「槍の又左」と言われた槍の名手の前田利家は織田信長の家臣でした。
前田家というと前田慶次を思い出す人の方が多いかもしれませんが、利家も凄い武将だったんですよ。
加賀百万石の礎となった前田利家について
- 前田利家の生い立ち
- 前田利家の経歴と武将としての強さ
- 前田利家は悪人?
これからのお話を読めば、前田利家についての作品をとても面白く読めるはずです。
前田利家の人柄に触れてみましょう。
【戦国時代の美しき夫婦愛を描く】
大河ドラマ「 #利家とまつ ~加賀百万石物語~」明日9/6(水)よりチャンネル銀河で放送スタートです! #前田利家 #唐沢寿明 #松嶋菜々子 #反町隆史
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前田利家の生い立ちは?
前田利家は1537年に尾張国荒子村(現在の愛知県名古屋市中川区荒子町)で生まれました。
生年については、秀吉が亡くなった時に、「耳塞ぎ餅」を行ったので秀吉と同じ1536年だったとの説もあります。
「耳塞ぎ餅」ってなんでしょうね。
これは同じ年齢の人が亡くなると、その人に呼ばれないように餅をついて耳を塞ぐという行為のことで、一種のおまじないのようなものです。
これをしないと死者に招かれてしまうという言い伝えがあります。
織田信長の小姓として仕える
前田利家の父はその土地の土豪で前田利春といい、利家はその四男として生まれたのです。
幼名は犬千代でしたから、自分のことを「犬」と呼んでいました。
前田利家は15歳になると織田信長の小姓として仕えました。
どうやら利家は信長の寵愛を受けていたようで、同性愛の相手だったようです。
利家はルックスもよく、背も180センチ以上の2枚目でしたから信長に気に入られるのも無理はないですね。この時代恥ずかしいことではなく、むしろ自慢にすることだったのです。
かぶき者であった前田利家
当時の利家は喧嘩早く、短気で、その上相当なかぶき者でした。
かぶき者と聞けばやはり前田慶次を連想しますね。慶次は利家の甥にあたるので血筋なのかもしれませんね。
まあこの頃織田信長もかなりやりたい放題だったようで、利家は身分を超えて信長と仲がよかったようです。
前田利家の経歴と武将としての強さとは
前田利家は1552年に起きた織田信友と信長の争い「萱津の戦い」で首級を1つあげる活躍をしました。
この時信長に「肝に毛が生えておるわ」と言わせたほどです。
利家はこの年に元服して名前を「前田又左衛門利家」と名乗りました。
青年時代の利家は「槍の又左衛門」、「槍の又佐」と言われるほどの槍の名手でした。
1556年に起きた信長の弟織田信勝との家督争い「稲生の戦い」では敵の宮井勘兵衛という小姓頭に目の下を射抜かれながら、この者を討ち取ったのです。強い精神力を感じますね。
まつと結婚する
そのあと信長の赤母衣衆(あかほろしゅう)の筆頭になりました。
その年に従姉妹である「まつ」と結婚しました。
まつは、まだ12歳の幼さでしたが美人で、イケメンだった利家とは美男美女の夫婦でした。
翌年には最初の子供も生まれました。
芳春院(前田まつ)の性格と子供出産の逸話。前田利家や前田慶次との関係は?
織田信長の寵愛していた茶坊主を斬り殺し、追放される
順風満帆に見えた利家でしたが、ある日信長の寵愛していた茶坊主の拾阿弥を信長の前で斬り殺します。散々拾阿弥に馬鹿にされていたので我慢できなかったのです。
怒った信長は利家を追放します。
これから浪人として貧乏な生活をしていましたが、1561年信長と美濃の斎藤龍興の間で戦になり、利家は勝手に参戦して見事に首2つを取りました。
これで信長も怒りを鎮めて、利家の帰参を許したのです。
城主となる
1569年には前田家の家督を継ぎ荒子城主となっています。
1570年の朝倉・浅井を敵とした金ヶ崎の戦いや姉川の戦いでも武功を挙げています。
石山本願寺との間に起こった春日井堤の戦いでは退却する味方の中で1人で踏みとどまり敵を倒したのでした。
1573年一乗谷城の戦い、1574年の長島一向一揆、1575年の長篠の戦いなど鉄砲奉行として次々と活躍したのでした。
1582年本能寺の変で信長が討たれた時、前田利家は柴田勝家に従って上杉景勝を攻めていたため明智光秀を討つ山崎の戦いに加わることができませんでした。
織田信長の死後、柴田勝家につくも
信長の死後、清洲会議で利家は柴田勝家と羽柴秀吉の間で揺れましたが、柴田勝家の与力だったことから柴田の方につきました。
しかし秀吉が柴田勝家を攻めた賤ヶ岳の戦いでは、利家は戦線を放棄したのです。水面下では秀吉の動きがあったものといえるでしょう。
その後柴田勝家のいる北ノ庄城攻めに加わっています。
この時加賀二郡を加増され本拠地を能登から加賀へ移しています。加賀百万石の基礎となったのです。
豊臣秀吉に仕える
1584年秀吉と家康がぶつかった小牧長久手の戦いでも秀吉のために佐々成政と戦っています。
その後も秀吉のために、息子利長とともに北陸や九州で活躍しています。
こうして日本を統一した秀吉は次に朝鮮へと目を向けたのです。
秀吉が名護屋城に行き留守を守ったのは、徳川家康と前田利家でした。
五大老となる
1593年豊臣秀頼が誕生します。しかし秀吉は身体の衰えを感じ始めていました。
そこで
- 徳川家康
- 前田利家
- 宇喜多秀家
- 上杉景勝
- 毛利輝元
この5人を五大老として秀頼の行く末を心から頼み死んでいったのでした。
この後家康は秀吉の法度を破り、大名間の婚姻などを次々と行いました。利家はこれに腹を立て家康派と利家派に分かれて争いになりかけましたが、なんとか和解しました。
その直後利家は病状が悪化し、大阪の自邸でこの世を去りました。享年62歳でした。
死因については胃がんや胆嚢がんだと言われています。
【エピソード】前田利家は悪人的性格?
- 茶坊主を斬ったわけ
- 越前一向一揆での冷徹さ
- 旧友柴田勝頼を裏切る
- 同じく旧友佐々成政と敵対する
- そろばん好き
- 愛妻家?
- 配下の者に慕われる利家
- 死後も戦う強い意志
茶坊主を斬ったわけ
前田利家が織田信長に追放された時、つまり茶坊主の拾阿弥を成敗した時ですがこれには訳がありました。
拾阿弥は信長の寵愛をいいことに悪さばかりをしていました。利家には妻のまつからもらったまつの父親の形見である笄(こうがい)を盗んで隠したりしたのです。一度は信長のとりなして我慢したものの、その後も悪さを続ける拾阿弥に我慢できず斬ってしまうのでした。
利家の短気はありますが、拾阿弥にも罪はあります。
越前一向一揆での冷徹さ
前田利家は越前一向一揆の鎮圧に向かった際、千人を磔にしたり、釜茹でにしたりとかなり酷いことをやったと記録にあります。
信長の命令だと思いますが利家はどういう気持ちだったのでしょう。
命令だからと平気でやったのなら、さすが第六天魔王信長の部下です。怖いです。
旧友柴田勝頼を裏切る
信長の亡き後、一度は柴田勝家につきながら実は勝家を裏切り秀吉についたのも事実です。
勝家とも秀吉とも若い時からの仲間でしたから、利家は随分悩んだと思いますが、勝家を裏切ったことには変わりありません。少し悪役キャラが出てきますね。
同じく旧友佐々成政と敵対する
小牧長久手の戦いでは、佐々成政と戦うことになります。成政とも旧友の仲でしたが家康に味方したことで袂を別つことになってしまいました。
ここでも友を敵に回してしまったのです。
そろばん好き
前田利家はそろばんが大好きでした。いつもそろばんを持ち歩き無駄はないかチェックしていたようです。
果敢な武士の違う一面ですね。
愛妻家?
愛妻のまつとは仲睦まじかったので、妻一筋かと思えば、側室もそれなりにいました。
よく「利家とまつ」と愛妻家夫婦のように呼ばれるのでかなり残念ですが、これも当時の大名としては普通だったのです。それでも利家はまつを大切にしていたことは事実です。
配下の者に慕われる利家
秀吉の政権下では配下の武将にとても慕われていました。
なかでも蒲生氏郷や宇喜多秀家らに慕われ、晩年の秀吉に意見できるのは利家だけだったといいます。
そんな利家を慕ったのは彼らだけではなく武闘派と呼ばれた加藤清正や福島正則にも大変な信頼を得ていました。
死後も戦う強い意志
死の間際にまつが死装束である経帷子を着せようとしました。生前たくさんの人を殺めてきたから地獄へ落ちないように着てほしいと願ったのですが、利家は「自分はなんの理由もなく人を殺めてきたのではないから地獄へ落ちるはずがない。もし地獄ていったなら先に行ったやつとひと暴れするから、その経帷子はお前が被ってこい」と言って跳ね除けたのです。
死に際しても短気で喧嘩早い性格は変わらなかったようですね。
その上、病状の辛さから自分で腹を切って亡くなったとも言われています。かなり辛かったのでしょう。本当に短気ですね。
まとめ 前田利家が活躍するおすすめ作品
前田利家についてエピソードを交えながら紹介してきましたがその生涯はいかがでしたか。
素晴らしい戦績と短気な性格はよくわかりましたね。これを踏まえて読むと作品がより身近に感じられるでしょう。
テレビドラマ
- 「利家とまつ」 NHK大河ドラマ 主演 唐沢寿明
小説
- 「前田利家」 戸部新十郎 光文社文庫
前田家のことを中心として、そのなかでも利家の生涯を描いた一冊です。その後「前田太平記」も執筆しています。
- 「前田利家」 津本 陽 講談社文庫
前田利家をライバルであり友である秀吉との絡みを描いた一冊です。後に「前田加賀百万石」も書いています。
- 「前田利家と妻まつ 加賀百万石を築いた二人三脚」 中島道子 PHP研究所
激動の時代を夫婦て力を合わせ乗り切った様子を書いています。
以上、前田利家の生い立ちと経歴は?性格やエピソードが面白いでした
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