2013年のNHK・連続テレビ小説「あさが来た」で、波瑠さんが演じたことで一気に日本中の人々に知られることになった広岡浅子。
九転十起生(きゅうてんじっきせい)というペンネームでも知られ、気が強く何事にも屈しない性格と、賢さを兼ね備えた彼女は「一代の女傑」と称えられました。
今回は、広岡浅子について
- 広岡浅子の生い立ちや家族を紹介
- 広岡浅子の性格がわかる面白エピソードとは
- 広岡浅子の人物像が分かる面白い逸話とは
を紹介します。
これを読めば、広岡浅子の生い立ちや家族構成・エピソード・逸話などがわかります。
広岡浅子が生涯をかけて成し遂げたこと、後世の女性たちに残したかったことなどを知ることができます。是非、ご覧ください。
今更ながらですが
NHK朝ドラ「あさが来た」に、ハマってます😊
リアルタイムでは、見れなくて全話録画していました。
いつ見ようかと、だいぶ時が過ぎてしまいましたが…
今、漸くです😁元気がでます⤴⤴
辛い事も乗りこえられるような✨ pic.twitter.com/Kwy6nl3n11— カビゴン (@okabigon1969) 2019年4月15日
広岡浅子の性格はどんな人物像?生い立ちやエピソード・逸話が面白い
広岡浅子の生い立ちや家族を紹介
広岡浅子は、江戸時代後期から大正時代中期に活躍した女性実業家、教育者、社会運動家です。
広岡浅子は、山城国京都(現・京都府京都市)三井家の六代当主・三井高益の四女として生まれました。
高益は、正妻との間に三女一男をもうけていました。
しかし、不幸にしていずれも若くして亡くしています。
そのため、浅子の義兄となる高喜を養子にし、自身が48歳のとき高喜に家督を譲りました。
浅子は高益が50歳の時の娘となりますが、母親は不明です。
ちなみに、浅子の姉・春の母親も不明となっています。
また、養子・高喜の長男・高景と浅子の歳は、1歳しか違わず、幼い頃から姉弟同然に育ったため、浅子は高景のことを「愛弟」と呼び可愛がっていました。
この時代、こういう家庭は珍しくなかったのかもしれませんが、なかなか複雑な家庭事情だったようですね。
17歳で広岡信五郎と結婚する
そして浅子は17歳で、大阪の豪商であった加島屋の次男・広岡信五郎と結婚します。
謡曲が趣味で周囲の人々からは妻によく従う夫としてよく知られていた浅子の夫・信五郎ですが、浅子との間に一女、女中ムメとの間に三女一男をもうけています。
女中との間に三女一男をもうけていたというのは、何だか意外な気がしますね。
広岡浅子の性格がわかる面白エピソードとは
幼い頃より裁縫や茶の湯、生け花、琴の稽古などの女性としての嗜みより、四書五経の素読などを好んでいた浅子。
大人でも難しい儒教の経書を意味は分からないとはいえ、読んでいたなんて浅子の学問に対する興味や憧れの強さを強く感じるエピソードですね。
しかし、当時は「女に教育は不要」という時代だっため、家人から学問を禁じられてしまします。
また、気の強かった浅子は、相撲をとるのも好きでした。
お転婆で、男勝りな少女時代を過ごしたんですね!
結婚後、独学で簿記や算術などを学ぶ
その後、加島屋の嫁として広岡家に嫁いだ浅子。
しかし 、当時商家では主人は従業者に任せて業務に関与しないという慣習が強く残っていました。
そんな商科の慣習に強い疑問と限界を感じた浅子は、独学で簿記や算術などを学ぶようになります。
実業業界に飛び込む
浅子が20歳の時、明治維新の動乱の時代を迎え、傾きかけた加島屋の立て直しをかけて浅子は自ら実業界に飛び込み、第9代広岡久右衛門正秋(信五郎の弟)、夫の信五郎と共に、いばらの道を歩むことになるのです。
その一旦として、明治17年(1884年)頃からいち早く炭鉱事業に参入し、筑豊の潤野炭鉱(福岡県飯塚市)を買取、開発に着手します。
単身で炭鉱に乗り込み、護身用のピストルを懐に炭鉱で働く人々と日常生活を共にした話は有名です。
浅子は、男性でもためらうような当時でいえば冒険的事業にあえて乗り出すようなところがあったので、しばし狂人扱いされたのだとか・・・
この時代、まだ女性の地位というものも軽視されがちだったと思いますが、浅子の抜群の行動力と頭の良さには驚かされますね!
また、浅子が関係した事業・女子教育として次のようなことがあげられます。
-
明治21年(1888年) 鹿島銀行を設立
-
明治34年(1901年) 日本女子大学校(現・日本女子大学)の設立(金銭の寄付や政財 界の有力者に協力を呼びかけるなど、強力な援助者となる)
-
明治35年(1902年) 大同生命創業に参画
このように加島銀行設立、大同生命創業など近代的金融事業として加島屋は大阪の有力な財閥へと成長し、これらの活躍により広岡浅子は、明治の代表的な女性実業家として知られていきます。
また幼い頃、学問を禁じられた経験のある浅子は女子教育の大切さをひしひしと感じながら、並々ならぬ情熱を注いでいました。
様々な事業で活躍
また、明治37年(1904年)に夫・信五郎の死去を機に、女子教育や婦人事業、社会貢献事業と自身の学問に専念、愛国婦人会大阪支部授産事業の中心として活躍しました。
さらに日本女子大学設立後も浅子の女子教育に対する情熱は衰えることを知らず、大正3年(1914年)から毎夏、避暑地として建設した別荘で、若い女性を集めて勉強会を開いていました。
参加者には、若き日の政治家、元参議院議員・市川房枝や、NHK・朝の連続テレビ小説「花子とアン」の主人公で「赤毛のアン」の翻訳者・村岡花子らの姿がありました。
別々に描かれたドラマの主人公たちが、歴史の上ではこんな接点があったなんて何だか歴史的ロマンを感じますね!
新島八重の人物像が分かる面白い逸話とは
さて、「あさが来た」のドラマ内ではあさの嫁いだ加島屋を新選組が訪れ、鬼の副長・土方歳三と一色触発というシーンがありました。
これは、広岡浅子が嫁いだ加島屋から新選組が実際400両を貸し付けたという事実を示す、借用書が発見されていたことから、あのようなシーンの着想に繋がったそうです。
囲碁好きであった
さらに、囲碁の愛好家であった浅子は、自らもアマチュアとして上級者で囲碁棋士・石井千治氏を後援していました。
生前から「普段言っていることが、皆遺言です」と述べていた
また、生前より「私は遺言はしない。普段言っていることが、皆遺言です」と口にしていて、「子孫には不動産で資産を残してやりたい」と各地に別邸・別荘を多く残しました。
また、浅子が69歳で死去した際、葬儀は東京と大阪で二度行われ、日本女子大学校では同年、全校を挙げて追悼会が催されました。
「普段言っていることが、皆遺言です」だなんて、何だか惚れてしまいそうですね!
まとめ:広岡浅子はどんな人?分かりやすいおすすめ作品
広岡浅子の生い立ちや家族、面白エピソードや逸話について紹介しました。
最後に広岡浅子についてまとめておきますね!
- 江戸時代後期から大正中期に活躍した女性実業家、教育者、社会運動家。
- 姉、義兄の長男と共に幼少時代を過ごす。
- 幼少時代より、学問に強い興味を示すが家人に読書等学問を禁じられる。
- 17歳の時、大阪の豪商・加島屋の次男・広岡信五郎と結婚。
- 20歳の時、明治維新が起こる。
- いち早く炭鉱事業に参画し、その後、加島銀行の設立や大同生命の創業に参画する。
- 女性実業家として名が知られるようになる。
- 日本女子大学校の設立に尽力する。
- 最後まで社会貢献事業や女性教育に情熱を注ぎ、その生涯を終える。
波乱万丈のように思える広岡浅子の生涯ですが、彼女は自分の人生をかけて私たち後世の人々に、大切なバトンを渡してれた人物だったんですね!
また、様々な人々が彼女の人生を後押ししていることがわかりますね。
広岡浅子のかっこいいい生き様をもっと知りたい!という人にはこの2作品がオススメです。
- NHK・朝の連続テレビ小説「あさが来た」(2013年・NHK/演・波瑠)
- 「小説 土佐堀川 女性実業家・広岡浅子の生涯」(1988年・潮出版/古川智映子)
ぜひ、広岡浅子の生涯や彼女のかっこいい生きざまを感じてください。
以上、「広岡浅子の生い立ちや家族、面白エピソード・逸話」でした。
コメント