あなたは江戸時代中期から後期にかけて活躍した円山応挙という絵師をご存知でしょうか。
写生を重視し多くの作品を残しました。
その中でも「雪松図屏風 」は国宝に指定されています。
また「足のない幽霊画」を初めて描いた人物としても有名です。
そんな円山応挙という絵師はいったいどのような人物であったのでしょうか。
今回は円山応挙の
- 経歴
- 性格
- 代表作
- エピソード
をご紹介いたします。
これを読めば円山応挙の経歴や性格、代表作やエピソードを知ることができますよ。
円山応挙の生い立ちと生涯は?
円山応挙は江戸時代前期にあたる享保18年(1733年)、現在の京都府亀岡市曽我部町穴太に位置する丹波国南桑田郡穴太村で農家の次男として誕生しました。
応挙の幼少期や少年時代の記録は残されておらず、詳しいことは分かっていませんが10代後半には京都に出て石田幽汀の門人となったとされています。
この石田幽汀という人物は江戸時代、幕府や朝廷の御用絵師を務めた画家集団である狩野派の絵師・鶴澤探鯨から絵画技法を学んだ人物でした。
- 狩野派の技法
- 俵谷宗達や尾形光琳、酒井抱一などを輩出した琳派の技法
などを習得していた石田幽汀でしたので、応挙もこれらの技法を学んでいたとされています。
絵師・円山応挙の経歴や特徴。有名な代表作品。
20代になると京都四条通柳馬場にある尾張屋中島勘兵衛という玩具商店で働き始めます。
この頃、宝暦9年(1759年)頃から主に京都で制作されていた「眼鏡絵」の制作に携わっていたとされています。
この「眼鏡絵」とは、45度に傾けた鏡に写された絵をレンズを覗き見る風景画の一種で、レンズ越しに絵画を見るため、遠近ができ立体的に絵画作品を楽しむことができました。
寛延3年(1750年)頃に遠近法を用いた絵画作品が中国から日本にもたらされます。
それまで、日本の風景画は遠近法が用いられておらず、中国からもたらされた遠近法を使用した絵画作品に多くの人々が注目していました。
こうして宝暦9年(1759年)頃に、レンズを使用して風景画を楽しむ「眼鏡絵」が京都で流行したのです。
応挙は玩具商店で働いていた際、オランダからもたらされた「眼鏡絵」を見て、
- 「四条河原遊涼図」
- 「石山寺図」
- 「賀茂競馬図」
- 「円山座敷図」
- 「三十三間堂図」
を描き京都風景の眼鏡絵を制作しました。
その後、明和3年(1766年)から「応挙」と名乗り始めます。
「応挙」の名前の由来は、「銭舜挙(中国宋末 – 元初の画家)に応ずる」とされています。
つまり、中国の絵師・銭舜挙に見合うような絵師という意味で、中国の絵師・銭舜挙に劣らぬ絵を描こうとする応挙の意が込められました。
またこの頃から、三井寺円満院の祐常門主から絵の才能を認められ、絵画理論を深めていったとされています。
応挙の絵画制作の経済的支援をしていたのは
- 三井寺円満院の祐常門主
- 江戸時代の豪商・三井家
であったとされており、応挙の代表作『七難七福図』、『孔雀牡丹図』などは三井寺円満院に第二次大戦後まで伝来していたとされ、また『雪松図』は三井家に伝来したものとされています。
その後の応挙の行動などはあまり分かってませんが寛政7年(1795年)7月17日に63歳で亡くなりました。
写実的描写を得意とした応挙の技法は弟子たちに受け継がれ、応挙亡きあと、長男・応瑞が円山派を継ぐこととなります。
応挙には多くの弟子がいたとされ最も優れた技術を持つ
- 駒井源琦
- 長沢蘆雪
- 山跡鶴嶺
- 森徹山
- 吉村孝敬
- 山口素絢
- 奥文鳴
- 月僊
- 西村楠亭
- 渡辺南岳
らは「応門十哲」と呼ばれています。
円山応挙の代表作品について
円山応挙の描く作品の特徴として写生重視があげられます。
写生とはモデルとなる物や人物、風景を見たままに写しとるという意味で、応挙は近世の日本の絵師の中でも写生に優れた絵師でした。
写生を重視しながらも、
- 日本絵画の伝統的な画題を扱う
- 装飾豊かな作品
を描きました。
このような応挙の描いた絵は大衆から人気を得ていたとされ、そのため大衆娯楽で取り上げられることが多いです。
円山応挙の代表作品1:「雪松図屏風 」国宝指定
By 円山応挙(1733年- 1795年) – scan by User:Fraxinus2, パブリック・ドメイン, Link
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この作品は一面の雪の中に立派な松が描かれた作品で、金泥と金砂子を使用し雪のまばゆさを表現しました。
京都、大坂、江戸で呉服商と両替店を営んでいた江戸時代の豪商・三井家に依頼され描かれた作品とされています。
円山応挙の代表作2:「七難七福図巻」重要文化財指定
引用

この作品は1768年に描かれたとされる作品で、全3巻からなります。
大乗仏教における経典『仁王経』には、お経を読めば、7つの難はただちに滅んで7つの福が生じる。といった「七難即滅七福即生」が記されています。
応挙と交流を持っていた公家出身の祐常は、この「七難即滅七福即生」の難と福を想像上の「地獄」「極楽」で表すのではなく、もっと現実的に七難、七福を描くことで仏教への信仰心と善行を促すことができるのではないかと考えました。
この考えを応挙に話したところ、応挙が祐常の考えを元に描いたのがこの作品です。
作品には
- 嵐
- 雷
- 獣の害
- 処刑
- 一家心中
- 苦しむ人
- 痛みに耐える人
など、この世の「地獄」ともいえる風景が数々描かれました。
かなり残虐的な描写が多く描かれています。
円山応挙の代表作3:「朝顔狗子図杉戸」
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現在の愛知県海部郡大治町馬島にある明眼院の書院の引き戸、杉戸に描かれた作品です。
明治時代に三井財閥総帥の益田孝が買い取り品川御殿山の邸に移築した後、昭和8年(1933年)に東京国立博物館に寄付されました。
朝顔のつるで遊びながら、じゃれあう子犬が描かれております。
円山応挙の代表作品4:「孔雀図」
By 円山応挙 (Maruyama Ōkyo, 1747 – 1821) – [1] at MIHO MUSEUM, パブリック・ドメイン, Link
三井寺円満院に保管されていたこの作品は、応挙の得意とする写実技法が使用されていることが分かります。
応挙は孔雀の描写を得意としていたとされ、他にも
- 明和八年(1771年)に描いたとされる「孔雀牡丹図」
- 天明元年(1781年)に描いたとされる「桜に孔雀図」
などがあげられます。
【人柄・性格エピソード】弟子や動物との逸話は?
写実を得意とした応挙は、常に写生帖を持ち、暇さえあればスケッチをしていた。と『萬誌』に記されています。
現存する重要文化財『花鳥写生図巻』や東京国立博物館蔵に保管されている『写生帖』には
- 動物
- 昆虫
- 植物
などをあらゆる角度からスケッチされており、応挙はこのようにして日々スケッチを行うことで写生の技術を磨いていったのでした。
スケッチは絵画制作において基礎中の基礎となります。
応挙はそんなスケッチを日々行い腕を磨いていたのです。
「足のない幽霊画」について
応挙は日本で初めて「足のない幽霊」を描いた人物とされています。
応挙の描いた幽霊画は、当時から人気が高く、幽霊画を描く多くの絵師に影響を与えたとされており、幕末から明治前期にかけて活動した浮世絵師・月岡芳年もそのうちの1人です。
「足のない幽霊」を初めて描いたのは応挙であるとされてきましたが、応挙が誕生する60年前の延宝元年(1673年)にはすでに井上播磨掾の浄瑠璃本『花山院后諍(かざんのいん きさきあらそひ)』に足のない幽霊が描かれていました。
この時から京都において、幽霊は足がない。という概念があったことが分かります。
このことから応挙は日本で初めて足のない幽霊を描いた人物ではないということとなります。
まとめ 円山応挙の常設展で見れる美術館は?ドラマや映画はある?
円山応挙の経歴や性格、代表作品や逸話をご紹介いたしました。
簡単にまとめると
- 江戸時代に活躍した絵師
- 農家出身であった
- 「眼鏡絵」の制作に携わる
- 写生を重視する
- スケッチを日々行っていた
- 日本で初めて「足のない幽霊図」を描いた人物ではない
円山応挙の生涯は謎に包まれており、未だ幼少期は青年期などはよく分かっていません。
しかし、農家出身であった彼が絵師となれたのは、基礎中の基礎であるスケッチを暇があれば行っていたからでした。
このような努力があり写生を得意とする絵師となれたのです。
そんな円山応挙が登場するドラマや映画は残念ながらありませんでした。
応挙の絵画作品を常設展で見れる美術館は応挙芦雪館です。
和歌山県東牟婁郡串本町の無量寺の境内に建つ日本で1番小さい美術館とされています。
この美術館では応経の作品
- 「出山釈迦図」
- 「豊干寒拾図・花鳥図」
- 「波上群仙図」
- 「群鶴図」
- 「山水図」
- 「雪中山水図」
- 「無量寺再建祝盃」
が展示されており、また応挙の作品のみならず
- 応挙の弟子・長沢芦雪
- 伊藤若冲
- 狩野山雪
- 狩野探幽
- 白隠
の作品も展示されています。
これを機に円山応挙に興味を持った方はぜひ「応挙芦雪館」に足を運んでみてください。
以上「円山応挙の性格と経歴、生涯の代表作品やエピソード」のご紹介でした。
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