平岡円四郎とは? 徳川慶喜の側近でありながら、不幸な死を遂げることとなってしまったその人となりと人生。渋沢栄一に与えた影響は?

NHK大河ドラマ『青天を衝け』で、堤真一さん演じる平岡円四郎に注目します。

日本経済の父である渋沢栄一の恩師となった平岡円四郎とはどういう人だったのでしょうか?

今回は平岡円四郎の生涯とエピソード、特に円四郎のバックグラウンドである生い立ちや将軍継嗣問題での思想の転換や栄一と平岡家の関わり、栄一に与えた影響について解説していきます。

平岡円四郎のプロフィール

・名前:平岡円四郎

・生年月日:1822年11月20日(文政5年10月7日)

・出生地:武蔵国下谷練塀小路(現東京都千代田区神田練塀町)

・死没:1864年7月19日(元治1年)6月16日(満43歳没)

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旗本四男坊の才覚

平岡円四郎は、旗本岡本忠次郎(花亭)の四男として生まれました。

幼少のころの記録はありませんが、1839年(天保九年)円四郎が17歳の時に平岡文次郎の養子となっています。

円四郎昌平坂学問所という神田湯島に設立された江戸幕府直轄の学問所で学問所寄宿中頭取(学生寮の寮長)を務めていましたが、武術練習のために学問所を辞めています。世俗と交わることを好まない変人と言われていたようです。

円四郎幕臣である川路聖謨とかねてより親交があり、常人でない才能の持ち主であることを見いだされていました。

川路水戸藩の家臣であった藤田東湖から「烈公(徳川斉昭)の息子(慶喜)が一橋家の養子になった。だれか主君の非行を強くいさめられる臣下として良い者はいないか。」と聞かれ、円四郎を推薦しました。

円四郎自身は一橋家の小姓を勧められ一度は「そば仕えは自分の素養には合わない」と固く断ったようですが、強いられて出仕することになりました。

そば仕え経験のない円四郎は近侍としては動作が粗野でしたが、慶喜はそれをいとわず親しく教えてあげていたようです。

ドラマでもお茶碗へのお米のよそい方が下手な円四郎に、慶喜が優しくコツを教えてあげていました。

当時、円四郎31歳慶喜16歳という15の年の差にも関わらず、慶喜の人格・才能・知恵が優れていることを感じ取り、心を傾けて奉仕することになりました。

円四郎と将軍継嗣問題

1853年(嘉永6年)、横浜の浦賀に黒船が来航しました。

この直後に13代将軍となった徳川家定は、生来身体が弱く後継を残せないのではないかと心配されていました。

家定の後継を選ぶべく、一橋慶喜・紀州徳川慶福の両擁立派が対立して将軍継嗣問題が起こりました。

円四郎はここで自身の仕える慶喜を、越前の中根雪江、橋本左内、水戸の安島帯刀と共に14代将軍にすべく奔走していました。

橋本左内開国派で世界と交易をすべきであると主張していました。

円四郎左内の開国論とは対立し、議論を交わしていましたが、段々と左内の主張する意見に傾倒していきました。

中根雪江はそんな二人の様子を見て「円四郎は知恵があり物事を分別する能力にたけ抜きん出た才能の持ち主で、佐内は学識に優れ、志が非常に高く優れている」と評しています。

紀州徳川慶福を推す井伊直弼の出現により、14代将軍は徳川家茂(慶福)に決まり、一橋派は一掃されることになりました。

円四郎もこの影響を受け、1859年(安政五年)9月22日慶喜の小姓から小十人組に移され、慶喜が隠居謹慎を命じられたタイミングで小普請入差控として自宅謹慎を食らい、甲府勝手小普請に左遷されました。

ドラマでは円四郎が江戸を去るため、慶喜に最後の挨拶にきて「自分は、藤田東湖のような慶喜の右腕になれなかった。でも、またいつか必ず慶喜の家臣になるために戻ってくる。」と宣言していました。

これに対して慶喜は「ならば、酒は控えろ。息災を祈っておる。」と返しました。

実際にもこのようなやり取りがあったかもしれません。

将軍継嗣問題では敗れてしまった円四郎ですが、開国派である橋本左内との出会いにより、攘夷派から全く反対の開国を行う方が日本国をより良い方向に導くという結論に至ったと思われます。

もともと常人とは違う才能があると言われていた円四郎ですから、多様な人から意見を聞いて自分の見識を深めていたのではないでしょうか。

一橋家への復帰と渋沢栄一との出会い

1862年(文久二年)7月、慶喜将軍後見職へ着任しました。

円四郎同じ年の12月に江戸に戻りました。

翌年5月に、再び一橋家の家用人に戻り、慶喜の側近として離れず補佐を行いました。

一橋家は攘夷思想の強い藩であり、慶喜自身も攘夷論者と言われていました。

しかし、攘夷を実行しない様子から、円四郎が開国論で慶喜を誘惑していると噂され、過激な攘夷派に狙われることになりました。

ドラマでも攘夷派に狙われていることを、円四郎自身も気づいている描写がありました。

そんな闇討ちの危険を承知しながら過ごす円四郎は、この年に後に日本経済の父と呼ばれる渋沢栄一と出会うことになります。

ドラマでは、栄一が高崎城乗っ取り、横浜外国人居留地焼き討ち計画時に江戸に行った際に円四郎の部下に捕らえられたことがきっかけで出会います。

史実でもドラマと同じタイミングで出会っていますが、捕らえられたわけではなく、栄一の従兄である渋沢喜作と一橋家の家臣である川村恵十郎は面識があり、その紹介で出会いました。

当時の一橋家は、領内の百姓で武芸の心得のあるものを召し抱える命令を出していました。

栄一喜作一橋家の家臣になる気はなくとも、一橋家の要人と繋がっていれば宿駅や関所越えの時に有利になると考えていました。

栄一喜作は、円四郎の元を度々訪問して懇意になっており、外交問題や幕政について論じ合っていたようです。

円四郎はそんな二人の気概を買って「お前たちは農民の家に生まれたということであるが、談じ合ってみると至って面白い心掛けで、実に国家の為に力を尽くすという精神が見える。しかし、残念なことに身分が農民では仕方がない。
幸いに一橋家には仕官の途もあると思うし、拙者も気にかけて面倒をみてやるから、直に仕官してはどうだ。」と一橋家へ奉公しないかと勧誘
を行いました。

栄一たちはここでは奉公の誘いを丁重に断りましたが、円四郎の好意から上京する際は円四郎の家来の名義を名乗ることを許されます。

攘夷を唱える農民の若者と意見を交わして一橋家の家臣に誘うとは、円四郎は大胆な人物です。

円四郎国家のために力を尽くそうとしている人物を、身分を問わず重用したい考えがあったのでしょう。

自身も攘夷派から開国派に変わるなど考えを柔軟に変えられるタイプで、常に日本国をより良く導くにはどうしたら良いのかと考えていたことが伺えます。

渋沢栄一を仕官させる

1863年(文久3年)11月渋沢栄一喜作と共に高崎城乗っ取り、横浜外国人居留地焼き討ち計画を企てたことで幕府に捕縛される危険があったため、故郷の血洗島を出て京都へ出奔しました。

もちろん、道中では円四郎の部下と称して移動していました。

1864年(元治元年)1月、栄一たちは周辺の志士たちから京都の情勢を訊ねて日々を過ごしていました。

そこで倒幕の機運の高まりを感じ、栄一のいとこで計画の同志であった尾高淳忠や尾高長七郎に上京を促していました。

そんな折、円四郎の耳に、栄一たちに嫌疑がかかっているとの知らせが入りました。

すぐに二人を呼び出し、事情を尋ねると、攘夷計画を企てていることが分かりました。

二人は嫌疑がかかったことから、計画自体がご破算となり、進退に窮していました。

そこで円四郎「この際志を変えて、一橋家の家来になってはどうか。もしその気なら尽力して周旋する。」と一橋家家臣へ再度勧誘します。

二度も誘うということは、円四郎はよほど二人を気に入っていたのでしょう。

栄一たちはこの誘いに軽々しく答えることもできず、一旦持ち帰って検討をすることになりました。

栄一仕官に傾き喜作反対しましたが激論の末に仕官の方針となりました。

ただ、栄一意見書を書いて一つ条件を付けることを提案しました。

それは慶喜への拝謁の機会を得ることです。

この提案に円四郎は、「見ず知らずの者に拝謁を許すわけにはゆかないから、遠見で二人を見ていただき、あれらが何某だ、ということにしたい。両三日中に松ヶ崎に乗馬があるから、その途中でお目に留まるようにするが、乗馬だから両人とも駆けねばならぬ。」と返事をしました。

ドラマでの印象的であった「渋沢栄一でございます。」と慶喜を追いかけ、足を止めてもらうシーンです。

史実でもドラマと同じように必死に走ってお目に留まり、拝謁が叶うことになりました。

二度の勧誘の末、栄一と喜作の採用に至った円四郎ですが、実はすんなりと仕官が決まったわけではなかったようです。

一橋家の重臣の間で二人の採用について数回協議がなされていましたが、当初は評判が悪く一時不採用となっていたようです。

そこを川村恵十郎「この二人は理論だけの憤慨家ではなく実行力のある若者だ」と説得したそうです。

川村恵十郎の説得と円四郎の二人の気概への惚れこみにより仕官に至ったのです。

幕末の時代、それぞれの志をもって行動を起こしている志士がたくさんいましたが、口ばかりで実行に移さないだけの者も多かったようです。

たくさんの志士を見ていたであろう円四郎恵十郎は、攘夷計画とはいえ行動力のある二人を国家のために身を尽くせる人物として見初めたのでしょう。

この一橋家の仕官を機に、喜作成一郎栄一篤太夫と名を改めました。

ドラマでも円四郎が二人を名付けていましたが、史実でも円四郎が二人に名を与えたようです。

栄一は後に「篤太夫というのは、京都で慶喜公に仕えた際、平岡円四郎さんがつけてくれた。

何でも平岡さんが『栄一では侍に不似合いだ。何かいい名がありそうなものだ。そうだお前は道徳に心掛けがあるようだから、篤という字がよかろう』といって、篤太夫という名前をつけてくれた。」と語っています。

ただ、栄一自身はおじいさんのような名前だとそんなに気にいっていなかったそうです。

円四郎、暗殺される

同年5月、円四郎さらに出世し、一橋家の家老となりました。

いよいよ家老に上り詰めた円四郎を当時の人たちは「天下の権朝廷に在るべくして在らず幕府に在り、幕府に在るべくしてあらず一橋に在り、一橋に在るべくして在らず平岡・黒川に在り」と評していました。

しかし、栄一たちが仕官して間もない6月16日、攘夷派の水戸藩士である林忠五郎、江幡貞七郎により、円四郎は暗殺されてしまいます。

川村恵十郎と共に一橋家の家老であった渡辺孝綱を訪ねた帰りに襲撃され、右の肩先より左のあばら骨を切り下げられて即死したようです。

享年43歳、一橋慶喜を支える大きな存在が亡くなってしまいました。

従者二人もこれを防ごうとして殺され、川村恵十郎も傷を負いながら藩士を追いましたが、遂に見つけられなかったようです。

犯人である藩士も重傷を負い、亡くなりました。

円四郎はなぜ暗殺されたのでしょうか。

前年より一橋慶喜が攘夷を実行せずにいるのは、円四郎がそのように唆しているからだと江戸で噂になっていました。

それを信じたものが円四郎を排除して慶喜公に攘夷を促そうと考え、暗殺が実行されました。

円四郎生まれ持って聡明であり、すぐれた才能がありました。

栄一たちとは気軽に意見を交わし、国を良くすることを考える同志といった一面もあったようですが、やはり一橋家の家老まで上り詰めた人物です。

様々な政談を色んな立場や考えの人物たちと論じることもあったでしょう。

そういった場で、言葉つきが鋭く、人から恨みをかうことも少なくなかったようです。

現代でも仕事のできるリーダーほど厳しい言い方や意見をして嫌われたりするものですが、幕末の時代に、そのスタンスをとっている円四郎は珍しく反感をかっていたのかもしれません。

栄一たち円四郎暗殺の知らせを聞いたのは7月に入ってからでした。

二人はちょうど一橋家の兵備を充実させるべく、歩兵の募集を行うように命を出されて関東へ下向していました。

円四郎とは、栄一たちがお役目で京都を出発する前に、近郊散策と称して山科の蹴上で昼食を共にし、関東巡回の心得を親切に教え、見送ってくれたのが最期となってしまいました。

ドラマでも旅立つ前の栄一たちを尋ねて「一途に国のことを考えているかどうか、全うに正直に生きているものを探してこい。」とエールを送っていました。

幕府の追及の窮地を救ってくれ、自分たちを一橋家の家臣にしてくれた大切な上司を失いどれほど衝撃を受けたでしょうか。

この先、栄一たち円四郎のいない一橋家、将軍家を支える大事な家臣となっていくのです。

渋沢栄一と平岡家の関わり

栄一1882年(明治15年)42歳の時、夫人であった“千代”をはやり病のコレラで亡くします。

その翌年に後妻として“伊藤かね子”を娶りました。

ドラマでは平岡円四郎の妻である平岡やすが、ご縁を結ぶようですが、史実としては記録にありません。

“やす”は、吉原の売れっ子芸者として働いていたところを、放蕩時代の円四郎に見初められて結婚しています。

“伊藤かね子”も江戸の豪商の娘でしたが、事業の失敗により実家が没落し、のちに芸者となっています。

円四郎死後、やすについての記録はありませんが、再び芸者として働いていたのかもしれません。

そこで”兼子”と出会い、妻を亡くした栄一に、兼子を紹介したのかもしれません。

栄一1887年(明治20年)ごろに、本所の法華宗の寺で円四郎の法事を行ったそうです。

記録はありませんが、1887年以後は円四郎の妻であった”やす”も亡くなり、栄一と平岡家の交流が絶えたのかもしれません。

円四郎には息子が二人おり、長男は道具屋を、次男は信州の方で裁判官を勤めていたそうですが、その後の行方は分からなくなったようです。

まとめ

・平岡円四郎は武蔵国下谷練塀小路の旗本岡本家の四男として生まれ、平岡家に養子に入りました。

・川路聖謨から常人でない才能があると見いだされ、一橋家の慶喜の小姓として仕えることになりました。

・近侍に乗り気でなかった円四郎ですが、慶喜の聡明さに心を打たれ一生懸命に仕えるようになりました。

・将軍継嗣問題では、14代将軍に慶喜を推しており、同じく慶喜を将軍へ推す橋本左内より開国論の意見を聞き攘夷派から開国派へ転じました。

・14代将軍が徳川家茂(慶福)に決まり、一橋派は敗れたため円四郎も左遷されました。

・のちに日本経済の父となる渋沢栄一を見出し一橋家の家臣としました。

・家老になった円四郎は、慶喜が攘夷を実行しないのは円四郎が唆しているせいとされ攘夷派である水戸藩士に暗殺されました。

・渋沢栄一の再婚に円四郎の妻やすが一役を買いました。

円四郎の存在は栄一にどのような影響を及ぼしたのでしょうか。

栄一晩年円四郎について「24歳の時に家を離れて以来、日本の事態は最も急速に移って行ったので、その間に私の接した人は決して少数ではない。当初には、援助を受けたり、叱られたり、また訓戒せられた先輩が多かった。その中でも一橋家の平岡円四郎という人は、いわゆる私の命の恩人であり、かつ無名の一青年であった私をよく引立ててくれた、私にとっては忘れられない人である。」と語っています。

ドラマでは「なあ渋沢。お前はお前のまま生き抜け。」との一言が栄一への最期の言葉なりました。

その言葉通り栄一は伸び伸びと自身の信じる道を駆け抜けました。

栄一円四郎と出会い、一橋家の家臣、徳川家家臣、新政府の官僚を経て日本国の経済基盤を創生する日本経済の父になりました。

円四郎栄一が日本国のために大事を成し遂げる存在であることを見抜き、その第一歩へ導いた人物だったのです。

経済人として活躍する栄一は門戸開放主義であり、事業への投資や相談で面会を申し出る人とは必ず会っていたといいます。

栄一は、平岡円四郎の身分を問わず国を良くするために人材を重用する姿勢や議論を交わす姿勢から影響を受け、自身の主義に反映したのではないでしょうか・・・。

※参考文献:

・国史大辞典編集委員会編(1990年9月1日)『国史大辞典 第十一巻』吉川弘文館
・渋沢華子(1997年12月15日)『徳川慶喜最後の寵臣 渋沢栄一 ―そしてその一族の人びと』国書刊行会
・渋沢栄一記念財団編(2012年10月15日)『渋沢栄一を知る辞典』東京堂出版
・斎藤孝(2020年7月9日)『図解 渋沢栄一と「論語と算盤」』フォレスト出版
・山口宗之(1962年2月28日)『橋本左内』吉川弘文館
・渋沢青淵記念財団竜門社編(1955年4月30日) デジタル版『渋沢榮一伝記資料 第一巻』渋沢栄一伝記資料刊行会
・文科省(幕末期の教育)  「幕末期の教育」

 

 

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