松永久秀の性格と経歴はどんな人?死因やクリスマスのエピソードが面白い

織田信長に反旗を翻したのは、明智光秀だけではありません。

松永久秀という武将も信長に反旗を翻した人物の1人です。

ゲームや漫画「へうげもの」、大河ドラマ「黒田官兵衛」で知ったという方も多いかと思います。

あまり知られていない武将ですが調べてみると、

  • 信長に2度も反旗を翻した人物であった。
  • 自害による爆死によって亡くなったという逸話を持つ
  • クリスマスを理由に休戦という逸話を持つ

とっても面白い人物であったことが分かりました。

そんな松永久秀の経歴、性格、死因やクリスマスのエピソードをご紹介いたします。

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松永久秀の生い立ちと経歴は?

松永久秀は永正5年(1508年)商人の息子として誕生します。

出身地は

  • 山城国西岡
  • 阿波国
  • 摂津国

これらが推測されています。

天文2年(1533年)又は、天文3年(1534年)頃に細川氏の被官・三好長慶の書記として仕えます。

低い身分であった久秀がなぜ三好長慶に仕えることができたのかは、分かっていません。

天文11年(1542年)三好軍の指揮官として、木沢長政の討伐、大和国人の残党の討伐に参加していた記録が残されていることから、この頃から官僚だけでなく武将として活躍していたことがわかります。

天文18年(1549年)主君・三好長慶は細川晴元、室町幕府13代将軍・足利義輝を近江国へと追放し、京都を支配します。

もともと主君・三好長慶は細川晴元の家臣でしたが、対立関係となっていました。

この時、久秀は三好氏と寺社、公家が揉め事を起こした際、仲介役をするなど行っていました。

三好長慶と共に上洛した際、久秀は治安維持の業務を行う弾正忠に任命され「霜台」と名乗ります。

その後

  • 天文20年(1551年)7月14日 相国寺の戦いに参加
  • 天文22年(1553年)三好長慶が畿内を平定したため摂津滝山城主となる
  • 天文24年(1555年)六角義賢の家臣・永原重興に「将軍・足利義輝は京都から追放されるのは天罰である。」といった書状を送る。

などを行いました。

永禄元年(1558年)になると、近江国に追放されていた、将軍・足利義輝、細川晴元は近江国から京都に向けて進軍します。

将軍山城と如意ヶ嶽で、細川・足利軍と三好軍が交戦となるも、11月に三好長慶と将軍・足利義輝は和睦となりました。(北白川の戦い)

この和睦によって三好長慶は室町幕府において権力を持つようになります。

将軍・足利義輝から御供衆に任命される

和睦が成立した後、永禄3年(1560年)には興福寺を破り大和国を統一、将軍・足利義輝から三好長慶の嫡男・三好義興とともに将軍に供奉した人物を示す御供衆に任命されました。

御供衆に任命された久秀は、三好家と幕府との間の仲介役を務め、両者は良好な関係を保ちまします。

このような活躍によって久秀は将軍・足利義輝の側近のような役割も担っていたとされ、大和一国を任され大名と同様の力を持つようになりました。

その後

  • 永禄4年(1561年)11月 将軍地蔵山の戦い
  • 永禄5年(1562年)5月 久米田の戦い、教興寺の戦い

をへて永禄6年(1563年)12月に久秀は長男・久通に家督を譲ります。

家督を譲った久秀ですが、隠居したわけではありませんでした。

前線で久秀が活躍する一方、主君・三好長慶は

  • 弟の十河一存、三好実休、安宅冬康
  • 嫡男・三好義興

が亡くなります。

三好家の実力者が相次いで亡くなると永禄7年(1564年)7月4日に主君・三好長慶も後を追うように亡くなります。

主君を失った、久秀は三好三人衆らとともに三好家の当主となった長慶の甥・三好義継を支えました。

永禄8年(1565年)5月19日、久秀の嫡男・久通と三好三人衆、三好義継が足利義輝を殺害するといった事件がおきます。(永禄の変)

この事件において久秀は義輝殺害に全く関与していませんでしたが、首謀者と疑われるようになりました。

しかし、その後、久秀の弟・松永長頼が丹波国で戦死すると、久秀は畿内の権力を巡って三好三人衆と対立関係となります。

永禄9年(1566年)三好康長、安宅信康が三好三人衆に味方するようになると14代将軍・足利義栄から久秀討伐令が出されます。

久秀は畠山高政、安見宗房と同盟を結び三好三人衆に対抗しますが、上芝の戦いで敗北し、その後も三好三人衆に敵うことはなく、同年5月30日に堺から脱出し、身をくらませました。

そんな久秀のもとに永禄10年(1567年)2月16日、三好方で三好家の家督であった三好義継が久秀を頼り出奔してきます。

このことによって久秀は再び堺へと戻り、三人衆の陣があった東大寺に奇襲を仕掛け、東大寺大仏殿の戦いで勝利を収めたことによって久秀は畿内の主導権を得ることとなりました。

この時三好側から久秀に寝返った三好義継は南山城国人の椿井氏に宛てた手紙の中で

  • 三好三人衆の悪逆無道な振る舞い
  • 三好家に対する久秀の忠誠心を称える

このような文章を残し、今後、三好義継は久秀と行動を共にするようになります。

久秀は信長の家臣となる

永禄11年(1568年)9月、織田信長が亡き将軍・義輝の弟である足利義昭を将軍に擁立し上洛してきます。

久秀は、信長が上洛すると、まっさきに茶器「九十九髪茄子」を差し出し、三好義継とともに、降伏し、信長の家臣となりました。

足利義昭が第15代将軍となると、畿内は信長によって平定されるようになります。

久秀は、信長から、信長の家臣である

  • 佐久間信盛
  • 細川藤孝
  • 和田惟政

ら2万の兵が送られ、大和国の平定を進めます。

その後

  • 元亀元年(1570年) 信長による朝倉義景討伐
  • 元亀元年(1570年) 金ヶ崎の戦い
  • 信長と三好三人衆の和睦交渉
  • 石山本願寺攻め

などに参加しまた。

この頃になると、反信長連合である信長包囲網が形成されるようになり、久秀は

  • たびたび、信長の家臣である和田惟政や筒井順慶と争うようになる
  • 反信長であった武田信玄と書状で通じ合う

このような信長に対する不穏な行動を行います。

信長に対して、1回目となる裏切りを行う

元亀3年(1572年)、久秀は主君であった信長に敵対する意思を明確にしました。

反信長派から信長殲滅作戦の誘いを受けたことが、1度目の謀反の理由とされています。

この時期になると、信長と将軍・足利義昭は対立関係となっており、久秀は将軍・足利義昭、三好義継、三好三人衆らと信長に謀反を起こします。

しかし、

  • 翌年の元亀4年(1573年)4月に反信長派であった武田信玄が病死
  • 元亀4年(1573年)7月に槇島城の戦いで、足利義昭は信長に敗れ追放
  • 元亀4年(1573年)11月に若江城の戦いで信長の家臣・佐久間信盛によって三好義継が敗死

このようなことがあり、また織田軍によって多聞山城が包囲されたため、久秀は多聞山城を信長に差し出し、降伏しました。

三好三人衆らも信長に敗れたため、ここで信長包囲網は完全に崩壊することとなります。

天正2年(1574年)1月に久秀は信長に許しを得、再び信長の家臣として石山合戦に参加します。

信長は1度裏切った家臣を、許さず処罰するといった人物ではありましたが、久秀には甘く、謀反を許しました。

信長に対して、2回目となる裏切りを行う

しかし、天正5年(1577年)久秀はまたも信長を裏切りました。

2度目の裏切りとなります。

久秀が裏切ったのは反信長派の石山本願寺を攻めていた時のことでした。

久秀は戦いの最中、勝手に戦から離脱し信貴山城に立て籠もります。

これに対し、信長は家臣・松井友閑を久秀のもとに送り、なぜ謀反を起こすのかと理由を問いましたが、久秀は何も答えませんでした。

松永久秀の最後。死因と辞世の句は?

信長は総大将を嫡男・織田信忠にし、久秀のもとに大軍を派遣し、10月になると信貴山城は信長勢によって包囲されます。

信長は、久秀が所有している名器・平蜘蛛茶釜を渡してくれれば、久秀を許すとし、家臣・佐久間信盛が信貴山城に立て籠る、久秀に名器とされる平蜘蛛茶釜を城外に出すよう命じます。

しかし、『川角太閤記』によると久秀は「平蜘蛛の釜と我らの首と2つは信長公にお目にかけようとは思わぬ、鉄砲の薬で粉々に打ち壊すことにする」と述べたとされています。

10月10日、信長軍の攻撃が行われると、久秀はその平蜘蛛茶釜を叩き割って城に火を付け自害しました。

この時、久秀68歳であったとされています。

久秀の最期の言葉は「この平蜘蛛の釜と俺の首の二つは やわか信長に見せさるものかわ」とされています。

意地でも、自身の首と名器・平蜘蛛茶釜を信長に渡したくなかったのでしょう。

久秀の逸話。爆死によって亡くなった?

久秀は爆死によって亡くなったとされていますが、実際、爆死によって亡くなったわけではありませんでした。

『川角太閤記』に久秀は鉄砲の火薬によって名器・平蜘蛛茶釜とともに微塵に砕けたといったことが記され、この逸話にどんどん尾ひれがつき久秀は爆死によって亡くなったとされるようになりました。

【エピソード】松永久秀の性格が分かる逸話。クリスマスとは?

『足利季世記』には「松永は分別才覚、人にすぐれ、武勇は無双なり、諸人これを用ゆるといへども、天性やぶさかに生れついて、大欲深し」と久秀がケチな性格をしていたことが記されます。

またこんな面白い逸話が残されています。

多聞山城にいた時、仙人・果心居士を招き、これまで戦場で1度も恐怖を味わったことがないわしに、そなたの術で恐怖を与えてみろ。と言いました。

仙人・果心居士は久秀に言われた通り、久秀に恐怖を与えるため自身の姿を女性に幽霊に変え久秀に近づいたとされます。

すると久秀は恐怖のあまり顔面蒼白になり、仙人・果心居士にやめるよう頼みました。

女性の幽霊が姿を消した後も久秀は恐怖から震えがとまらなかったという逸話が残されています。

強がっていた久秀も、やはり幽霊は怖かったのですね。

その他にも、久秀の性格が分かる面白いエピソードとして

  • 百姓の処罰の際、百姓に火を付けると、もがき苦しむ百姓を「蓑虫踊り」と呼び楽しんでいました。このような残虐的な性格であったことから、久秀が亡くなると百姓は大喜びしました。
  • 病気予防のため、毎日決まった時刻に頭の上にお灸を据えていました。この予防は信貴山城で自害する直前にも行っていたとされています。

などが残されています。

クリスマスを理由に休戦したとされる逸話について

永禄8年(1565年)または永禄9年(1566年)、三好三人衆と争っていた久秀がクリスマスを理由に休戦した。という逸話があります。

しかし、実際に久秀がクリスマスを理由に休戦したという史料は残されていません。

この逸話が広まった原因の1つに『フロイス日本史』に永禄9年、キリシタンの松永方の兵と三好方の兵が、ともにミサに行きパーティーを行っていたという記述があげられます。

しかし、

  • 永禄9年(1566年)5月、久秀は三好三人衆から攻撃を受け敗走したのち行方をくらましていた。
  • そもそも、久秀は他宗に否定的であった日蓮宗の大檀越であった。
  • 永禄8年(1565年)7月5日にはキリスト教宣教師の洛外追放を命じる女房奉書を朝廷に送った。

このことからクリスマスを理由に休戦したという逸話は、信憑性に欠けるとされています。

まとめ 松永久秀はどんな人?大河ドラマや映画はある?

松永久秀の経歴や性格、死因、面白いエピソードのご紹介でした。

簡単にまとめると

  • 商人の息子として誕生
  • 三好家に仕える
  • 将軍・足利義輝、細川晴元と対立
  • 三好三人衆と対立
  • 信長の家臣となる
  • 信長を2度も裏切る
  • 信貴山城で平蜘蛛茶釜を叩き割って自害
  • 爆死で亡くなったわけではない
  • ケチな性格で、強がりな性格だった
  • クリスマス休戦の逸話は信憑性に欠ける

信長を2度も裏切った松永久秀という武将はユニークな武将であることがわかりました。

そんな武将であったため、信憑性に欠ける逸話が残されたようです。

そんな松永久秀が登場する大河ドラマは「黒田官兵衛」です。

この「黒田官兵衛」では

  • 松永久秀役をミッキー・カーチスさん
  • 織田信長役を江口洋介さん
  • 黒田官兵衛役を岡田准一さん

が演じられました。

裏切り者である松永久秀を演じるのは、日英のハーフであるミッキーカーチスさんですが、優しい雰囲気を持つ俳優さんなので意外な配役ですね。

また松永久秀が登場する小説として

  • 神坂次郎さんの「ドンジョンのある風景ー松永弾正久秀」
  • 花村萬月さんの「弾正星」
  • 安部龍太郎さん「神々に告ぐ」

などがあげられます。

これを機に松永久秀に興味を持ったという方は、大河ドラマ「黒田官兵衛」を見てみてください。

以上「松永久秀の性格や経歴、死因やクリスマス、面白いエピソード」についてのご紹介でした。

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