静御前の性格や経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い

あなたは平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した静御前という女性をご存じでしょうか。

大河ドラマ「義経」で女優の石原さとみさんが演じられていたこともありご存知の方もいるかと思います。

かの有名な源義経の妾となった女性で、その生涯は謎の包まれています。

 

そんな静御前の

  • 生い立ち
  • 経歴
  • 性格
  • エピソード

をご紹介いたします。

 

これを読めば静御前の生い立ちや経歴、性格やエピソードを知ることができますよ。


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静御前の生い立ちとは?家族や兄弟、父親や子供は?

静御前は平安時代末期に誕生した女性であるとされています。

 

詳しい生年月日や出身地や両親などについては分かっていませんが、京都府京丹後市網野町磯地区において、磯禅師(いそのぜんし)の娘として誕生しました。

 

母親の磯禅師は白拍子であったため、静御前も白拍子であったとされています。

 

この白拍子とは男装をした遊女や子供が今様や朗詠を歌いながら舞う芸人のことで、母親の磯禅師が、鳥羽天皇の時代に、藤原通憲(信西)が選曲した歌で鳥帽子の男装をし舞ったのが白拍子の始まりとされています。

 

その白拍子が静御前にも伝えられ、静御前は白拍子となったのです。

 

白拍子は主に京都の公家を相手にしていたとされているため、自然と教養や品が身についていったとされています。

 

静御前の生涯と最期。死因や経歴は?

母の磯禅師と同様に白拍子であった静御前も多くの公家の屋敷に出入りしていたと考えられています。

 

そのため、源義経と出会うこととなり、源義経から寵愛をうけ妾になったのではと考えられています。

 

一方で、『義経記』によると、日照りが続き京都が水不足に陥ったため、後白河法皇は神泉苑(京都市中京区にある東寺真言宗の寺院)の池で100人の僧に読経させるも効果はなく、そのため100人の白拍子に舞わせ雨を降らそうと考えました。

 

しかし99人目の白拍子が舞っても雨は降らず、諦めかけていたその時、100人目の静御前が舞ったところ、たちまち雨が降り注いだとされています。

 

雨を降らせた舞を見た後白河法皇は静御前に「カノ者ハ神ノ子カ?」と驚きを見せたとされています。

 

その後も静御前は雨乞いのため住吉で舞うこととなりました。

 

この時、初めて源義経は雨乞いの舞いを行う静御前を目にし、源義経に気に入られた静御前は源義経の妾となったとされています。

 

しかし、源義経の妾になった詳しい経緯は分かっておらず、源義経の妾ではなかったのでは?とも考えられています。

 

源義経の正室・郷御前こそが静御前?

また源義経の正室・郷御前こそが静御前なのではないか?という意見も存在します。

 

吾妻鏡』によると静御前の恋人である源義経には正室・郷御前(河越重頼の娘)がいました。

 

また側室には蕨姫(平時忠の娘)がいたとされています。

 

しかしこれらの記録が記される『吾妻鏡』は時の権力者である源氏から政権を奪った北条氏による編纂書です。

 

北条氏はたびたび『吾妻鏡』において、敵対する者の存在を否定的に書く、また事実とは異なることを記しています。

 

このようなこともあり、源義経の正室・郷御前の母親が北条氏と敵対関係にあった比企氏であったため、郷御前の存在を消すために源義経の妻として静御前を登場させたのではないかと考えられています。

 

源頼朝と源義経の関係性

どのような経緯で源義経の妾になったのかは分かっていませんが、『吾妻鏡』によると、源義経が兄である源頼朝と対立した際も行動を共にしていたとされています。

 

源義経が兄である源頼朝と対立関係となったのは源平合戦が終わった直後です

 

まず、源義経という人物は平治の乱が勃発した平治元年(1159年)父・源義朝と母・常盤御前の三男として誕生しました。

 

父・源義朝には母・常盤御前の他にも妻がおり、そのうちの1人である由良御前との間に久安3年(1147年)4月8日、源頼朝が誕生しています。

 

つまり源義経にとって源頼朝は異母兄ということになります。

 

源義経が誕生したこの年、平治の乱が勃発し、父親である源義朝が平清盛方によって戦死します。

 

ちなみに異母兄である源頼朝は平氏方によって伊豆へと配流されてしまいました。

 

これによって父を亡くした源義経は他の兄弟と、母・常盤御前とともに平清盛に保護されることとなりました。

 

保護された源義経は生まれて間もなく京都にある鞍馬寺へと預けられることとなります。

 

鞍馬寺で成長した源義経でしたが、自身を育て上げた平清盛が実の父親でないことを知ります。

 

また実の父を死に追いやったのは育ててくれた平清盛であるということも知り、平家討伐を誓いました。

 

源義経・源頼朝による平家の討伐

しばたらくたった治承四年(1180年)、伊豆へと配流されていた異母兄・源頼朝が平家討伐を掲げ兵を挙げます。

 

そのことを知った源義経は兄・源頼朝と合流し、共に平家の討伐を行うのでした。

 

源義経は源平合戦において大いに活躍し、兄・源頼朝から京都の治安維持の為に京都に留まるよう命じられます。

 

そのため源義経は京都の治安維持のため京都に留まると、後白河法皇から大変気に入られることとなります。

 

その後も、兄・源頼朝を差し置いて朝廷から官職を与えられることとなるのですが、これに対し兄・源頼朝は不満を抱き、こうして源義経と源頼朝は対立関係となっていくのでした。

 

源頼朝と対立する源義経

とうとう、源義経は源頼朝と対立したことによって朝敵とみなされることととなります。

 

そのため源義経は京都から脱出することを計画し、九州へと船を出しました。

 

この際、静御前も同行したとされていますが、脱出途中、嵐が直撃し船は岸へと戻されることとなりました。

 

そのため源義経は吉野(現在の奈良県)へと向かいます。

 

この時も静御前は源義経とともに同行しようとしましたが、源義経に京都に戻るよう命じられたため、源義経と吉野で別れることとなりました。

 

こうして源義経と別れた静御前でしたが、京都に向かう道中、文治元年(1185)11月17日、源頼朝方に捕らえられ文治2年(1186年)3月、母・磯禅師とともに鎌倉へと送られることとなりました。

 

捕らえられ鎌倉へと送られた静御前は、鶴岡八幡宮社前で源頼朝に舞いを見せよと命じられます。

 

命じられた静御前は義経を慕う歌を唄い舞ったとされ、そのため源頼朝を激怒させてしまいました。

 

源頼朝にとって源義経は対立関係にあたる弟なので、このような歌で舞われたら腹も立つことでしょう。

 

激怒した源頼朝でしたが、源頼朝の妻・北条政子は「もし私が静御前と同じ立場なら、同じように歌うでしょう。」と述べ、怒りを沈めたとされています。

 

源頼朝らによって捕らえられた時、静御前は妊娠中でした

 

もちろん源義経の子供です。

 

そのため源頼朝は静御前の子供が女の子なら、命は助ける。

しかし男の子なら、仇討ちをされないように殺す。と命じます。

 

罪のない赤ちゃんを殺すなど、源頼朝は惨いことをするな。と思いますが、いま生まれてくる男子を殺さなければいつか必ず仇討ちされるという考えが源頼朝にはあったのです。

 

静御前にとって源義経との第一子である子供は残念ながら男子でした。

 

源頼朝の命令通りに誕生したばかりの男の子は静御前から取り上げられ、由比ヶ浜に沈められました。

 

この際、静御前は生まれたばかりの我が子を泣きながら離さなかったとされています。

 

安達清常が取り上げようとするも、静御前は泣き叫び、そのため静御前の母・磯禅師が静御前から赤ちゃんを取り上げ安達清常に渡したとされています。

 

こうして子供を失った静御前は母とともに文治2年(1186年)9月16日、京都へと返されました。

 

静御前を憐れんだ源頼朝の妻・北条政子は京都に帰る静御前にたくさんの重宝を持たせたとされています。

 

その後の、静御前の足取りは不明とされ、静御前がいつどのように亡くなったのかは分かっていません。

 

しかし

  • 岩手県宮古市鈴久名にある鈴ヶ神社で源義経との間にできた2人目の子供を出産しようとするも、難産の末、母子ともに亡くなった
  • 文治5年(1189年)9月15日に他界した
  • 源義経の死を知った静御前は高柳寺(現在の光了寺)で出家するも、22歳の若さで亡くなった
  • 源義経の死を知った静御前は福島県郡山市の美女池で、身を投げ亡くなった

などの諸説があります。

 

【エピソード】静御前の人柄や性格が分かる逸話

源義経と対立した源頼朝に捕らえられると、静御前は鎌倉へと送られました。

 

そんな静御前に対し源頼朝は白拍子を舞うように命じます。

 

夫である源義経と対立する源頼朝の前で舞うのは非常に怖かったのではないでしょうか。

 

しかし、静御前は源頼朝の前で

 

  • 「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」

 

倭文(しず)の布を織る麻糸をまるく巻いた苧(お)だまきから糸が繰り出されるように、たえず繰り返しつつ、どうか昔を今にする方法があったなら

  • 「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」

吉野山の峰の白雪を踏み分けて姿を隠していったあの人(義経)のあとが恋しいと源義経を慕う歌を歌い舞いました。

引用https://ja.wikipedia.org/wiki/静御前

 

これに対し、源頼朝が激怒するのは当たり前です。

 

しかもこの時、静御前は源義経の子供を妊娠していました。

 

妊娠しているにもかかわらず、源義経とともに九州へと向かいその後、源頼朝方に捕らえられ鎌倉へと送られる、非常に心身ともに辛かったのではないでしょうか。

 

そのような中で源頼朝の前で源義経を慕う歌を歌った静御前は肝の据わった女性であったのではないでしょうか。

まとめ 静御前のドラマや映画や小説はある?

Shizuka-gozen in her farewell dance to Yoshitsune.jpg
By 葛飾北斎 – Taken from en.wikipedia. (http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Shizuka-gozen_in_her_farewell_dance_to_Yoshitsune.jpg), パブリック・ドメイン, Link

静御前の生い立ちや経歴、性格やエピソードをご紹介いたしました。

簡単にまとめると

  • 白拍子であった
  • 源義経の妾となる
  • 源義経と源頼朝が対立すると源頼朝に捕らえられる
  • 源義経との子供は生まれて間もなく源頼朝に殺害される
  • 死因や没年は不明

源義経の妾であった静御前は非常に悲しい人生を送った女性でした。

謎の多い女性ですが、源義経に対し一途な想いを持っていたということは確かです。

 

そんな静御前が登場する有名な大河ドラマは「義経」です。

この作品では

 

  • 静御前を女優の石原さとみさん

 

  • 源義経を俳優の滝沢秀明さん
  • 磯禅師を女優の床嶋佳子さん
  • 源頼朝を俳優の中井貴一さん

が演じられています。

 

また赤石路代さんの漫画「天よりも星よりも」に静御前は登場しています。

 

これを機に静御前に興味を持った方は大河ドラマ「義経」、漫画「天よりも星よりも」を見てみてください。

 

以上「静御前の性格や経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い」のご紹介でした。

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