「敵は本能寺にあり」という掛け声をあげて、主君であった織田信長を突然攻め、信長を自刃させた人物といえばみなさんご承知の通り明智光秀です。
織田信長の信頼も厚かったはずの光秀はなぜこのような大それた謀反を起こしてしまったのでしょう。
- 明智光秀の生い立ち
- 明智光秀の経歴や強さ
- 明智光秀の人柄や性格の面白いエピソード
これを読むと明智光秀の人柄や性格がわかってきます。そしてなぜ謀反に至ったかの謎もかいま見えてくるのではないでしょうか。明智光秀の心情を探ってみましょう。
明智光秀の生い立ちは?
明智光秀の生い立ちは残念なことにほとんどわかっていません。
生まれは美濃国の守護職であった土岐氏の支族で土岐明智氏であると思われています。
この土岐明智氏の出身地にもいろんな説があります。
有力なのは、岐阜県恵那市明智町です。ここには明智城趾があります。
もう一箇所は岐阜県可児市です。こちらにはかつて明智荘という荘園があり、明智城趾も残っています。
どちらが本当の出身地なのか、はたまたどちらも違うのかわかっていないのです。
光秀の出生時期もわかっていません。
死亡したのが1582年です。この時55歳から57歳だと見ると光秀の誕生は1526年から1528年ということになります。
一説には、光秀の父は進士信周で母は明智光隆の妹だとあります。光隆は病弱で子供に恵まれなかったので、光秀を養子として引き取ったと言われています。
また別の説では父親は名もない下級武士だったとも。
光秀の出生時期も別説があり、光秀は67歳で亡くなったとしていることから、生まれたのは1516年ということになります。資料の確実性から見れば後者の方が正しいのではないかと言われています。だとすれば光秀は結構な年齢だったのに謀反を起こしたことになりますね。
斎藤道三に仕えていた明智家は、道三が息子の龍興に敗れたため城を追われ散り散りになりました。
光秀は浪人となったといいます。
明智光秀が表舞台に登場するのは織田信長に仕える頃からなので全てが不明瞭なのです。
明智光秀の経歴や強さは?
どうやら明智家がバラバラになり光秀が浪人となってから、彼は朝倉義景を頼っていたようです。
1565年第13代将軍の足利義輝が松永弾正久秀や三好三人衆に討たれるとその弟義昭は若狭国に逃げていました。
そこから織田信長をはじめとする各地の武将たちに、上洛と将軍擁立を呼びかけました。
一旦は信長が承知したのですが美濃を平定しようとする信長に義昭は不信感を抱き、朝倉義景に頼るようになりました。
上洛を期待する義昭でしたが朝倉義景は動きません。
これを見て、信長の方が頼れると考えた光秀は義昭を征夷大将軍につけるよう頼みました。
美濃を平定した信長は義昭と上洛することになります。その時、義昭に仕えたのは光秀でした。
ここから明智光秀が歴史の表舞台に現れます。
この時、明智光秀は足利義昭と接点ができたのです。
この後光秀は義昭と信長両方に仕えることになります。
光秀は金ヶ崎の戦いで浅井長政が裏切り信長が危機に陥った時、木下秀吉(後の豊臣秀吉)らと殿(しんがり)を務めて信長を無事に逃がすことに成功しました。
信長が比叡山焼き討ちを行った時も、陣頭指揮を執り手柄を上げています。
1573年ついに光秀は将軍義昭と袂を分かち、信長一筋に仕えます。信長は義昭との和議を考えるのでしたが、松永弾正久秀の妨害でダメになってしまいます。
ついに義昭は追放されてしまいました。ここで室町幕府は終わりを告げたのです。
その後光秀は
- 高屋城の戦い(第2次石山合戦)
- 長篠の戦い(織田・徳川軍対武田勝頼軍)
- 越前一向一揆
などで活躍します。
1576年戦続きのせいか過労により光秀は倒れてしまいます。この時正室である煕子が看病の疲れから病にかかり亡くなってしまうのでした。
まるで光秀の身代わりになったようですね。
翌年前線に復帰した光秀は、紀州征伐に加わりました。これは織田信長と羽柴秀吉による紀伊への進攻で、光秀はこの紀州征伐の雑賀攻めに参加したのです。
それに引き続き、信長に謀反を企てた松中弾正久秀の征伐にあたる信貴山城の戦いに出陣し見事に城を落としました。
この時同時に丹波攻めも行なっていたのですから過労にもなるはずです。
1578年には毛利攻めをしている秀吉へ援軍として駆けつけました。その年の秋には信長に背いた荒木村重を攻める有岡城の戦いにも参加しています。
1579年丹波攻めは佳境に入っていました。ずっと包囲し続けていた八上城が落ち、続いて黒井城も落ちました。これでやっと丹波国を平定したのです。本当にお疲れ様でしたというほかないですね。
信長も光秀に丹波一国を恩賞として与えてその働きぶりに報いました。この時信長は、「丹波の国での光秀の働きは天下の面目を施した」と言って褒め称えたのです。
その上、丹波一国と同時に、丹波国の長岡藤孝、大和国の筒井順慶ら近畿の織田大名たちが実質みんな光秀の配下となったことから、光秀の持つ所領は240万石にもなったのです。
それだけ自分のことを高く評価してくれた信長に対して光秀は深く感謝していました
光秀は「明智家法」に「瓦礫のように落ちぶれていた自分をここまで引き上げてくれた。この恩は一族子孫に至るまで忘れてはならない」と書き記しています。
信長と光秀は主君と家臣という関係の中でとても良い状態だったといえるでしょう。
そんな良好な関係にあったはずの2人が突然、光秀の謀反という事件で引き裂かれてしまいました。
1582年本能寺の変が起きたのです。
明智光秀は毛利攻めをしている秀吉の援軍に出かけるところでした。
しかし道中突然方向を変え京の本能寺を目指したのです。
ほとんどの家臣は信長を討つとは思わず、家康を狙うのだろうと考えていたようで、光秀の本心はわずかな重臣たちにしか知られていなかったのです。
その時信長はわずかな配下を連れていただけでした。向かう明智光秀は13000の兵でそれを叩きました。
終わりを悟った信長は寺に火をかけて自刃して果てました。
なぜ光秀は信長を討つまでになってしまたったのでしょう。
この理由はたくさんの説があるものの真実は光秀にしかわからないというのが事実です。
一説には、丹波国を与えられた光秀を岩見・出雲の方へ移封したからだといいます。
苦労して平定した丹波国を一度は与えられたのに、それを簡単によそへ移れと言われては面白くないのも事実でしょう。
また、徳川家康をもてなす役をいい使った際に不手際があり信長の怒りを買ったというのも原因の1つとされています。
激しい気性の信長を怒らせて、侮辱を受けたとも考えられます。
その怒りが、光秀の謀反に繋がったのでしょうか。
本能寺の変が6月2日の早朝でした。光秀は6月4日までには近江を平定していました。
そして6月9日には朝廷へ銀500枚などの寄進をしています。
そんな時中国地方にいた秀吉が驚くスピードで帰って来たのです。6月13日秀吉との決戦に臨むことになりました。
秀吉側35000の兵に対し、光秀側は10000と人数的にも劣っていました。戦が始まると短時間で終わりが見えてきました。
敗北した光秀は山中を逃げていたところ落ち武者狩りの農民に竹槍で刺されました。
これまでと覚悟した光秀は自刃して果てたのです。
大それたことをやってのけた光秀でしたがその天下はわずか10日あまりでした。
明智光秀の人柄や性格の面白いエピソード
- 大黒天を捨てる
- 一途な愛妻家
- 明智光秀の天海説
光秀が20歳頃のお話です。
光秀は芥川で大黒天の仏像を拾いました。家臣が「大黒天の仏像を拾えば1000人の頭になれます」というと、光秀はそれをまた捨ててしまいます。
自分は1000人の頭で収まるつもりはないという野心の現れですね。
それにしても仏様を捨てるあたりバチが当たりそうですね。
光秀は愛妻家で有名です。妻の煕子をこよなく愛していました。結婚前煕子が疱瘡を患い顔に跡が残りました。煕子の親は、光秀の元に妹を輿入れさせようとしましたが、自分の妻は煕子と決めていると言ってめでたく結婚したのです。
恋愛に関しては一途だったのですね。
明智光秀は山崎の山中では死んでいなかったという話があります。
徳川家康の右腕に天海という参謀がいます。彼は100歳以上の高齢まで生きていました。
光秀が生き延びて徳川家康に仕えたのではないかというのです。
三代将軍家光の光は名付け親の天海が光秀から一字とったものだと言います。
また家光の乳母の春日局は光秀の姪だったとも言われています。
これは興味深いですね。しかしほとんどがこじつけでデマだろうと思われます。
もしこれが事実なら本能寺の変の裏に家康の影がチラチラと見えるではないですか。
歴史のミステリーですね。
まとめ 明智光秀はどんな人?分かりやすいおすすめ作品
明智光秀はその出自がはっきりしていない人ですが、織田信長と出会う頃から表に出て来た人です。
たくさんの戦を乗り越え、信長に可愛がられていたものと思ったら、突然信長を裏切る行為にでました。
光秀のその理由もよくわかっておらず、歴史好きにはたまらないミステリーとなっています。
明智光秀の経歴や人柄について、エピソードを加えながらいろいろと見て来ましたがいかがでしたか。これを読んで作品を見るとより楽しめること間違い無いです。
明智光秀を扱った小説
- 「明智光秀」(上・下) 桜田晋也 学陽書房
明智光秀の生涯を綴ったもので上・下巻の読み応えのある一冊です。この本の中では信長を悪役にして物語を進めています。
- 「本能寺の変431年目の真実」 明智憲三郎 文芸社
明智光秀の子孫が書いた一冊です。史料を元に真実に迫っています。このお話の中では信長が家康を殺そうとしていたことが書かれています。
光秀の子孫の考えを聞いてみたくなる一冊です。
テレビドラマ
- 「国盗り物語」 1973年 NHK大河ドラマ 演者 近藤正臣
- 「麒麟がくる」 2020年 NHK大河ドラマ 演者 長谷川博巳
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