松尾芭蕉の性格と経歴は?生い立ちとエピソードが面白い

教科書にも載っている『奥の細道』で有名な松尾芭蕉。

江戸時代の俳人で、俳句界では超有名人ですよね!

今回は松尾芭蕉の

  • 生い立ち
  • 経歴と作品
  • 性格が分かる面白いエピソード

 

について紹介していきます。

こちらを読めば、松尾芭蕉の生い立ち・経歴や作品・性格や人となりが分かって、作品もさらに楽しめるようになります。ぜひご覧ください。

 

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松尾芭蕉の生い立ちは?

松尾芭蕉は1644~1694年、江戸時代の前期を生きた俳諧師です。

伊賀国(現在の三重県)に生まれ、名を宗房と言いました。

松尾家は平家の末流を名乗る一族で、苗字・帯刀を許されてはいましたが、武士ではなく農民の身分でした。

藤堂良忠に仕え、俳諧の道にはいる

13歳の時に父が死んでしまい、兄が家督を継ぎましたが、生活は苦しく、芭蕉は伊賀国上野の侍大将の息子である藤堂良忠に仕えることになりました。

 

藤堂良忠との出会いが松尾芭蕉と俳諧とを結び付けることとなりました。

藤堂良忠と一緒に、京都の北村季吟に師事し、俳諧の道に入りました。

松尾芭蕉の最初の句は19歳の時。

まだ本名である松尾宗房名義で俳句を詠んでいます。

 

春や来し 年や行けん 小晦日

 

この句が松尾芭蕉の俳人生活の始まりの句なんですね。

 

松尾芭蕉の経歴と作品。奥の細道以外は?

19歳で初めて俳句を詠んでから、50歳で亡くなるまでに、芭蕉は1000句を超える俳句を詠んでいます。

長い年月の中で、芭蕉の俳風は5期に分けることができます。

  1. 貞門俳諧の時代
  2. 談林俳諧の時代
  3. 虚栗調の時代
  4. さび追及の時代
  5. 軽みの時代

 

それぞれについて簡単に説明していきますね。

1.貞門俳諧の時代

師として仰いだ北村季吟が貞門派に属していたので、必然的に芭蕉も貞門俳諧を詠むようになりました。

貞門俳諧の特徴は、

  • 俗語や漢語を自由に使い、言葉の中に滑稽さを求める
  • 言語遊戯のようなもの
  • 俳諧としての方式を厳しく定める
  • 内容よりも形式重視

 

が挙げられます。

しかし、芭蕉が23歳の時に、主君良忠が亡くなってしまいました

それに伴い、藤堂家にお仕えすることを辞め、京に移りました。

そこでは、俳諧はもちろん、古典や禅なども学びました。

 

この時に学んだ古典や禅などが、芭蕉の後のスタイルに影響してくるんですね。

29歳の時には、自身初となる句集『貝おほひ』を上野天満宮に奉納しました。

この頃、師匠である季吟から、俳諧作法書『俳諧埋木』が伝授され、季吟の元で学ぶことを卒業しています。

そして、芭蕉は江戸へ向かいました。

 

2.談林俳諧の時代

江戸で生活を始めて数年、31歳の時に芭蕉に大きな転機が訪れました。

当時、大坂で隆盛を極めていた談林俳諧の総帥、西山宗因が江戸にやってきました。

その際に行われた興行に、芭蕉も参加することになります。

この時、本名である宗房から、号名を「桃青」に改めました。

 

この頃、芭蕉は言葉遊びに過ぎない貞門俳諧に飽きを感じており、談林俳諧に大きな感銘を受けました。

談林俳諧の特徴は、

  • 用語、形式は自由
  • 謡曲、故事、古典の引用が多い
  • 破格が許されている
  • 方式にとらわれない、自由な作風をめざす
  • 市民の生活を詠む風俗詩である

 

を挙げることができます。

方式にとらわれていた貞門俳諧に堅苦しさを感じていたのかもしれません。

目の前で起こる、日々の生活を自由に詠み込むことのできるスタイルに心ひかれたんでしょうね。

  • この頃の芭蕉は、まだまだ俳句で食べていけるほどではありませんでした。
  • 景品などがもらえる点取俳諧を好まなかったため、地道に働くしかなかったようです。
  • 水戸藩邸の水道工事の事務仕事をしていたことが分かっています。

 

なんだか、想像がつきませんが、食べていくためには二足のわらじも必須だったんですね。

売れない芸人さんが必死にアルバイトをするのと同じ感覚ですよね。

もちろん、芭蕉も34歳の時に力量を認められて、一人前の俳諧宗匠となり、経済的にも安定することができました。

 

良かったです。

当時の人たちにも、芭蕉の俳句の良さが伝わっていたんですね。

宗匠となってからは、江戸や京都の俳壇と交流を持ちながら、どんどん俳句を詠んでいきます。

『桃青三百韻』は談林派の影響が強く表れた俳句が多く掲載されています。

 

3.虚栗調の時代

宗匠として活躍していた芭蕉ですが、突然、居を深川に移しています。

少し環境を変えて、自分の俳諧のスタイルを見直したかったようです。

この頃から、談林俳諧から少しずつ距離を取って行き始めます。

芭蕉が新たなスタイルの確立を模索し始めた時期です。

現在定着している「芭蕉」の号名を使い始めたのも、この頃からでした。

 

俳諧仲間との交流や評価人としての立場から脱却して、静寂で孤独な生活を始めました。

漢詩文の世界に没頭し、老荘思想のように、俗世間から離れ、自然に倣う中で安らぎを得ようと考えていたのです。

蕉風俳諧と言われる芭蕉スタイルの始まりです。

  • 俗語を主としているが、
  • 雅語に劣らない深い味わいを持つ用語を厳選して使用する
  • 表現は平易だが、内容は深い
  • 自然に没入した境地をめざす
  • わび・さび・しをり・ほそみ・軽みの理念を確立

これらが特徴です。

 

難しい言葉や表現を使うことなく、シンプルに俳句を詠みますが、内容は深いものでなければならなかったんですね。

これって、一番難しいことではないでしょうか。

本当に実力のある人だからこそ詠める俳句です。

虚栗調(みなしぐりちょう)とは、蕉風俳諧の模索期の頃の作風のことを言います。

  • 漢詩調
  • 破調

など、独自のスタイルを開拓していた頃です。

芭蕉の句が『みなしぐり』という本に収録されたので、「虚栗調」と名付けられました。

 

4.さび追及の時代

この頃から芭蕉は「旅」の中に身を置くことを考え始め、実際に多くの旅をしています。

きっかけは、深川の草庵が大火で焼失したことでした。

芭蕉庵は再建されましたが、自分をさらに深化させるため、守られた庵に籠るのではなく、自然と触れ合う旅に出ることにしたのです。

ここから、芭蕉の長きに渡る旅人生が始まりました。

芭蕉はそれぞれの旅を紀行文にまとめてあります。

  • 『野ざらし紀行』:江戸から故郷伊賀へ行き、美濃(岐阜)、甲斐(山梨)を経て江戸へ。
  • 『鹿島紀行』:深川から下総(千葉)の布佐から鹿島まで船旅をした短い紀行文。
  • 『笈の小文』:江戸から須磨・明石へ。
  • 『更科紀行』:美濃から更科(長野)に入り、そこから江戸へ。
  • 『奥の細道』:江戸から陸奥(岩手)や出羽(秋田)を巡り、美濃に至るまで。

 

紀行文ではないものも書いています。

  • 『幻住庵記』:『奥の細道』の旅を終えて、近江(滋賀)の庵で自分の生き方などを描く。
  • 『嵯峨日記』:嵯峨で過ごした日々の俳文日記。

 

これほど多くの紀行文などを書くほど各地を旅していたんですね。

『野ざらし紀行』から帰ってきた時には、江戸で、

 

古池や 蛙飛び込む 水の音

 

という有名な句を詠んでいます。

また、『奥の細道』でも数多くの有名な句を詠んでいます。

  • 夏草や 兵どもが 夢の跡
  • 閑さや 岩にしみ入る 蝉の声
  • 五月雨を あつめて早し 最上川

 

自然の光景をシンプルに詠んでいるのに、その奥に隠された思いはとても深いですよね。

これが蕉風俳諧です。

『奥の細道』の旅では、各地に多くの門人を獲得することにも成功しています。

蕉風俳諧が確立したことを物語っています。

 

5.軽みの時代

『奥の細道』の旅を終えた芭蕉は、近江で門人らと『ひさご』を編みました。

これを読んだ去来は、後に「蕉門の俳風が変化した」と賞賛しました。

この変化が「軽み」でした。

軽みとは、深い思いをさらりと表現したものを言います。

  • 身近な日常のテーマを、
  • 技巧を凝らすことなく素直かつ、平易に表すこと
  • 和歌のような雅できらびやかなものではなく、
  • 日常の事柄を自由に表すこと

 

を目指しました。

確立していた蕉風俳諧が円熟した瞬間でした。

 

6.松尾芭蕉の最期。辞世の句は?

松尾芭蕉辞世の句は

 

旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る

 

でした。

旅先で病気になってしまったが、夢の中ではまだまだ見知らぬ枯野を駆け回っているという意味でしょう。

死の床に伏している状態でも、旅から思いを切り離せていませんね。

これほど、芭蕉にとって旅とは意義深いものだったんです。

芭蕉らしい辞世の句です。

 

このようにして、松尾芭蕉は、今まで言葉遊びだった俳諧を、芸術作品へと導いていきました。

貴族や武士など、高貴な身分ではなく、庶民が詠むことができるものにした点も評価されています。

 

松尾芭蕉の性格がわかる面白いエピソード

多くの句を残した芭蕉は、どのような人だったのでしょうか。

エピソードを添えて紹介します。

実践を重視し、理論にこだわりを持たなかった

松尾芭蕉は謙虚で自由な人、他を認めることのできる人でした。

芭蕉は宗匠にまでなっているので、俳諧に対する論評を書いてもおかしくはないですよね。

多くの人は自分が思い描くものを書き留めて弟子や後世に伝えたいと思うものではないでしょうか。

 

しかし、芭蕉は実践を重視し、理論にこだわりませんでした。

 

門人が自分とは違う考えを持っていても、それを自分流に矯正することもしませんでした。

芭蕉自身がどんどん俳句を詠み、そこから門人たちに読み取らせようとしたんですね。

背中を見て育つようにという思いからでしょうか。

論評を残してしまうと、それを信じて、形式的な頭でっかちな俳風になることを恐れていたのかもしれません。

自分の俳風を押し付けることのない謙虚な姿勢で、俳諧に対するどのような考えも認めることができるのは、すごいですよね。

師として仰ぎたいと思う人が多かったのもうなずけます。

 

点取俳諧(俳句の順位を競って、景品などをもらう)を好まなかったというのも、まさに、俳句は自由に詠むものであって、人に評価されるものではないという考えからきたものでしょう。

(しかし、宗匠になってからは、仕事ですので、点者として人の俳句を評価することはありました。)

松尾芭蕉は必要最小限を好む人だった

もう一つ、松尾芭蕉は必要最小限を好む人だったと言えます。

俳風も、わびさびを好み、シンプルな言葉で句を詠んでいました。

実生活でもこんなエピソードが残っています。

 

芭蕉は自ら竹を裂いて笠を自作し「笠作りの翁」と名乗ることもあったそうです。

「笠」を題材にした句も多くありました。

芭蕉は「笠」を最小の「庵」と見なして、風雨から身を守る住まいも、旅の笠と同じと考えていました。

確かに突き詰めて考えると、庵も笠も同じものと言えますよね。

 

この境地に至るまでには、たくさん思考を重ねたことでしょう。

このような思想は芭蕉のシンプルな俳風と結びつきますよね。

まさに、松尾芭蕉は必要最小限を好む人だったのではないでしょうか。

 

まとめ:松尾芭蕉はどんな人?分かりやすいおすすめ作品

松尾芭蕉の性格と経歴・生い立ちと面白いエピソードについて紹介しました。

簡単にまとめてみますね!

  • 松尾芭蕉は君主の影響で俳句を始め、流派を転々とした
  • 松尾芭蕉は「蕉風」という自分の俳風を確立した
  • 松尾芭蕉は『奥の細道』だけでなく、多くの紀行文を書いた
  • 松尾芭蕉は謙虚で自由な人、他者を認めることのできる人だった
  • 松尾芭蕉は必要最小限を好む人だった

 

自らの俳風を確立し、俳句を何百年にも渡って魅力あるものに導いた松尾芭蕉は、すごい人でしたね!

そんな松尾芭蕉のおすすめ作品は、やはり『奥の細道』です。

  • 『奥の細道が面白いほどわかる本』土屋博映

 

これは松尾芭蕉と、弟子の河合曾良が会話形式で旅を回想するスタイルなので、面白く読み進めることができます。

マンガで読みたい人は

  • 『おくのほそ道 まんがで読破』イースト・プレス
  • 『奥の細道』矢口高雄

 

などがあります。

まずはマンガで概要を掴んでから原書に戻る読み方も分かりやすくていいですよ。

以上、「松尾芭蕉の性格と経歴・生い立ちと面白いエピソード」でした。

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