あなたは浅井長政という人物をご存知ですか?
あの織田信長の妹であるお市の方を継室に迎え、織田信長の上洛を助けた人物です。
また、浅井長政は後世に大きな影響を与える浅井三姉妹(茶々、初、江)の父でもあります。
しかし、最後は義兄の織田信長を裏切り浅井氏を滅亡させた人物として語り継がれています。
今回は浅井長政について
- 浅井長政の生い立ちとは?
- 浅井長政の経歴や最後は?
- 【エピソード】浅井長政の人柄や性格が分かる逸話
を紹介します。
こちらを読めば浅井長政の生涯や逸話がわかりますよ。
ぜひ読んでみてください。
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— futari (@futarichan) 2015年8月25日
浅井長政の生い立ちとは?
浅井長政は天文14年(1545年)に
- 父は浅井久政(近江浅井氏2代目当主)
- 母は小野殿(近江国豪族井口氏の娘)
の嫡男として生まれます。
浅井長政が生まれた浅井氏は元々は北近江守護の京極氏の家臣でした。
その浅井氏は浅井亮政(すけまさ、長政の祖父)の代に京極氏の内紛に介入し傀儡とし、北近江での実権を握ることに成功します。
しかし、南近江守護の六角氏と対立したことで、浅井久政(長政の父)の時に六角氏に臣従することになります(ただ、北近江での実権は握っていました)。
そんな中、浅井長政は六角氏の居城・観音寺城で生まれますが、母と共に六角氏の人質でもありました。
さらに、15歳で元服した際には六角氏当主の六角義賢から「賢」の字を賜り名を賢政に改名するほか、六角氏家臣の平井定武の娘と婚姻を結ばされます。
浅井長政の経歴や最後は?
~浅井氏当主への就任しと六角氏の衰退~
六角氏に従属することで浅井氏を守っていた浅井久政でしたが、強硬派の家臣らが浅井久政へ不満をもつようになっていきます。
そして、永禄2年(1559年)に強硬派の家臣が15歳の浅井長政(この時は賢政)を擁立して、浅井久政を強制的に隠居させました。
さらに、浅井長政は永禄3年(1560年)8月に軍を興し野良田の戦いで六角義賢を撃破します。
六角軍に勝利した浅井長政は名を賢政から新九郎へ戻し「長政」に改名します。
永禄6年(1563年)には六角氏の家老・後藤賢豊が暗殺されると(観音寺騒動)、一部の六角家臣が浅井氏へ寝返るなどしました。
ただ、六角氏は完全に滅びたのではなく、以降も浅井氏と六角氏は膠着状態が続くことになります。
~織田信長との同盟とお市との結婚~
浅井長政が当主となり六角氏からの独立を図ろうとしていた頃(1560年頃)、尾張の戦国大名・織田信長から同盟の提案が届きます。
当時、織田信長は美濃国(岐阜県南部)の斎藤氏と争っていたため、この状況を打破するために浅井氏に同盟を提案しました。
しかし、当初は浅井家臣がこの同盟に反対していました。
理由は、越前国(福井県東部)の戦国大名・朝倉義景の存在でした。
朝倉氏とは浅井亮政(長政の祖父)の時代からの盟友であり、その絆は堅いものでした。
ところが、この朝倉義景と織田信長は仲が悪く対立していました。
結局、浅井氏と織田氏の同盟は政略結婚という形で終わることになります。
浅井長政は永禄10年(1567年)に織田信長の妹であるお市の方を継室に迎えました。
この同盟が結ばれる際に、浅井長政は織田信長に対して朝倉氏には手を出さないようにと約束させています。
浅井長政とお市の方の間には浅井三姉妹(茶々・初・江)が生まれます。
一方、浅井氏と同盟を結び京への道をつくった織田信長は足利義昭を奉じて上洛の準備を始めました。
~義兄・織田信長との同盟を破棄する~
織田信長との同盟は浅井長政にとって大きな味方となりましたが、織田信長と朝倉義景の対立は収まりませんでした。
そして、元亀元年(1570年)4月に織田信長は朝倉義景が上洛しないことを口実に朝倉討伐の軍を興します。
織田軍は朝倉方の城々を次々に落とし、織田信長は敦賀城(福井県敦賀市金ケ崎町、別名:金ヶ崎城)に入りました。
一方、朝倉氏へ手を出さないという約束を破られた浅井長政は朝倉義景に味方することを決め、背後から金ヶ崎城へ進軍し攻撃します。
しかし、浅井軍は織田信長を討つことができず逃がしてしまいます。
これによって、浅井長政と織田信長の同盟は事実上の破綻ということになります。
元亀元年(1570年)6月に浅井長政は朝倉義景と連合軍を結成して、姉川(滋賀県長浜市)にて織田・徳川連合軍と戦いますが大敗してしまいます(姉川の戦い)。
姉川の戦いでの敗戦によって浅井氏は衰退していくことになります。
~信長包囲網と浅井長政の死~
姉川の戦いによって衰退した浅井氏でしたが、織田信長に対抗していた勢力は多くいました。
本願寺・延暦寺といった仏教勢力や将軍足利義昭、そして甲斐から上洛を目指していた武田信玄が信長包囲網を結成します。
中でも、武田信玄の信長包囲網への参加は浅井長政をはじめ、その他の勢力に大きな力となります。
そして、武田信玄は元亀3年(1572年)に織田方であった徳川家康を三方ヶ原の戦いで破り、西へ進軍します。
ところが、三方ヶ原の戦い直後に武田信玄が急死し、武田軍は甲斐へ退却してしまいます。
武田軍の退却により信長包囲網は破綻し、包囲網が崩れたのを見た織田信長は天正元年(1573年)7月に浅井氏を攻めます。
この時、浅井長政は朝倉義景に援軍を要請し織田軍に対抗しました。
しかし、織田軍の勢いを止めることはできず、同年8月に朝倉氏が滅亡(一乗谷城の戦い)してしまいます。
そして、織田信長は全軍を浅井氏の居城・小谷城へ向け同月27日には父の浅井久政が自害し、翌日には浅井長政が自害しました。
この時、浅井長政は29歳でした。
【エピソード】浅井長政の人柄や性格が分かる逸話
浅井長政は織田信長の義弟でありながら、信長を裏切り浅井氏を滅亡させた武将として後世に語り継がれています。
しかし、これは織田信長から見た浅井長政の姿であるため偏った印象が植え付けられます。
では、実際の浅井長政はどうだったのでしょうか。
領民に信頼されていた浅井長政
浅井長政が治めていた北近江の領民は大名の支配を拒んでおり、惣村(村人同士がリーダー決めて治めた村)と呼ばれる村がいくつもありました。
そのため、北近江の大名は領内をまとめるのは大変でした。
しかし、浅井長政は村人の意見に耳を傾け軍事力では押さえつけませんでした。
すると領民らは次第に浅井長政を信頼するようになっていきます。
その結果、浅井長政は結果的には負けたものの織田信長とたたけるほどの兵を持つことが出来ました。
優しい心の持ち主であった
また、織田信長によって小谷城が落ちた際には、妻のお市と娘3人を織田信長のもとへ送っています。
戦国時代の結婚、とくに政略結婚は両家を固い絆で結びますが、人質という側面もあり両家の関係が悪くなると殺す場合がありました。
しかし、浅井長政はお市を殺すどころか、娘とともに織田信長のもとへ送ります。
これらを見ても浅井長政は心優しい性格の持ち主だったのでしょう。
まとめ 浅井長政はどんな人?大河ドラマや映画はある?
ここまで浅井長政について紹介してきました。
まとめてみると
- 浅井長政は北近江の戦国大名だった
- 浅井長政は織田信長の義弟だった
- 浅井長政の継室は織田信長の妹・お市の方だった
- 浅井長政は織田信長との同盟を破棄した
- 浅井長政は心優しい人物だった
浅井長政が登場する大河ドラマには
- 『信長 KING OF ZIPANGU』(1992年) 辰巳琢郎
- 『利家とまつ ~加賀百万石物語~ 』(2002年) 葛山信吾
- 『江 ~姫たちの戦国~』(2011年) 時任三郎
があります。
>>「信長 KING OF ZIPANGU」(全話配信)を見る
是非観てみてください。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
以上、「浅井長政の性格と経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い」でした。
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