あなたは織田信雄(のぶかつ)という人物をご存知ですか。
「織田」と聞いて最初に思い浮かべるのが、あの織田信長でしょう。
そして、今回紹介する織田信雄は織田信長の次男です。
ただ、織田信雄はカリスマ的存在であった父・織田信長とは違い、周りからは「無能」と言われるなど、悪い評価が多くあります。
しかし、織田信雄は江戸時代まで生き、大名として残ったのは信雄の家系だけです。
評価が良くない反面、織田家の名を残した織田信雄の生涯を紹介していきます。
先日放送された大野智(嵐)さん主演の『忍びの国』では織田信雄役をHey! Say! JUMPの知念侑李さんが演じていました。
ちなみに、元フィギュアスケート選手の織田信成さんは織田信雄の家系とも言われています(自称)。
今回は織田信雄について
- 織田信雄の生い立ちとは?
- 織田信雄の経歴や最後は?
- 【エピソード】織田信雄の人柄や性格が分かる逸話
を紹介します。
こちらを読めば織田信雄の生涯や逸話がわかりますよ。
ぜひ読んでみてください。
忍びの国
大野くんの演技がうまくて怖い pic.twitter.com/F20ow6kS9C— mau (@manoa1976) 2019年4月2日
織田信雄の生い立ちとは?
織田信雄は永禄元年(1558年)に尾張国丹羽郡小折(愛知県江南市)で
- 父は織田信長
- 母は生駒吉乃
の次男として生まれます。
幼名は髪を結ったら茶筅(ちゃせん)みたいになることから「茶筅丸」と名付けられます。
織田信雄はこの後に他家を継ぎ、その後、再び織田を名乗っています。
織田信雄が幼少の頃の織田家は父・織田信長によって
- 永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取る
- 永禄5年(1562年)、三河国(愛知県東部)の戦国大名・徳川家康と同盟を結ぶ(清洲同盟)
- 永禄8年(1565年)、織田一族の織田信清を追い出し尾張国を統一する
など着実に勢力を広げていました。
織田信雄の経歴や最後は?
~北畠氏の養子となり北畠氏を乗っ取る~
永禄12年(1569年)、父・織田信長は京へ上洛する道を確保するため美濃国(岐阜県南部)と伊勢国(三重県)方面に軍を向かわせます。
この伊勢方面で織田信雄が登場することになります。
当時、伊勢国は鎌倉時代から続く名門で国司(中央から派遣された行政官)として派遣された北畠氏が治めていました。
北畠氏は第8代当主の北畠具教(とものり)の時に全盛期を迎えます。
そして、この全盛期を迎えていた北畠氏と織田信長は戦うことになります。
織田軍は北畠軍の奮戦により苦戦を強いられますが、北畠具教の弟である木造具政(こづくり ともまさ)を寝返らすなどし2ヶ月ほどで北畠氏の大河内城を降伏させます。
そして、織田信長は和睦の条件として、北畠氏に織田信雄を養嗣子(養子が後継者となる)として送ること求めます。
北畠具豊、北畠具意に改名する
北畠氏は和睦条件を吞んで、当時11歳であった織田信雄(この時は茶筅丸)が北畠具教の養嗣子となり名を北畠具豊に改名します。
天正3年(1575年)に織田信雄は17歳で北畠氏の家督を継ぎ北畠具意(のぶおき)に改名します。
その後、天正4年(1576年)には養父・北畠具教と14人の北畠氏家臣を謀殺し(三瀬の変)、以後、伊勢国ならびに北畠氏の勢力は織田信雄が掌握することになります
~天正伊賀の乱~
織田信雄ならびに親織田派の活躍によって伊勢国も領国化した織田信長は天下統一のために各方面に軍を派遣します。
その中で、織田信雄は伊賀国(三重県西部、伊賀市・名張市)方面を任されることになります。
当時、伊賀国は有力な戦国大名はおらず地侍らが自分たちでリーダー(伊賀十二人衆)を決めて政を行っていました。
この支配者がいなかった伊賀国を織田軍は武力で制圧しようとして起こったのが天正伊賀の乱と言い、この乱を基に描かれたのが先程にも書いた映画『忍びの国』です。
天正7年(1579年)9月、織田信雄は父・織田信長に無断で伊賀国へ攻め入ります。
この時、伊賀の忍びであった下山平兵衛が手引きをしたと言われています。
しかし、伊賀十二人衆を中心とした忍者部隊の戦略(夜襲、攪乱作戦)の前に大敗し、殿軍(しんがり、敵の追撃部隊を迎撃するための部隊で全滅の可能性がある部隊)を率いた織田氏重臣の柘植保重(つげ やすしげ)が討ち死にします(第一次天正伊賀の乱)。
織田信雄の勝手な行動で多くの兵を失った織田信長は、織田信雄に対して「親子の縁を切る」と書いた書状を送ったと言われています。
その後、織田信雄にとってリベンジのチャンスが来ます。
天正9年(1581年)4月、織田信長が再び伊賀国を平定するために軍を編成します。
その総大将に任命されたのが織田信雄です。
今度は織田氏重臣の滝川一益や丹羽長秀が一緒に軍を率いることになります。
織田信雄は5万という大軍もいたことから1ヶ月ほどで伊賀国を制圧しました(第二次天正伊賀の乱)。
この第二次天正壬午の乱のでの伊賀方の犠牲者は約9万人の人口内の3分の1が殺害されたといわれています(非戦闘員も含む)。
~本能寺の変と清洲会議~
織田信雄は父・織田信長の天下統一の夢を成し遂げるために伊勢国や伊賀国を平定しました。
しかし、天正10年(1582年)6月2日に織田信長と織田家の後継者であった織田信忠(信雄の実兄)が明智光秀の謀反で亡くなります(本能寺の変)。
織田信忠 Wikipediaより 明智光秀 Wikipediaより
本能寺の変を知った織田信雄は伊賀国から近江国甲賀郡(滋賀県甲賀市)へ進軍しますが、伊賀国の国人が反乱を起こす可能性があったことから明智軍と戦わずに撤退します。
そして、本能寺の変の数日後に羽柴秀吉が明智光秀を討つと、天正10年(1582年)6月27日に清洲会議が開かれます。
清洲会議では、織田家筆頭家老の柴田勝家と信長の仇討ちをした羽柴秀吉ら計4人が後継問題と領地の再分配について話し合いました。
柴田勝家 Wikipediaより 羽柴秀吉 Wikipediaより
清洲会議が始まる以前、織田信雄は自ら織田信長の次男であることから後継者は自分であると思っていました。
しかし、会議では以下のように決定します。
-
後継者 → 羽柴秀吉が推した三法師(信雄の実兄・織田信忠の遺児、当時2歳)
-
後見役 → 柴田勝家が推していた織田信孝(信雄の異母弟)
織田信雄は後継者どころか後見役(主人を補佐する)にもなれませんでした。
ただ、領地の再分配では尾張国・伊賀国・南伊勢の約100万石を相続し、名を北畠姓から織田姓に復して織田信雄と改名します。
~小牧長久手の戦いと信雄が織田家当主になる~
清洲会議は羽柴秀吉と柴田勝家が互いに妥協したことから、うまくまとまった結果ではありませんでした。
そして、羽柴秀吉の勝手な行動(信長葬儀の喪主を羽柴秀勝(信長の4男)にするなど)に柴田勝家は業を煮やし両者は対立します。
両者の対立は激化し天正11年(1583年)3月に賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉が勝利すると、4月に北ノ庄城を攻撃し柴田勝家を滅ぼします。
この時、織田信雄は羽柴秀吉に味方し、同年5月には異母弟の織田信孝が籠もっていた岐阜城を攻めて降伏させます。
そして、織田信雄は三法師の後見として安土城に入ります。
ところが、織田信雄は羽柴秀吉と対立したことから天正12年(1584年)正月に徳川家康と同盟を結びます。
織田信雄との同盟によって徳川家康は天下を巡って羽柴秀吉と争う大義名分を得ることになり、同年3月に徳川家康は羽柴秀吉に対して宣戦布告します(小牧長久手の戦い)。
序盤は織田・徳川連合軍の方が優勢でしたが羽柴方が優勢になると、織田信雄は伊賀国と伊勢国を羽柴秀吉への割譲を条件に勝手に和睦します。
織田信雄はこの後に羽柴秀吉によって織田家当主に据えられ、以後は羽柴秀吉に臣従することになります。
~豊臣政権から江戸幕府へ~
豊臣秀吉に臣従してからは
- 天正13年(1585年)の富山の役(対 佐々氏)
- 天正18年(1590年)の小田原征伐(対 北条氏)
に従軍し武功をあげます。
また、天正18年(1590年)中には長女で秀吉の養女となった小姫が徳川秀忠(家康の3男)に嫁いでいます。
豊臣秀吉による天下統一後に国替えが行われた際に、織田信雄は尾張国(愛知県西部)から三河国(愛知県東部)と遠江国(静岡県西部)に転封を命じられます。
しかし、織田信雄は祖国であった尾張国からの移動を嫌がり転封を拒否します。
拒否したことで織田信雄は豊臣秀吉から怒りを買い改易(領地没収)されてしまいます。
その後は流罪となり、下野国(栃木県)・出羽国(山形県、秋田県)を転々とし、伊予国(愛媛県)へと流罪となりました。
2年ほどの流浪生活の末、織田信雄は文禄元年(1592年)に徳川家康の仲介で赦免されます。
そして、豊臣秀吉の死後に起こった関ヶ原の戦い(1600年)では、織田信雄は参戦せず大坂にいました。
関ヶ原の戦い後は徳川家康に改易されたため、織田信雄は従妹にあたる淀殿とその子である豊臣秀頼を補佐します。
しかし、慶長19年(1614年)の大坂の冬の陣では徳川方へ転身しています。
元和元年(1615年)、豊臣家が滅んだ後には徳川家康より大和国宇陀郡(奈良県曽爾村など)と上野国甘楽郡(下仁田町など)を与えられます。
また、この頃に織田信雄は隠居します。
寛永5年(1628年)には3代将軍・徳川家光の招待で江戸城で茶会に参加しています。
そして、寛永7年(1630年)に京都で73年という長寿を全うし亡くなりました。
【エピソード】織田信雄の人柄や性格が分かる逸話
ここでは織田信雄に関して伝えられている逸話を紹介します。
織田信雄の逸話1.家臣からも無能と言われる
この逸話はまだ織田信長が生きていた時代で天下統一に向かっていた時のものです。
織田信雄は父からの命令で伊勢国と伊賀国方面を任されていました。
伊勢国に関しては北畠氏を継いだ織田信雄は、元当主で養父でもあった北畠具教ら北畠家臣を謀殺し伊勢国を織田家の領国にしています。
伊勢国については評価できますが、この後の伊賀国を攻めた時に織田信雄は大失敗をしてしまいます。
織田信雄は伊賀国を攻める際に父・織田信長の許可を得ずに侵攻し大敗してしまいます。
この失態を織田家家臣の間からは「三介殿(信雄)のなさる事よ」と言われます。
これを見る限り、織田信雄は以前から失態ばかりしていたように見えます。
また、織田信長の死後に行われた清洲会議の際には、織田信雄を信長の後継者として推薦した者は一人もいませんでした。
織田信雄の逸話2.安土城を燃やす
あなたは日本の城で一番好きな城は何ですか?
日本には世界遺産の姫路城をはじめ、松本城・熊本城・大坂城・名古屋城といった大変立派な城がたくさんあります。
私は城にはそれぞれの特徴があって順位をつける事はあまり好きではないですが、あえて一番好きな城を選ぶとしたら織田信長が築城した安土城です。
安土城天主復元模型1/20スケール(内藤昌監修/安土城郭資料館)
しかし、写真でもわかる通り現在の安土城は天守閣は無く城跡しか残っていません。
この安土城は本能寺の変から3年後の1585年に廃城となりますが、この時は二の丸を中心に機能していて、天守閣は使われていませんでした。
その理由としてはすでに天守閣は燃えて無くなっていたと言われていたからです。
そして、この安土城を燃やした犯人としてあげられているのが織田信雄です。
この織田信雄説が出てきたきっかけとなったのは宣教師ルイス・フロイスの報告によるものです。
本能寺の変後に安土城には明智方が入りますが、羽柴秀吉によって明智光秀が敗れると、安土城には織田信雄が入ります。
ルイス・フロイスはこの時のことを以下のように報告します。
「織田信雄は安土城城下にいる明智軍残党をあぶり出すために火を放った。しかし。その日火は天守へと燃え広がり焼失してしまった。」
これが織田信雄が安土城を燃やした証拠とされていますが、現在ではこの説は説得力にかけていると言われています。
理由としては、城下町から一番遠い天守閣は燃えているのに二の丸は燃えていないからです。
また、ルイス・フロイスはキリスト教に好意的であった織田信孝(信雄の異母弟)に対しては評価が高いことから、織田信雄を後継候補から落とす狙いがあったからではないのかと推測されています。
まとめ 織田信雄はどんな人?大河ドラマや映画はある?
ここまで織田信雄について紹介してきました。
まとめてみると
- 織田信雄は織田信長の次男だった
- 織田信雄は一度は北畠氏を継いだ
- 織田信雄は異母弟の織田信孝を討った
- 織田信雄は羽柴秀吉や徳川家康に仕えた
- 織田信雄は宇陀松山藩の初代藩主になった
- 織田信雄は73歳まで生きた
織田信雄は全体的に評価は高くなく無能として語り継がれています。
しかし、当時の時代背景の影響も織田信雄の評価を落とした原因でしょう。
なんといっても父があの織田信長であるわけですから比べられてもしょうがない部分もあるでしょう。
ただ、織田家の家系を残したことは織田信雄の功績と言って良いでしょう。
織田信雄が登場する大河ドラマは
- 『秀吉』(1996年) 西川弘志
- 『葵 徳川三代』(2000年) 清水幹生
- 『功名が辻』(2006年) 大柴邦彦
- 『江~姫たちの戦国~』(2011) 山崎裕太
- 『軍師官兵衛』(2014年) 小堺翔太
があります。
映画では先日(2019年4月2日)TBSで放送された、知念侑李さんが織田信雄役を演じた『忍びの国』(2017年)があります。
大河ドラマも映画も面白いのでぜひ観てみてください。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
以上、「織田信雄の性格と経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い」でした。
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