西郷従道の性格はどんな人物像?生い立ちやエピソード・逸話が面白い

2018年NHK大河ドラマ「西郷どん」で、西郷家の三男として注目を集めた西郷従道。

ドラマ内では、上野の西郷隆盛像の除幕式にも参加していましたね。

その生涯は、兄・隆盛と新政府と薩摩として対立する立場になったりと波乱に満ちた人生でした。

今回は、西郷従道について

  • 西郷従道の生い立ちや家族を紹介
  • 西郷従道の性格がわかる面白エピソードとは
  • 西郷従道の人物像が分かる面白い逸話とは

を紹介します。

これを読めば、西郷従道の生い立ちや家族構成・エピソード・逸話などがわかります。

西郷従道の残した功績や、家族に対する想いなどを知ることができます。是非、ご覧ください。

スポンサーリンク

西郷従道の性格はどんな人物像?生い立ちやエピソード・逸話が面白い

西郷従道の生い立ちや家族を紹介

西郷従道は、江戸末期から明治中期に活躍した薩摩藩士、陸軍及び海軍軍人、政治家です。

階級は元帥海軍大将、さらに従一位大勲位功二級侯爵を授与されています。

茶坊主として仕える

西郷従道は、西郷隆盛の弟・西郷家の三男として薩摩国鹿児島城下加治屋町山之口馬場(下加治屋方限)に生まれました。

日常生活上は、通称・隆盛は吉之助、従道は信吾と呼び合っていました。

剣術は薬丸自顕流を、兵学は伊地知正治に合伝流を学び、後に有村俊斎の推薦のもと薩摩藩主・島津斉彬に茶坊主として仕えました。

茶坊主とは、将軍や大名の周囲で、茶の湯の手配や給仕、接客をはじめ城中のあらゆる雑用に従事する役職のことです。

寺田屋事件により藩からの弾圧を受ける

文久元年(1861年)には、薩摩藩に存在した藩内組織で斉彬を君主とする精忠組に加入し、尊王攘夷運動活動に加わります。

尊王攘夷とは、君主を尊び、外国を退けようとする運動のことです。

文久2年(1862年)、勤王討幕を胸に京に集まった精忠組・有馬新七らと行動を共にします。勤王とは、王や天皇に忠義を尽くすことです。

しかし、寺田屋事件により藩からの弾圧を受けてしまいます。

ですが年少だった従道は帰藩謹慎の処分で事なきを得ました。

決死隊に志願する

しかし、文久3年(1863年)薩英戦争が勃発し謹慎が解けると、スイカ売りの姿を装った決死隊に志願します。

さらに戊辰戦争では、鳥羽・伏見の戦いでは銃創が貫通するという重症を負いながらも、それでも従道は各地を転戦しました。

君主に対する忠義心の強さと、戦いにかける想いに凄まじいものがありますね!

西郷従道の性格がわかる面白エピソードとは

明治維新後は、明治2年(1869年)、山縣有朋と共に軍政を調査するためにアメリカに渡ります。

翌年7月末横浜に帰着し、同年8月に正六位に叙されます。

正六位は、明治時代以降は、警視正、消防監などに叙されようになった位です。

そして、明治4年(1871年)7月には、陸軍少佐となります。

明治6年(1873年)、兄の隆盛が征韓論をめぐり、新政府を後にします。

隆盛自身の主張するは征韓論とは、板垣らの即時の朝鮮出兵という主張とは異なり、開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に説得しに行くというものでしたが、どうやら誤解が生じての結果だったようです。

この時、隆盛に従い、多くの薩摩藩士たちが帰郷するという事態が起きましたが、しかし従道は政府に留まる決断をしました。

この決断も、従道にとっては大きな決断だったに違いありませんよね!

明治7年(1874年)に従道は陸軍中将となり、台湾出兵では軍勢を指揮し、自身の指名を果たします。

明治10年(1877年)、西南戦争が勃発した際、陸軍卿代理に就任し政府の留守を守り、従道は兄・隆盛に加担することは決してありませんでした。

その後は、多くの薩摩出身者がいなくなった政府内で薩摩閥の重鎮として君臨しました。

尊敬していたであろう兄と敵対しなければならないと分かっていながら、政府側に残った従道にはきっと何ものにも譲れない己の志があったのでしょう。

従道の己を誇示する力の強さを関じますね!

その後、明治17年(1884年)の華族令制定で、維新時の偉功から伯爵を授けられます。

甲申政変後の天津条約(1855年)を結ぶ際には、後の初代内閣総理大臣・伊藤博文らとともに清国へと渡りました。

その後の内閣制度発足時には、初代海軍大臣に任命されました。

細かい事務は部下に任せ口を出さず、失敗の責任は自分がとるという考えも持っていたようです。

従道の器の大きさと、度量の大きさを感じますね!

明治31年(1898年)には、海軍軍人として初めて元帥の称号を受けます

さらに内閣総理大臣候補に再三推されましたが、兄・隆盛が逆賊の汚名を受けたことを理由に断り続けました。

もし、西郷従道が総理大臣になっていたら、また違った日本の形がつくられていったのでしょうか。

そんなもう一つの日本も、見てみたかったような気がしますね。

明治35年(1902年)、胃がんのため目黒の自邸で59歳で亡くなりました。

西郷従道の人物像が分かる面白い逸話とは

さて、「従道」という名前ですが、こんな記録が残っています。

明治維新後、名前を登録する際、「隆道」をリュウドウと口頭で登録しようとしました。

しかし訛りが強かった為か役人がジュウドウと聞き間違え、漢字も「従道」と登録されてしまいました。

しかし本人はいたって気にしていなかったようです。

鹿児島弁は訛りが強いのでなんとなく頷けるエピードですね!

しかし兄・隆盛も名前では苦労しているようで、隆盛の本名は実は「隆永」といいます。

しかし、隆盛の同志であった吉井友実が何故か勘違いし、隆盛を父親の名「隆盛」で登録してしまったのだとか。

また兄の西郷を「大西郷」と呼ぶのに対し、従道を「小西郷」と呼びますが、歴任した職数や与えられた称号の数をみると、「小」とつけるのは何だか無礼な気もしますね。

また、相手の話をよく聞き「成程、成程」と相槌を打つ姿から、「成程大臣」という渾名がつけられていました。

さらに悪戯好きの一面もあり、御前会議にて土佐の後藤象二郎に「西郷さん。また貴下に悪戯ですか」と言われるようなこともあったとか。

また、目黒の自邸はかなりの豪邸であり、日本の動乱が落ち着いたその時は、兄・隆盛をこちらに呼び寄せようと考えていたようです

従道も、やはり兄・隆盛のことを最後まで想っていたのは間違いないようですね。

まとめ:西郷従道はどんな人?分かりやすいおすすめ作品

西郷従道の生い立ちや家族、面白エピソードや逸話について紹介しました。

最後に西郷従道についてまとめておきますね!

  • 西郷隆盛の弟、西郷家の三男として誕生。
  • 島津斉彬の茶坊主として出仕、後に精忠組に参加する。
  • 寺田屋事件の後、帰藩謹慎処分となる。
  • 明治維新後、西郷隆盛が政府を去り、後を追う者が続出したが従道は政府に残り、西南戦争時も、兄・隆盛たちに加担することはなかった。
  • 海軍軍人として初めて元帥の称号を授与される。
  • 細かい事務作業には口出しせず、責任は自分がとるという大きな度量を兼ね備えていた。

西郷従道の生涯は、兄・隆盛に負けずと劣らず、自分の志を貫き通した人生だったんですね!

西郷従道の生き様をもっと知りたい!という人にはこの2作品がオススメです。

  • NHK大河ドラマ「西郷どん」(2018年・NHK/演・錦戸亮)
  • NHK大河ドラマ「翔ぶが如く」(1990年・NHK/演・緒方直人)

ぜひ、西郷従道の生涯や彼が想い描いた日本の姿に想いをはせてみてください。

以上、「西郷従道の生い立ちや家族、面白エピソード・逸話」でした。

コメント