島原の乱で有名な天草四郎。
ご存知の方は多いかと思います。
そんな天草四郎についての史料はあまり残されておらず、謎の多い人物とされています。
そこで、今回は天草四郎の
- 生い立ち
- 経歴
- 性格
- エピソード
を調べてみました。
これを読めば天草四郎のを知ることができますよ。
今日から数日間お茶か水以外はなにも口にせん、いわゆる断食、さあ痩せるぞ。柳生十兵衛三厳と天草四郎時貞。佐藤浩市と窪塚洋介 pic.twitter.com/nMw5Dy9qnm
— YK (@YusukeNew) 2014年11月8日
天草四郎の生い立ちとは?
天草四郎は元和7年(1621年)関ヶ原の戦いの際、西軍についていたため斬首された小西行長の遺臣・益田好次と渡辺伝兵衛の娘から現在の熊本県上天草市である天草諸島の大矢野島で誕生したとされています。
しかし出身地については
- 宇土郡江部村、出身
- 長崎出身
などの説があります。
本名は益田四郎で、後にジェロニモという洗礼名を与えられます。
益田家の家族全員がキリシタンであったとされ家族にも洗礼名が与えられました。
小西氏が関ヶ原の戦いで滅亡すると、その後、益田家は浪人百姓となります。
浪人百姓となった益田家は一家で宇土郡江部村に移りました。
天草四郎の実家・益田家はキリシタン大名・小西行長の家臣であったことから、経済的に余裕のある家庭であったとされ、天草四郎は幼少期から学問を学び、優れた教養を持っていたとされています。
キリシタンであった天草四郎は
- 盲目の少女に触れた瞬間、少女の視力が回復した
- 海面を歩いた
- 雀の止まっていた枝を折っても、雀は逃げることはなかった
などの奇跡と呼べる逸話が残されました。
天草四郎の経歴や最後は?
寛永14年(1637年)かの有名な島原の乱が起きます。
島原の乱はキリスト教による一揆と認識されることが多いですが、島原の乱のきっかけは酷使や過重な年貢負担をされた百姓や島原の領民による反乱です。
島原には、キリシタン大名・有馬晴信の領地であったため、この地には多くのキリシタンがいました。
慶長19年(1614年)有馬氏が転封となったため、松倉重政が入封します。
松倉重政は、
- 江戸城改築の公儀普請役を受ける
- ルソン島遠征を計画し先遣隊を派遣
- 島原城を新築
するなど行いましたが、これらの政策を行うために島原の領民から年貢をたくさん取り上げました。
また、もともとキリシタンの多かった島原で、キリシタン弾圧をはじめ、無理矢理、仏教に改宗させるなど行います。
- 高い年貢を納められない
- 仏教への改宗を拒否
これらの者には拷問や処刑といった処罰が与えられました。
松倉重政の後を継いだ子供の松倉勝家に代わっても、このような過酷な年貢の取り立てや、キリスト教の弾圧などは行われ、過度な年貢の取り立て、過酷な拷問はさらに過激化し、島原の領民たちを苦しめます。
これに対し、立ち上がったのは島原の領民、旧有馬氏の家臣たちでした。
また小西行長、加藤忠広の改易による浪人たちも立ち上がり、組織が作られるようになります。
このような組織を一揆と呼びます。
一揆軍は、話し合いの結果、キリシタンの間で神格化されたカリスマ的キリシタンの天草四郎を一揆軍のリーダーとします。
この時、天草四郎はまだ16歳の少年でした。
寛永14年(1637年)10月25日、一揆軍によって代官・林兵左衛門を殺害は殺害され、これによって島原の乱が開始されます。
島原藩はこの一揆軍の反乱に対し、一揆軍討伐を決意し一揆軍と戦いました。
九州諸藩からも一揆討伐軍が派遣されたことを知ると、旧主有馬家の居城であった廃城・原城址に天草四郎ら一揆軍は立て籠りました。
立て籠った一揆軍に対し、幕府軍は攻撃を仕掛けますが
- 多くの幕府軍の兵が討死した
- 一揆軍の立て籠る原城址にある食糧が尽き始めていた。
などがあり、幕府軍は兵糧攻めを行う決意をします。
また、幕府軍はオランダ商船にも援軍を依頼していました。
この兵糧攻めによって一揆軍の中では餓死するものが出始め、幕府軍の総攻撃によって落城となりました。
この原城址の籠城は3か月にも及びました。
落城すると、一揆軍は幕府軍に皆殺しにされ、天草四郎は幕府軍の肥後細川藩士・陣佐左衛門によって討たれ、16歳で亡くなりました。
このことによって、一揆軍は鎮圧となり反乱は終結となります。
その後、乱に参加しなかったキリシタンや、生き残った農民たちは幕府軍によって殺害され、わずかに残ったキリシタンは、この地で隠れキリシタン(潜伏キリシタン)として生きていくこととなります。
2018年に長崎と天草地方にある潜伏キリシタン関連の遺産が世界文化遺産に登録され、一躍話題となりましたよね。
【エピソード】天草四郎の人柄や性格が分かる逸話
島原の乱で、一揆軍のリーダーとなった天草四郎は、江戸時代末期頃からイケメン、美少年であったと史料に残されるようになります。
またそんなイケメンとされる天草四郎は
- 色白の少年であった
- 瞳の色は青色であった
- 茶髪であった
このようなことから、天草四郎はハーフであったのでは?とされるようになりました。
しかし、天草四郎の父は日本人である益田甚兵衛、また母は渡辺伝兵衛の娘ということから、天草四郎がハーフであったという可能性は少ないです。
また、それまでの史料では天草四郎は、今でいう汗疹を指す「小瘡」、梅毒を指す「肥前瘡煩」の伝染病を患っていたため美少年とは言えない少年でした。
天草四郎についての史料は少なく、現在残されている肖像画は天正遣欧少年使節や支倉常長の肖像画を真似て描かれた肖像画であるため、天草四郎の肖像画は多少美化され描かれたものとされています。
また天草四郎は
- 盲目の少女に触れた瞬間、少女の視力が回復した
- 海面を歩いた
- 雀の止まっていた枝を折っても、雀は逃げることはなかった
などの逸話から、キリシタンたちから神格化され、カリスマ的存在となりました。
しかし、
- 軍事記『天草軍記』には、天草四郎は一般的な武士の子として描かれる
- イエスキリストが起こした奇跡と類似している
このようなことから天草四郎の起こした奇跡は名声を高めるために作られたのもとされます。
謎の多い人物であったので、このような逸話が作られたのでしょう。
まとめ 天草四郎はどんな人?ドラマや映画はある?
天草四郎の生い立ち、経歴、性格、エピソードのご紹介でした。
天草四郎について簡単にまとめると
- 一家全員がキリシタンであった。
- 幼いころから教養を身に着けていた。
- キリシタンの間で、カリスマ的存在とされていた。
- 島原の乱では一揆軍のリーダーとなるも16歳で戦死する。
- イケメンとされるも、可能性は少ない。
天草四郎は、島原の乱において一揆軍のリーダーとなった人物でした。
しかし、謎の多い人物であったため、イケメン説やイエスキリストに似た多くの奇跡を起こした少年とされるようになったようです。
そんな、天草四郎が登場する小説は
- 山田風太郎さんの「魔界転生」
- 西村京太郎さんの「天草四郎の犯罪」
- 嶽本野ばらさんの「デウスの棄て児」
があげられます。
山田風太郎さんの「魔界転生」の小説を実写化し2003年にリメイク上映された映画「魔界転生」では
- 天草四郎役を窪塚洋介さん
- 宮本武蔵役を長塚京三さん
- 柳生十兵衛役を佐藤浩市さん
が演じられました。
窪塚洋介さんはこの映画において、キリシタンの天草四郎を演じられましたが、2016年に上映された、遠藤周作さんの「沈黙」を実写化した映画「沈黙 -サイレンス-」においても、キリシタンの役を演じられました。
「魔界転生」「沈黙-サイレンス-」で窪塚洋介さんが演じたキリシタンを見比べてみるのも面白そうですね。
これを機に天草四郎に興味を持った方は映画「魔界転生」を見てみてください。
以上「天草四郎の性格と経歴、生い立ちやエピソード」のご紹介でした。
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