元禄時代の代表的な芸術家、尾形光琳。
尾形光琳の作品は、教科書にも載っていますので、あなたも知っているのではないでしょうか?
今回は、
- 尾形光琳の生い立ち
- 尾形光琳の作品とエピソード
- 尾形光琳の面白い逸話から見える人物像
を紹介します。
こちらを読めば、尾形光琳の経歴や人となり、代表作や作品の背景がわかります。
華麗な元禄文化を堪能できる尾形光琳を楽しむためにもぜひ最後まで読んでください。
尾形光琳の生い立ちと家族
呉服屋の次男として誕生
尾形光琳は、万治元年(1658年)、京の呉服屋「雁金屋(かりがねや)」の次男として生まれます。
父は尾形宗謙、代々続いた雁金屋は江戸時代の初めには、淀殿、高台院(豊臣秀吉の妻)徳川家康や秀忠などもお得意さまでした。
祖父の尾形道栢(どうはく)は、優れたアートディレクターだった本阿弥光悦の姉法秀の夫でした。
弟は、京焼の名人になる乾山。
父も風流を愛する多趣味な人だったことや、生家の影響もあり、光琳も自然と芸術に触れる生活でした。
働かず自由気ままに生きた尾形光琳
ですが、いつまでも独身で気ままな生活を送り、まともに働こうとしない光琳に、父親は頭を痛めていました。
- 貞享4年(1687年) 父宗謙が死去。家業は光琳の兄藤三郎が継ぐ
兄が継いだころは、雁金屋の経営は傾いていましたが、幼い頃から裕福な暮らしをしていた光琳に質素倹約するという概念は全くありません。
光琳の遊び癖は治りませんでした。
- 元禄6年(1693年) 弟乾山に借金を頼む
兄光琳とは正反対で堅実で物静かな乾山の助言もあり、この頃から光琳は本格的に絵画を始めます。
絵師になるも家業として考えてはいなかった
- 元禄14年(1701年) 絵師として栄誉のある位である「法橋(ほうきょう)」を与えられる
- 宝永元年(1704年) 江戸へ下る
- 宝永6年(1709年) 京に戻る
- 正徳元年(1711年) 二条城の東方に屋敷を構えて、絵画制作に集中する
- 正徳3年(1713年) 長男寿市郎に遺言書を書く
この遺言には「相究タル家業モ之レ無ク」
「これと決めて頑張って来た家業も無く…」と記されているところから
光琳は絵を書くことを家業と考えていなかったことがわかります。
尾形光琳の最期
家業を持たない光琳は、長男を他家へ養子にやることを決心します。
- 享保元年(1716年) 死去。享年59歳
尾形光琳が絵師として本格的に活躍したのは、40代から59歳に亡くなるまでの数十年間だけでした。
尾形光琳の代表的な作品とエピソード
父の死後、お金に困った光琳は、相続した屋敷も手放してしまいました。
心配した弟に勧められ絵師になった光琳でしたが、どうすれば仕事がもらえるのかわかりません。
仕方なく手近にあった団扇(うちわ)に絵を描いて売ることにします。
燕子花図屏風を制作、絵師として活躍をはたす
団扇を金色に塗り、その上に美しい花を描き、黒々を一筆書きます。
光琳の団扇は、京の都で大評判!
その評判は貴族たちの耳にも届き、名門の二条家からの依頼である寺に納める屏風(びょうぶ)を描く仕事が入ってきました。
そして完成したのが
- 燕子花(かきつばた)図屏風 国宝
光琳は,かきつばたを着物の柄のようにシンプルに並べて描いています。
でもよく見ると、満開、つぼみ、五分咲きなどいろいろな花を描いているのです。
呉服屋での暮らしで着物に親しんでいたことと光琳本来の才能がコラボした素晴らしい作品となりました。
この屏風で、光琳は一躍その名を知られるようになりました。
By 尾形光琳 – Nezu Art Museum, パブリック・ドメイン, Link
俵屋宗達の「風神雷神図屏風」との出会い
尾形光琳の才能に惚れ、支援を続けるようになったのが、京の都きっての大商人中村内蔵助(くらのすけ)でした。
内蔵助の援助もあり、光琳の絵師としての仕事は順調でした。
しかし、相変わらず生活自体はだらしないことに心配した弟は、「上には上がある」ことを見せて光琳の気持ちを引き締めようと、ある絵を紹介します。
それが、俵屋宗達の「風神雷神図屏風」です。
光琳はその絵のすばらしさに度肝を抜かれます。
そして、どんどん絵画制作にのめり込みましたが、俵屋宗達に追いつき追い越すような絵を描くことはできませんでした。
中村内蔵助が、江戸へ移ることに伴い、光琳も江戸に行くことにしました。
By 俵屋宗達 (Tawaraya Sotatsu, ? – ?) – Brother Sun , Sister Moon, パブリック・ドメイン, Link
「紅白梅図屏風」の制作
江戸において、光琳は水墨画に出会い衝撃を受けます。墨だけで描かれる懐深い絵画に光琳は多くを学びます。
5年ほどで京へ帰ってくると、光琳は二条城の近くに屋敷を建て、創作に没頭しました。
俵谷宗達の「風神雷神図屏風」を写し、宗達の発想を理解しようともします。
ですがやはり俵谷宗達を超えることはできません。
そんな中、名作が誕生しました。
- 紅白梅図屏風 国宝
江戸で学んだ水墨画の画法を用いながら描かれたこの絵は、紅白梅と言いながら、中心の大きく黒い川が主役のようにも見えます。
鮮やかな梅たちと対照的な黒い川は、人生の陰の部分を想像させるものでした。
俵谷宗達に勝るとも劣らない作品を完成させてまもなく光琳は亡くなります。
若い時から家族を困らせ、迷惑をかけた光琳は、最期に後世に残る名作を遺したのです。
By 尾形光琳 – 1QHaWaqlJnZ_Kg at Google Cultural Institute, zoom level maximum, パブリック・ドメイン, Link
尾形光琳の作品は、もちろん他にもたくさんあります。
- 「風神雷神図屏風」重要文化財 俵谷宗達の模写
- 「太公望図」重要文化財
By Ogata Kōrin (1658-1716) – http://www.emuseum.jp/detail/100982, パブリック・ドメイン, Link
- 「孔雀葵花(くじゃくきか)図」重要文化財
- 「八橋蒔絵螺鈿硯箱(やつはしまきえらでんすずりばこ)」国宝
By HANSHIITI PHOTO Co.,Ltd. – Masterpieces of Japan Arts Vol 5th, TOHTO BUNKA KOEKI Co.,Ltd. Tokyo, 1953-09-30, パブリック・ドメイン, Link
- 「白地秋草模様描絵小袖」重要文化財
By Ogata Kōrin (1658-1716) – MOA Museum of Art, パブリック・ドメイン, Link
尾形光琳の独特なデザインは、後の世で「光琳模様」と呼ばれました。
光琳の目指した俵谷宗達と同じように多くの芸術を現在にまで残してくれました。
尾形光琳の面白い逸話から見る人物像
弟からのアドバイスで、絵師になった尾形光琳。
団扇に絵を描こうと考えたときに浮かんだのは、俵谷宗達の絵でした。
光琳の実家、雁金屋には俵谷宗達の作品があり、光琳は幼い時から見ていました。
団扇のデザインは、光琳の中にあった俵谷宗達の絵が元になっています。
光琳は、カキツバタが有名な太田神社によくを訪れました。
絵のデザインを考えるためのヒントを探した着物の図案帖。
二条家から依頼された屏風のデザインにも役立ちました。
光琳のその生い立ちと絵の才能が車の両輪のように働き、多くの作品を生み出していったのです。
そんな光琳の逸話から生まれた日本料理の器があります。
友人たちと京都の嵐山に花見に言った時、裕福な友人たちは豪華な弁当を広げて食べていました。ところが光琳は、竹の皮で包んだ握り飯を食べていました。
でも、よく見るとその竹の皮には素晴らしい蒔絵が描かれているではありませんか。
驚いた友人たちが見ていると、光琳は握り飯を食べ終えると竹の皮を皮に浮べて流してしまいました。
その光景に友人たちはまたまたびっくりです。
今では、竹の皮に金箔を施したものを「光琳笹」と呼び、料亭などで美しい料理を盛り付けてお客様に提供されています。
見えないところに趣向を凝らす粋なところがある光琳、
友人たちが驚く姿を密かに楽しんでいたのでしょうか。
まとめ:尾形光琳の生い立ちと作品、エピソードから見る人となり
今回は、尾形光琳の生い立ちと作品の数々、興味深いエピソードを紹介しました。
簡単にまとめておきましょう。
- 尾形光琳は江戸元禄文化を代表する芸術家
- 尾形光琳の作品には俵谷宗達への敬愛がある
- 尾形光琳は遊び好き過ぎたことが絵師になるきっかけ
- 尾形光琳のデザインは今でも生き続けている
尾形光琳を代表とする美しい芸術は、後に”琳派”と呼ばれ、その画風が受け継がれています。
尾形光琳をもっと知りたいあなたにおすすめするのは、こちらです。
- もっと知りたい尾形光琳ー生涯と作品 仲町啓子
- 光琳デザイン MOA美術館
美術や琳派について初心者でも詠みやすい2冊です。
写真で見る作品がどれも素晴らしく綺麗で、一読の価値ありです。
以上「尾形光琳の生い立ちと作品、逸話からわかる人物像」でした。
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