あなたは朝倉宗滴(そうてき)という人物をご存知ですか?
朝倉宗滴は越前(福井県東部)の戦国大名・朝倉氏の家臣です。
ただ、マイナーすぎて聞いた事のある人は少ないと思います。
また、朝倉氏は織田信長によって滅ぼされた家でもあることから、一般的に朝倉氏は滅んだ家として認識されています。
しかし、朝倉氏は応仁の乱以降に越前守護代から越前守護になるという下剋上を果たした家でもあり、その朝倉氏を家臣という立場から支えたのが朝倉宗滴です。
そして、朝倉宗滴は4人の主君に仕え、戦国大名朝倉氏を支えていきました。
今回は朝倉宗滴について
- 朝倉宗滴の生い立ちとは?
- 朝倉宗滴の経歴や最後は?
- 【エピソード】朝倉宗滴の人柄や性格が分かる逸話
を紹介します。
こちらを読めば朝倉宗滴の生涯や逸話がわかりますよ。
ぜひ読んでみてください。
朝倉宗滴の生い立ちとは?
朝倉宗滴は文明9年(1477年)に
- 父は朝倉孝景(7代将軍、法名:英林)
- 母は桂室永昌大姉(逸見氏の養女)
の8男として生まれます。
幼名は小太郎です。
「宗滴」という名は法名で、元服後の名は「教景」です。
※教景という名の兄もいます。
今回は宗滴の名で書いていきます。
一時期は嫡男として扱われていたともされている
朝倉宗滴は8男ではありましたが幼少の頃から大事にされていたと言われています。
その証拠に、歴代の朝倉氏当主らが幼少の頃に名乗っていた「小太郎」を8男であった朝倉宗滴が名乗っていたからです。
また、祖父や父と同じく「教景」を名乗ったからです。
そのため、一時期は嫡男として扱われていたとも言われています。
しかし、文明13年(1481年)に父・朝倉孝景が亡くなると、宗滴は4歳であったことから長兄の朝倉氏景(孝景の嫡男)が後を継ぎます。
朝倉宗滴の生涯や最後は?
~朝倉宗滴が登場するまでの朝倉氏~
長兄・朝倉氏景の家督相続によって、8男であった朝倉宗滴の家督相続の可能性はほぼ無くなりました。
朝倉宗滴が表舞台に立つのは、文亀3年(1503年)と20年以上先のことのになります。
ここでは、朝倉宗滴が出てくるまでの朝倉氏を少しだけ紹介します。
朝倉貞景(宗滴の甥)が当主となる
家督を継いだ朝倉氏景でしたが、すぐに大きな問題が起こります。
それは、元越前守護の斯波氏が幕府に対して越前国を返せという訴訟を起こしたことです。
これに対して朝倉氏景は越前国の仏教勢力と手を組んだり、斯波氏の当主に足利一門を擁立するなど、越前国を治める大義名分を得ます。
しかし、朝倉氏景は当主となってから5年後の文明18年(1486年)に38歳で亡くなり、家督は嫡男の朝倉貞景(宗滴の甥)が継ぐこととなりました。
朝倉貞景の時代には、9代将軍足利義尚(よしひさ)による六角討伐(1487年、長享の乱)や管領・細川政元に協力して10代将軍足利義材(よしき)を捕らえるなどします(1493年、明応の政変)。
足利義材(後の名は義稙) Wikipediaより 細川政元 Wikipediaより
上記のように、朝倉貞景の代には越前守護として朝廷や幕府との関わりが多くなりますが、越前守護に任ぜられました。
~朝倉宗滴の登場~
朝倉貞景の代になり越前守護としてスタートした朝倉氏でしたが、文亀3年(1503年)に朝倉氏内で不穏な空気が流れます。
それは敦賀城城主で朝倉一族の朝倉景豊が朝倉本家のに対して謀反を計画していたためでした。
そして、この朝倉景豊の妹を正室にもっていたのが当時26歳の朝倉宗滴でした。
朝倉宗滴は当初は妻の縁をあって朝倉景豊の謀反に加担しようとしていたと言われています。
しかし、朝倉宗滴は盤石な朝倉本家を崩すことは難しいと考え、朝倉景豊が謀反を起こす直前に朝倉貞景に密告します。
朝倉宗滴の密告によって朝倉景豊は自害に追い込まれました。
この功績によって、朝倉宗滴は敦賀城城主として敦賀郡司に任命され、これ以降、朝倉宗滴は朝倉家の重臣として政務や軍務を務めていくことになります。
~一向一揆との戦い~
朝倉家の重臣となった朝倉宗滴でしたが、新たな問題が起こります。
それが一向宗との戦いです。
一向宗とは浄土真宗本願寺派の信徒のことを指し、一向宗が権力者に対し抵抗したことを一向一揆といいます。
戦国時代は大名同士の争いがほとんどですが、この一向一揆に苦しめられた戦国大名は数多くいました。
織田信長や徳川家康も一向宗との戦いで苦戦を強いられています(長島一向一揆や三河一向一揆など)。
そして、朝倉氏の領国である越前国も一向一揆の影響を受けることになります。
もともと越前国を含め、越中国(富山県)や加賀国(石川県南部)といった北陸地方には浄土真宗を信仰している人が多くいました。
そのため、門徒も多く北陸地方の一揆の規模はものすごく大きかったと言われています。
とくに、加賀一向一揆は一揆の中でも最大の勢力を有したと言われ、長享2年(1488年)に一揆が起こってから織田信長により鎮圧された天正8年(1580年)までの約100年も一揆が続いていました。
この加賀一向一揆によって長享2年(1488年)には加賀守護であった富樫政親が自害してしまいます。
そして、この一揆は加賀国の隣国で朝倉領でもあった越前国へ勢力をのばそうとしていました。
ただ、この裏には管領・細川政元と本願寺との親密関係があったと言われ、本願寺が反細川派である北陸の諸大名(朝倉氏以外に長尾氏や畠山氏)を攻撃するようになったといわれています。
そして、永正3年(1506年)に朝倉宗滴を総大将とする朝倉軍と一揆勢が越前の九頭竜川で激突します(九頭竜川の戦い)。
この戦いでは朝倉軍1万に対して一揆勢が30万(盛っている可能性大)とはるかなな兵力差がありましたが、朝倉宗滴は夜襲し一揆勢を撃退します。
朝倉宗滴の活躍によって一揆勢は加賀へ撤退しました。
また、内政・軍事において朝倉氏の戦国大名化と越前領国化を成し遂げました。
~浅井家と信頼関係を築く~
朝倉宗滴の活躍で朝倉氏は戦国大名化しましたが、永正9年(1512年)に主君・朝倉貞景が40歳で急死してしまったため家督は嫡男の朝倉孝景(法名:宗淳)が継ぎ10代目当主となります。
朝倉孝景は朝倉宗滴にとって3人目の主君になりますが、孝景の代には隣国へ積極的に介入していくことになります。
中でも、近江国(滋賀県)の浅井家との関係は後の朝倉氏に大きく影響することになります。
浅井家と言えば織田信長の妹・お市の方を正室に迎えた浅井長政が有名です。
そして、朝倉氏と浅井氏の信頼関係が深くなるのは浅井長政の祖父・浅井亮政(すけまさ)の時です。
浅井亮政は北近江の守護京極氏の家臣でしたが、京極氏の内紛に介入して傀儡とし北近江の支配権を手に入れていました。
そんな中、大永5年(1525年)に浅井亮政が美濃国(岐阜県南部)での内乱(美濃守護土岐氏の内乱)に介入すると、朝倉氏は南近江守護の六角氏と一緒に浅井氏を牽制するために北近江へ出陣します。
この時、朝倉軍を率いたのが朝倉宗滴です。
しかし、朝倉宗滴は浅井亮政を攻めず、浅井氏と六角氏の調停を行います。
これは朝倉氏の戦略の1つで、当時朝倉氏は越前1国を治めていましたが、加賀国の一向一揆やその他の大名もいたことから味方をつくることが必要でした。
そこで朝倉氏は浅井氏と良い関係を築くために調停を行ったと考えられます。
また、浅井氏側からしても旧主家であった京極氏や朝廷や幕府と関係が良かった六角氏が相手では勝ち目がありませんでした。
そこで朝倉氏と浅井氏は互いの利害関係が一致したため同盟を結ぶことになりました。
~朝倉宗滴の死~
朝倉宗滴の活躍によって浅井氏と同盟を結ぶことに成功します。
朝倉氏は南に味方を得たことで、今度は加賀国で起こっていた内紛(享禄の錯乱)に乗じて加賀国に侵攻します。
しかし、能登国(石川県北部)から侵攻した畠山軍が一揆勢によって壊滅したため朝倉郡は撤退します。
天文17年(1548年)に主君・朝倉孝景が亡くなると嫡男の朝倉義景が家督を継ぎます。
朝倉宗滴にとって4人目の主君はまだ16歳という若さであったため、71歳の宗滴は隠居せず朝倉義景を補佐します。
天文24年(1555年)には越後の長尾景虎(後の上杉謙信)とともに加賀一向一揆を討つため加賀に出陣します。
朝倉宗滴はこの時78歳という老将でしたが、一揆方の城をたった1日で3つも落とすという活躍を見せました。
しかし、朝倉宗滴は同年8月に陣中で倒れ一乗谷城に帰還します。
そして同年9月に79歳で亡くなりました。
~宗滴死後の朝倉氏~
朝倉宗滴の死によって、以降は当主・朝倉義景が政務を執るようになります。
朝倉義景は当初は加賀国や若狭国(福井県西部)への進軍、さらに永禄の変で暗殺された13代将軍足利義輝の弟である足利義昭(後の将軍)から上洛命令を受けるなどしました。
しかし、朝倉義景は次第に政務を怠るようになっていき、朝倉氏は衰退していくことなります。
元亀元年(1570年)には足利義昭を奉じて上洛を果たしていた織田信長に姉川の戦いで敗れます。
そして、天正元年(1573年)に織田信長によって一乗谷城は落城、朝倉義景は自害し戦国大名朝倉氏は滅亡します。
朝倉氏が滅亡したのは朝倉宗滴の死から18年後のことでした。
【エピソード】朝倉宗滴の人柄や性格が分かる逸話
戦国大名朝倉氏の重臣として氏景・貞景・孝景・義景の4人の主君に仕えた朝倉宗滴。
朝倉宗滴は一生を通して朝倉軍を率いて80歳近くまで戦場を駆け巡り、最期も戦場で倒れ亡くなったという戦ばかりの一生を歩んでいきました。
また、戦だけでなく外交でも多くの功績を残しています。
浅井氏との同盟や加賀一向一揆への対処としての上杉謙信との協力なども朝倉宗滴の手柄でしょう。
軍事・内政と両方に長けていた朝倉宗滴は亡くなる直前に織田信長に対して以下のように言っています。
「今すぐに死んでも言い残すことはない。でも、あと三年は行きたかった。織田上総介(織田信長)の行く末を見たかったのだ」 (『朝倉家録』、『続々群書類従』)
これを見るに、朝倉宗滴は織田信長の才能を見抜いていたように思えます。
そして、朝倉宗滴の思った通りに朝倉氏は織田信長によって滅亡させられることになります。
まとめ 朝倉宗滴はどんな人?大河ドラマや映画はある?
ここまで朝倉宗滴について紹介してきました。
まとめてみると
- 朝倉宗滴は8男として生まれた
- 朝倉宗滴は4人の主君に仕えた
- 朝倉宗滴は政務・軍務の両方で功績を残した
- 朝倉宗滴は80歳まで戦場に出ていた
朝倉宗滴が登場する大河ドラマや映画は残念ながらありませんが、彼の一生は大河ドラマにしても見応えがあるものだと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
以上「朝倉宗滴の性格と経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い」でした。
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