。

まず、信長は1575年に長曾我部元親に対し、自由に領土を取ってよいというお墨付きを与えます。これは四国を拠点とする三好氏を攻めるためでした。

しかし、三好康長が信長に臣従すると、事態は変わってきます。

長曾我部氏は三好康長の所領を奪うのですが、康長に懇願された信長は長曾我部元親に元親に対し、「土佐1国と南阿波2郡以外は返上せよ」という命令を出し、従来の方針をガラッと変えてしまいます。

長曾我部氏との交渉に当たっていたのが明智光秀であり、四国征伐が行われることになり光秀の面目は丸つぶれです。四国征伐を止めるために本能寺の変を起こしたというのが従来の四国説です。

しかし、信長が方針転換したからといって家臣である光秀が四国征伐を止めるためだけに謀反を起こすでしょうか。ここに四国説の限界がありました。

しかし、近年これにさらなる説が加わって有力度を増しています。

光秀の重臣の斎藤利三の実の兄は石谷(いしがい)家に養子に入った頼辰であり、光秀、利三、頼辰、石谷家には、土岐源氏の血が流れています。頼辰は室町幕府15代将軍足利義昭の家臣であり、信長による義昭追放後、光秀に仕えるようになりました。しかも、頼辰の義父である石谷光政の次女は長曾我部元親の正室であり、長曾我部元親の嫡男の信親にも土岐源氏の血が流れているということになります。 石谷光政(出典:Wikipedia)

土岐氏はかつて室町幕府で要職を務め、明智光秀は土岐源氏の血を引いていることに誇りを持っていました。しかも光秀自身もかつては足利義昭に仕えていました。室町幕府は光秀にとっての理想であったのです。

さらに、毛利氏を頼っていた足利義昭は滞在先の備後国の鞆から信長追討をもくろんでいて、長曾我部元親にも信長追討の書状を送っていました。もしかつての主君である義昭に要請され、四国征伐により土岐源氏の嫡男を持つ長曾我部氏が絶えてしまったらという危惧を光秀が持ったならば、四国征伐を止めるために光秀が信長を討ったとしても不思議はないのではないでしょうか。

このように、にわかに四国説は現実味を帯びてきています。

『本能寺の変』に関するドラマ・書籍

信長とその周囲の人物を描くとき本能寺の変は避けては通れないシーンなので大河ドラマでも本能寺の変の場面はたくさんあります。しかし、厳選すると1992年の大河ドラマの『信長 KING OF ZIPANGU』の本能寺の変のシーンは本能寺での攻防が激しく描かれており、一番迫力があると思います。


『信長 King of Jipang』より

 

>>「信長 KING OF ZIPANGU」(全話配信)を見る

その他最近では、『秀吉』、『利家とまつ』、『功名が辻』などで本能寺の変は描かれています。

>>「利家とまつ」(全話配信)を見る

>>「功名が辻」(全話配信)を見る

さらに今年は明智光秀を主人公とした『麒麟がくる』が放送されています。本能寺の変はいったいどのように描かれるのでしょうか?

>>「麒麟がくる」(放送済回まで)を見る

書籍もたくさんあるのですが、藤田達生著『本能寺の変(講談社学術文庫)』は近年の研究成果をまとめた内容です。

/本能寺の変[本/雑誌] (講談社学術文庫) / 藤田達生/〔著〕

本記事の主題となっている四国説については明智憲三郎著『本能寺の変 431年目の真実 (文芸社文庫)』が詳しく扱っています。

【中古】本能寺の変431年目の真実 / 明智憲三郎

まとめ

本能寺の変は、天下統一目前にあった織田信長が家臣の明智光秀により討たれてしまうという余りにもドラマティックな事件でした。

そのため、様々な原因の究明がなされています。しかし、有力説はあるものの真相の解明には至っていません。その中で本記事で紹介した新しい四国説も説得力のあるものとして考えることができます。

ミステリアスな人物である信長と光秀の本心はいったいどのようなところにあったのでしょうか?

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