あなたは尼子晴久という人物をご存知ですか?
毛利元就が好きな方なら大内氏とセットで一度は聞いたことあるでしょう。
尼子晴久は尼子氏を戦国大名化させた尼子経久の孫です。
毛利元就が登場してくるまでは中国地方は尼子氏か大内氏かというくらいの勢力を持っていました。
今回は尼子晴久について
- 尼子晴久の生涯と死因、辞世の句は?
- 尼子晴久の子孫や父母兄弟や妻子供は?
- 尼子晴久と毛利元就の関係は?
を紹介します。
こちらを読めば尼子晴久の生涯や家族・子孫、さらに死闘を繰り広げた毛利元就との関係もわかりますよ。
ぜひ読んでみてください。
尼子晴久の生涯と死因、辞世の句は?
~誕生から家督相続まで~
尼子晴久は永正11年(1514年)に尼子政久(経久の嫡男)の次男として生まれます。
幼名は三郎四郎で元服後の初名は詮久(あきひさ)、そして晴久(将軍・足利義晴から「晴」の字を賜る)となります。
尼子晴久が生まれた当時の尼子氏は
- 出雲国(島根県東部)
- 備後国(広島県東部)
- 隠岐国(隠岐諸島)
の3国を領していましたが、
西の大内氏は
- 安芸国(広島県西部)
- 石見国(島根県西部)
- 周防国・長門国(山口県全域)
- 豊前国(福岡県東部)
- 筑前国(福岡県西部)
- 肥前国東部(佐賀県東部)
の7国を治める大勢力であったため、尼子氏は領土拡大をするのは厳しい状況にありました。
この時の当主は晴久の祖父・尼子経久で、経久はまず国人をまとめるために
- 反抗勢力を討伐
- 婚姻関係を築く
- 対外遠征
をし、出雲国を統一しようとしていました。
また、尼子晴久が生まれる7年ほど前に管領(室町幕府ナンバー2)細川氏内で内紛が起こり(後継者争い)、これに将軍や地方の守護も巻き込まれていきます(永正の錯乱)。
すると、永正8年(1511年)に大内義興が上洛し管領細川氏の内紛に加わります。
この大内義興の留守を好機とみた尼子経久は、大内領や東側の伯耆国(ほうき、鳥取西部)へ侵攻し、大永4年(1524年)までには
- 出雲国
- 備後国
- 備中国・備前国・美作(みまさか)国(岡山県全域)
- 伯耆国
- 隠岐国
- 安芸の一部
の6国までに領土を拡大していきました。
しかし、領土拡大の途中で経久の後継者で晴久の父・尼子政久が戦死してしまいます。
父・政久の死によって経久の後継は晴久となります(晴久の兄は若くして亡くなっている)。
尼子政久の死といった不幸があったものの、なんとか領土を拡大した尼子氏でしたが、大永4年(1524)に安芸国国人であった毛利氏の相続問題で大内氏寄りの毛利元就が家督を継ぐと、備後国や安芸国での支配力が弱くなります(国人が大内氏側につく)。
※家臣の亀井秀綱が毛利氏への家督相続に介入し失敗
尼子氏の衰退はこの毛利元就の登場から始まります。
また、享禄3年(1530年)には晴久の叔父・塩冶興久(えんや おきひさ)が経久に対して謀反を起こしますが、大内義隆が経久に味方したことで天文3年(1534年)に経久はこの謀反を鎮圧します。
天文6年(1537年)に経久が隠居したため、晴久が当主となります。
この時、晴久は24歳でした。
~勢力拡大~
天文6年(1537年)に24歳という若さで尼子氏の当主となった晴久は、父と同じように勢力を拡大させるために各地に侵攻します。
まず、天文7年(1538年)に尼子晴久は大内領の石見国にあった石見銀山を手に入れます。
石見銀山を手に入れたことで財源の確保ができました。
さらに、同年中に因幡国(鳥取県東部)を平定し、続いて赤松氏の播磨国(兵庫県南西部)へ侵攻し、播磨国も手に入れます。
天文8年(1539年)には豊後国の大友義鑑(よしあき)が将軍・足利義晴を入洛させる名目で大内氏包囲網を作ると、尼子晴久もこの包囲網に参加します。
また、京でも幕府と石山本願寺が対立していたため、尼子晴久は幕府救援の名目で備後国や安芸国へ侵攻します。
とくに、安芸国の安芸武田氏や吉川氏(毛利元就次男・吉川元春が養子になる前)を味方につけます。
そして、播磨国国人で赤松氏に仕えていた別所氏の三木城を攻め、別所氏を味方にします。
この時点で尼子氏の領地は
- 出雲国
- 石見国
- 伯耆国
- 美作国
- 備前国
- 備中国
- 隠岐国
- 安芸国一部(安芸武田氏・吉川氏)
となります。
~毛利元就に大敗する~
領土を少しずつ拡大してきた尼子晴久でしたが、尼子氏の播磨国への進出に警戒した将軍・足利義晴の命で大内氏が攻めてきます。
大内氏は尼子方であった安芸武田氏の居城・佐東銀山城(さとうかなやまじょう)を落とし、当主の武田信実は若狭国(福井県西部)へ逃亡します。
安芸武田氏がいなくなったことで安芸国での影響力を下げた尼子晴久は、天文9年(1540年)に大内方であった毛利元就の居城・吉田郡山城を攻撃します。
また、若狭国へ逃亡していた武田信実が安芸武田氏再興のため尼子方として参戦します。
尼子軍は安芸武田氏のほかに
- 石見国の小笠原氏
- 安芸国の吉川氏
- 備後国の三吉氏
ら有力国人が味方に付いていたため、開戦当初は尼子軍が優勢でした。
しかし、毛利元就の徹底した籠城と大内氏の援軍によって尼子軍は大敗をします(吉田郡山城の戦い)。
また、尼子晴久の大叔父・尼子久幸(晴久の祖父・経久の弟)が戦死してしまいます。
この戦いでの敗戦によって安芸武田氏が滅亡し多くの国人が大内氏に寝返りました。
さらに、天文10年(1541年)に隠居していた祖父の尼子経久が84歳で亡くなります。
~中央集権化と勢力拡大~
吉田郡山城の攻略に失敗した尼子晴久は体勢の立て直しを図りますが、天文11年(1542年)に大内軍が居城であった月山富田城(がっさんとだじょう)へ侵攻してきます(第1次月山富田城の戦い)。
尼子氏は吉田郡山城の戦いで大敗を喫し、その影響で国人が寝返り士気が低い状態でしたが、尼子軍は徹底抗戦しなんとか大内軍を退けます。
※大内方に寝返っていた国人が再び尼子方に復帰する
尼子軍は大内軍を追撃し、大内義隆の養嗣子(後継に選ばれた養子)・大内晴持や小早川正平らを討ち取り、毛利元就をあと一歩の所まで追い込むなど圧勝しました。
大内軍を退けた尼子晴久は、この後、月山富田城を中心とする政治体制を築いていきます。
まず、行ったのは吉田郡山城の大敗から月山富田城の戦いの間に大内氏へ寝返った国人の処罰でした。
- 尼子清久(経久に謀反を起こした塩冶興久の嫡男)を粛清
- 河津氏や多賀氏を追放
- 三沢氏の領地を削減
国人を整理した尼子晴久は出雲国月山富田城を中心に周辺地域へ侵攻します。
- 天文12年(1543年) 大内氏が抑えていた石見銀山を奪還する
- 天文13年(1544年) 因幡国の山名氏を従属させる
- 天文17年(1548年) 美作国の三浦氏を従属させる
- 天文20年(1551年) 備前国の松田氏や守護代の浦上政宗を味方につける
天文20年(1551年)8月には大内氏当主の大内義隆が家臣の陶晴賢の謀反(大寧寺の変)によって自害し大内氏は衰退します。
すると、尼子晴久は将軍・足利義輝から
- 山陰山陽8ヶ国(出雲・伯耆・隠岐・美作・因幡・備前・備中・備後)の守護
- 幕府相伴衆(しょうばんしゅう、宴席などの際に将軍に随従する役職)
に任ぜられます。
これは、尼子氏が大内氏よりも幕府や朝廷のために働ける勢力として認められたということと、中国地方において尼子氏が優勢と見られたことを表しています。
さらに、守護になったということで前に上げた8ヶ国なら侵攻できる大義名分を得たことにもなります。
- 天文21年(1552年) 備後北部の江田氏を味方にする
- 天文22年(1553年) 美作国東部へ侵攻する
しかし、味方になった江田氏が毛利氏を中心とした大内氏方の国人に攻撃を受け、江田氏の居城・旗返山城が落城します。
この江田氏の敗戦によって備後国の山内氏や多賀山氏が大内氏へ寝返ったため、尼子晴久は天文23年(1554年)に石見国の国人・益田氏の仲介で大内氏(陶氏)と同盟を結びます。
~新宮党の粛清と晴久の急死~
大内氏との同盟で一時的に戦争の危機を脱した尼子晴久はさらなる中央集権化を進めるため家中の統一を目指します。
その標的にしたのが新宮党と呼ばれる尼子氏家中の軍事集団でした。
新宮党は尼子軍の精鋭部隊で尼子晴久の叔父・尼子国久(晴久祖父・経久の次男)と国久の子達(誠久・豊久・敬久)が主に率いていました。
新宮党は尼子本家から独立した勢力であり、中央集権化を目指す尼子晴久にとっては邪魔な存在でもありました。
しかし、尼子晴久が勢力拡大する中で新宮党の活躍は無視できないものであり、さらに、晴久の正室が国久の妹だったため、新宮党を粛清しようとしても易々とはできませんでした。
そんな中、新宮党は尼子家中で傲慢な振る舞いをするようになっていきます。
そして、尼子晴久の正室が亡くなると、天文23年(1554年)に晴久は新宮党を謀殺します。
※新宮党の謀殺は、一説には毛利元就の謀略があったと言われていますが、最近の研究では
創作といわれています。
新宮党の滅亡によって尼子晴久は家中の統一を成し遂げます。
尼子本家の権力を強化した尼子氏でしたが、天文24年(1555年)に大内氏の実権を持っていた陶晴賢が毛利元就によって滅ぼされ、大内領の大半が毛利領となります。
尼子晴久は大内氏の衰退したのを好機と見て石見国へ侵攻し、石見銀山の防衛地である山吹城を包囲します。
弘治2年(1556年)に毛利元就が攻めてきますが、これを忍原で撃破(忍原崩れ)し山吹城も攻略、そして石見銀山も確保します。
弘治3年(1557年)に入ると毛利元就が大内氏を滅ぼしたため、中国地方は尼子氏と毛利氏の二大勢力が対峙することになります。
永禄元年(1558年)から永禄2年(1559年)にかけて、毛利元就が石見銀山確保のため石見東部へ侵攻してきますが、これを撃退します。
毛利元就の侵攻を何度も撃退していた尼子晴久でしたが、永禄3年(1561年)に居城・月山富田城で47歳で急死してしまいます。
死因は
- 脳溢血
- 毒殺 新宮党の残党によるもの
のどちらかといわれていますが、脳溢血の方が信憑性が高いです。
尼子晴久の急死は尼子氏にとって大きな痛手となり、尼子氏は急速に衰退し、晴久の死からわずか5年後の永禄9年(1566年)に戦国大名としての尼子氏は滅亡します。
辞世の句は急死だったこともあり残っていません。
尼子晴久の子孫や父母兄弟や妻子供は?
~晴久の後を継いだ尼子義久~
尼子晴久の後を継いだのは次男の尼子義久です。
尼子義久は20歳で当主となりましたが、毛利氏との戦闘を避けるために将軍・足利義輝に仲介を頼みます。
しかし、晴久の死を察知した毛利元就が石見国へ侵攻してきます。
さらに、国人が次々と毛利方へ寝返ります。
中でも石見銀山を守っていた本城常光の降伏は大きく、その後、石見銀山を奪われ永禄5年(1562年)には出雲国へ毛利軍が攻めてきます。
尼子氏は4年ほど戦った後、永禄9年(1566年)に尼子義久は降伏し戦国大名尼子氏は滅亡します。
降伏後の尼子晴久の息子達は以下のようになります。
- 尼子義久(晴久次男) 安芸国円妙寺に10年幽閉される。慶長15年(1610年)に死去。
- 尼子倫久(晴久三男) 安芸国円妙寺に10年幽閉される。元和9年(1623年)に死去。
- 尼子秀久(晴久四男) 安芸国円妙寺に10年幽閉される。毛利氏の家臣となり、慶長
14年(1609年)に死去。
また、尼子倫久の長男・尼子元知(もとさと)が毛利氏の命令で尼子氏を継いで毛利家臣となり尼子晴久の血筋を残します。
~尼子家再興を目指した新宮党の生き残り 尼子勝久~
尼子晴久が新宮党を粛清した前年の天文22年(1553年)に、新宮党の尼子誠久(国久の嫡男)の五男として尼子勝久が生まれます。
尼子晴久による新宮党粛清の際に
- 尼子国久 祖父
- 尼子誠久 父
- 尼子敬久 叔父
- 兄三人(吉久・季久・常久)
らが殺害される中、1歳だった尼子勝久は尼子家臣・小川重遠によって助け出され、京都に逃れた後に僧になります。
永禄9年(1566年)、勝久が13歳の時に尼子本家が毛利氏によって滅ぼされます。
すると、永禄11年(1568年)に尼子家再興を目論む尼子遺臣の山中鹿之助らに擁立され、勝久は還俗し、尼子家再興を目指します。
永禄12年(1569年)から天正2年(1574年)にかけて出雲新山城を拠点に何度も旧居城・月山富田城の奪還を目指しますが毛利軍の前に敗北します。
月山富田城を奪還するのに苦戦していた尼子勝久らでしたが、畿内を中心に織田信長が中国地方へ進出してくると、織田信長の傘下に入り羽柴勢に配属されます。
織田軍の支援があることは尼子勝久にとっては大きな力となり、天正5年(1577年)に宇喜多直家の支城・上月城を落とすとこの城の守備を任されます。
しかし、織田軍が織田信長に反旗を翻した別所氏のほうに戦力を集中させると、上月城は孤立する形となります。
羽柴秀吉から撤退命令がありましたが、尼子勝久らは籠城を決め毛利軍と戦い、天正6年(1578年)に降伏します。
尼子勝久は嫡男の豊若丸と兄の氏久らとともに自害しました(享年26歳)。
山中鹿之助は捕虜となり、備中松山城へ向かう途中に毛利家臣によって殺害されました。
これによって戦国大名尼子家の再興は絶たれることとなりました。
尼子晴久と毛利元就の関係は?
尼子晴久と毛利元就は中国地方を巡って死闘を繰り広げたライバルのような関係でした。
まず、二人の生まれた年を見てみると、
- 尼子晴久が永正11年(1514年)2月12日
- 毛利元就が明応6年(1497年)3月14日
と尼子晴久のほうが17歳も年下で、尼子晴久は人生の大先輩と戦っていたことになります。
また、尼子晴久と毛利元就には次男という共通点もありました。
尼子晴久の場合は
- 父・尼子政久は晴久が4歳のときに戦死
- 兄・千歳は夭折
と父と兄が早くに亡くなり、その後、祖父の経久から23歳のときに家督を譲ります。
毛利元就の場合は
- 父・毛利弘元は元就が9歳の時に酒毒(アルコール中毒)で急死
- 兄・毛利興元は元就が19歳の時に酒毒で急死
と父と兄が相次いで酒毒で亡くなります。
元就は興元の嫡男・幸寿丸の後見となりますが、その幸寿丸も元就が26歳の時に急死し、結局は元就が27歳で毛利家を継ぎます。
これを見ると二人は
- 父と兄の早死
- 20歳半ばくらいで後を継ぐ
など同じような境遇の中で当主となりました。
最終的には尼子氏は毛利元就によって滅ぼされることになりますが、もともとは尼子氏は毛利氏を支配していました。
しかし、毛利元就が当主となると尼子氏との関係が悪化します。
理由は毛利幸寿丸が亡くなった後の後継者争いでした。
この毛利家の後継者争いに尼子家が介入していたといわれています。
これは当時の尼子家当主・尼子経久が元就を当主にしたくなかったという考えからのものでしたが、結局、元就が当主となり尼子家と関係が悪化してしまうことになります。
そして、毛利家との関係が悪いなか尼子晴久が当主となります。
尼子晴久が当主となった時点での毛利元就は尼子氏と中国地方の覇権を争っていた大内氏に仕えていました。
その後、尼子氏と大内氏が争うなか毛利元就も戦場に出て尼子軍と戦い、大内氏からの独立後も尼子氏と争います。
尼子晴久と毛利元就は何度か戦いますが、晴久が当主だった時は、尼子軍のほうが勝っていました。
しかし、尼子晴久が急死すると尼子氏は毛利元就によって滅ぼされます。
毛利元就は尼子氏を滅ぼしたものの、晴久が亡くなったのを知ると次のように言います。
「一度でいいから旗本同士で戦いたかった」
これは17歳も年下である尼子晴久への尊敬の念を表しているのでしょう。
また、毛利元就は尼子氏を滅ぼした際に、息子の吉川元春や小早川隆景からは尼子一族の抹殺を進言されますが、毛利元就は尼子晴久の息子達(義久・倫久・秀久)や尼子家臣を殺さず幽閉または解放するだけにとどめました。
幽閉を説いてからは尼子義久を客分として丁重に扱ったり、晴久三男の尼子秀久は家臣として重用しました。
尼子晴久と毛利元就は互いに敵対し戦いましたが、互いを認め合っていた間柄でもあったのでしょう。
まとめ 尼子晴久の大河ドラマやおすすめ映画作品や本はある?
ここまで尼子晴久について紹介してきましたがいかがでしたか。
まとめてみると
- 尼子晴久は次男として生まれた
- 尼子晴久は勢力拡大に奔走した
- 尼子晴久は中央集権化を進め新宮党を滅ぼした
- 尼子晴久は急死した
- 尼子晴久と毛利元就はライバルだった
大河ドラマでは
- 高嶋政宏さんが演じた『毛利元就』1997年
本では
- 米原正義さんが書いた『出雲尼子一族』
がおすすめです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
以上「尼子晴久の生涯と死因、辞世の句は?子孫の名前や毛利元就との関係は?」でした。
コメント