阿部正弘はどんな人物? 彼の人物像と生きた時代について

阿部正弘という人物、みなさんご存じでしょうか。

教科書でも名前程度は出てきますが、「確か幕末の……」くらいの知識しか持っていない、という方も多いかと思います。

歴史好きの方、あるいは大河ドラマなどの歴史番組をご覧になる方なら、幕末の政治家、という印象を持つかもしれません。

「西郷どん」では、藤木直人さんが演じていました。

 彼は日本史において、重要な場面に登場します。それは黒船来航、つまりペリーが日本に来た時です。阿部正弘は、その時に幕府の舵取りを担っていた1人として、歴史の表舞台に登場します。またその後、「安政の改革」と呼ばれる、幕府の政治改革を行います。

今回は、阿部正弘という人物と彼が生きた時代について、ご紹介いたします。

 

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プロフィール

 阿部正弘は、文政2年(1819)10月16日に、備後国福山藩(現在の広島県東部周辺)の5代目、阿部正精(あべまさきよ)の5男として、江戸で誕生します。

天保9年(1838)9月に、江戸幕府の役職の1つである「奏者番」となり、以降順調に出世をしていきます。そして、天保14年(1843)閏9月11日に、「老中」となりました。満25歳の時で、老中就任の最年少記録です。

なお、少し前後しますが、天保7年(1836)には、兄である正寧(まさやす)より、家督を継いでいます。

正寧は病弱であることを理由にしていますが、それに加えて政治などにも特に興味がなかったため、とも伝えられています。正弘は翌年、生涯で1度のみとなる、福山へのお国入り(帰郷)をしています。

 さて、正弘の就いた老中とは、江戸幕府における最高職になります。

幕府が全国を統治する上で行う、様々な政策や業務の統括をする役職です。さらに阿部は、老中の中でも筆頭である、老中首座に任ぜられます。つまり、幕府の政治を司ることとなりました。弘化2年(1845)2月のことです。つまりこの時点で、執政として江戸幕府のトップにとなりました。なお、首座になるのも最年少記録です。

余談ではありますが、父である正精も老中になっていますので、親子で江戸幕府の政治を司ることとなりました。さらに最年少記録ということもあり、今風に言えば、エリート中のエリート、ということになるでしょうか。

 老中首座となってから、様々な問題に立ち向かうことになりますが、最も有名なものは、ペリーへの応対でしょう。さらには、その後の政治改革、いわゆる「安政の改革」は正弘にとっても幕府にとっても、重要なものとなりました。

 その後は、老中首座を譲りながらも、老中を続けていた最中、安政4年6月17日に江戸にて急死しました。40歳に満たない若い年齢での死の原因については諸説ありますが、恐らく病気ではないかと言われています。ペリーの来航で、ストレスもあったことでしょう。

現在は、谷中霊園内寛永寺墓地(東京都台東区)で、歴代藩主や奥方と共に眠っています。

経歴―黒船来航から安政の改革―

黒船来航を知っていた?

さて、嘉永6年(1853)6月、アメリカ東インド艦隊司令官として、ペリーが浦賀に来航します。いわゆる、「黒船来航」です。この未曾有の事態に、幕府の責任者として立ち向かうこととなります。

 ペリー来航やその後に関しては、勘違いされていることも多いです。特に、「幕府が無能で、ペリーの脅しに屈して開国した」という言説は今も見られますが、これは間違っているのではないかと思います。

なぜ、このような話をするかと言うと、阿部正弘を知る上で、かなり関係することだからです。

 まず、阿部正弘を始め幕府の役人は、ペリーが日本に来ることを知っていました。当時、幕府がヨーロッパの国で唯一交流を持っていた国であるオランダから、情報を得たためです。長崎の出島にあるオランダ商館からは、定期的に情報を得ていたのですが、その1つにペリー来航に関するものがありました。

 正弘は、黒船来航の情報を江戸幕府の役人達や譜代大名へ伝えます。明確な日付は判明していませんが、嘉永5年(1852)の4~5月頃と考えられます。つまり黒船来航を、1年以上前に知っていたのです。しかも、ペリーの目的や来航する時期まで、ほとんど正確な情報でした。

この後、正弘は薩摩藩を通して琉球からペリーに関する情報を得ようとしています。長崎のオランダ人から得られる情報のみならず、出来うる限り様々なところから情報を得ようとしていたのです。

 余談ですがこの情報は、アメリカのとある新聞記事からであったことが分かっています。アメリカの新聞記事がオランダに渡り、そこから長崎まで伝わり、という経緯です。

知っていたのに、何もしなかった?

 結果的に言えば、正弘は黒船来航を知っていたにも関わらず、ほとんど何も対策をしませんでした。
また、黒船が来たときに、最初に対応した役人から、「知っていたのに、何故教えてくれなかったのか!!」と言われているように、ペリー来航の情報は上層部のみに留めてもいました。

 しかし、楽観的に「どうせ来ないから」と、くくっていたわけではありません。

弘化元年(1844)5月、江戸城が火災、本丸や大奥に被害が出ました。正弘は、この造営を命じられることとなっていたのです。

この時幕府は、「天保の改革」の失敗などにより、財政がかなり逼迫していました。しかし、江戸城は幕府の象徴でもあるので、再建しないわけにはいきません。さらに、嘉永5年(1852)5月には、西の丸も焼失してしまいます。この西の丸は、次期将軍(将軍の子)や引退後の将軍が住居としていたところです。ますます、再建しない訳にはいかなくなり、結果的に費用もかさみます。

 こういった事情故に、ペリーへの具体的な対応策をとることができませんでした。

より正確に言えば、弘化2年(1845)には海防掛を設置し自らが就任、翌弘化3年にはビットル来航などもあったので外国勢力が日本に来ることに対して、意識はしていたでしょう。だからこそ、台場に砲台を設置するなどしています。

しかし、何よりも優先すべきは江戸城の再建でした。特に西の丸の再建に関しては、その対応への功績として石高が加増となるほど、重要な問題だったのです。

当時の感覚としては、来るかどうか分からないペリーよりも、目の前の江戸城再建の方がずっと重要な問題であったのです。そこに人員も費用もとられていますので、意識はしていても具体的な対応にまで手が回らなかったのでしょう。

前代未聞の対応―国書の受理と大名たちへの諮問―

 こういった幕府の情勢の中、やってきたのがペリーです。ペリーが何故日本に来たかといった話は長くなるので省略しますが、端的には、

①石炭等の補給
②漂流民の救助      

  という2点が目的でした。

さらにペリーは、武力による解決=戦争を禁じられていました(アメリカにおける戦争の権利は議会が持つもので、その議会で戦争は否定されていたからです)。

 目的は事前に情報を得ていますし、交渉の過程で明らかになっていきます。ですが、上記のペリーの事情を、当然ながら正弘は知る由もありません。ですので、正弘を始め、幕府からすればペリーが武力を背景に迫ってきていることは明らかでした。

 そこで正弘は、大きな決断を下します。国書の受理です。なんだそんなことか、と思われるかもしれませんが、当時の幕府が正式に交流を持っていた国は4つ、蝦夷、琉球、中国、オランダのみで、これ以外の国から国書(正式な書類)を受け取る事はありえませんでした。

さらに言えば、国書をうけとった場所は久里浜です。従来、このような際は必ず長崎の出島に行くように指示していましたが、ペリーは武力を背景に江戸に乗り込むことを示唆していましたので、正弘は特例としてこのような対応をとりました。

なお、ペリーは国書を渡した後、再度来日することを告げて、一端日本を離れます。

 この行動を弱腰と見るか、柔軟とみるかはそれぞれでしょう。しかし、正弘はアヘン戦争の情報も持っていました。大国である中国が負けたことの危機感に加え、目の前に現れた黒船の姿を見て、戦争だけは避けたいという思いでこのような対応をとったのです。

 さて、国書を受け取ったからには返答が必要です。

受け取った国書の翻訳にかかる時間や、12代将軍家慶の死去による服喪、さらには7月17日にロシア艦隊のプチャーチンが日本を訪れます。様々な事態が発生する中で、彼がとった行動が大名への諮問です。現代では珍しいものではありませんが、意見を公募するという行為自体、当時では異例中の異例でした。

幕府は圧倒的な支配者であり、施政者です。その幕府が意見を請うということ自体、幕府の権威の失墜を招きかねません。事実、この諮問が幕府の権威低下の大きな要因と指摘する方も、多くいます。

 寄せられた意見は大変な数でしたが、正弘は大きなこの時点で大きな改革を行いませんでした。オランダから船の購入を検討するなど、全くないわけはありませんが、積極的に対応していたとは言い難いでしょう。そうこうしている内に、ペリーは再度日本を訪れ、本格的な条約交渉を行うこととなりました。

 正弘自ら交渉に出向くことはしませんでしたが、実際に対応する人物は正弘が決め、そのための拝領物として、自ら羽織を渡しています。

幕府はペリーに降伏したのか―「条約締結」の意味と阿部正弘の評価―

 条約締結にいたるまでの会談内容に関しては割愛しますが、ご存じの様におよそ1か月に渡る会談の結果、嘉永7年(1854)3月3日に日米和親条約が締結されました。ペリーが再び来るまで、来てからの会談に至るまでの準備、会談中の様々な判断を、正弘が行っています。

もちろん、1人で全て決めているわけではありません。時には実際の会談者に委ね、時には周囲の人間に意見を聞き、と対応していましたが、条約締結に関する責任は、正弘にありました。

 幕府にとって、日米和親条約締結はそれほど重大なミスではなく、未知のアメリカ艦隊、また「外交」というものへの「成果」としては、上々であったといえるかもしれません。なぜなら、

①他のアジアの国々は敗戦により賠償ともとれる条約を結んだが、幕府はそうではなかったこと
②条約には、阿部正弘をはじめ老中や将軍の署名をしなかったこと
③条約の内容は通商などの新たな内容ではなかったこと
④戦争を回避できたこと
 
                    
 という大きく4点がその理由として挙げられます。

 ①については、この時代アジアの国々が欧米と結んだ条約は南京条約に代表されるように、圧倒的に不利かつ賠償の意味合いをもったものしかありませんでした。ですが日米和親条約は、交渉によって結んだ条約です。もちろん、今から見れば不平等なものであったことは明白ですが、世界史レベル・アジア史レベルでは画期的なものでした。

②・③は国内倫理の問題です。老中という幕府の代表が署名していない=身分の低い者で対応が完結したということ、また条約という形態は初めてのものですが、内容はそれまであった薪水給与令を明確に整理整頓しただけのものとも言えました。

つまり、アメリカの要求に屈せず、こちらの意見を通すことができたということです。ご存じの様にアメリカは通商、つまり貿易も求めてきてきましたが、正弘はそれをキッパリと跳ね除けています。当時の言い方をすれば、「国威」を傷つけることなく終わった、と言えます。

 そして④が、阿部正弘にとって最も重要な問題でした。大国であるアメリカと戦争に至る事なく、この問題を終結できたことは、最も大きな成果でした。意見を公募した際に、すぐにでも武力をもって攻撃すべき、という意見もありましたが、そういう意見に流されず対応したのです。

戦争にもならず、①~③のような成果を得ることもできた、というのは、勿論実際に交渉の矢面に立った役人の功績も大きいですが、幕府の舵取りを担っていた、阿部正弘の功績が大きいのです。

「安政の改革」とその後の阿部正弘

 以上の様に、黒船来航に始まる一連の事件に対応しました。上手く対応できたのか、できていなかったのか、それは皆さんの判断にお任せしますが、条約というものを新たに締結した以上、幕府も変わらなくてはならなくなったのは事実です。そこで阿部正弘が行ったのが、「安政の改革」と呼ばれる幕政改革です。

①今まで禁止されていた大船の建造を許可する
②人材育成や軍事研究のため、講武所・蕃書調所・長崎海軍伝習所などを新たに設置
③海防掛に新たな人材を登用(最も有名な人物は、勝海舟でしょう)

  などが主な内容です。今までの慣例を破壊して、新たな制度・秩序を構築しました。

 そんな阿部正弘も、万人から支持されていたわけではありません。攘夷派と開国派の対立から、改革の最中の安政2年(1855)10月に老中首座を辞任しました。しかし、実権をそのまま持っていたこと、また老中にはそのまま留まっていたことから、「安政の改革」は続行されていきました。

 しかし、老中在任中の安政4年(1857)6月17日に逝去、満37歳という若さでした。

阿部正弘の行った「安政の改革」は、この後に幕政を担った井伊直弼によって否定され、阿部が残した功績は、一見ほとんどなくなってしまいましたが、彼が残した人材はその後の幕府は勿論、明治政府も支える人物となっていくのです。

 以上が、阿部正弘の紹介です。

見る人によっては、幕府を崩壊させた人物であったり、あるいは開明的であるが故に排除された人物であったり、決断力のある有能な政治家であったり、様々な評価がなされると思います。

みなさんはどう感じるでしょうか。

また、彼は幕末を扱う様々な作品で登場します。それぞれでどんな描かれ方をしているか、比べてみるのも面白いかもしれません。

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