あなたは北条貞時という人物をご存知でしょうか。
かの有名な北条時宗の嫡男で、鎌倉幕府第9代執権となった人物です。
元寇後、御家人の抱えていた借金をチャラにするといった「永仁の徳政令」を発布しました。
この「永仁の徳政令」は江戸時代に徳川綱吉が発布した「生類憐みの令」と並び悪法とされています。
そんな「永仁の徳政令」を発布した第9代執権・北条貞時は一体どのような人物だったのでしょうか。
今回は北条貞時の
- 生い立ち
- 経歴
- 「永仁の徳政令」の政治結果
- 平頼綱との関係性
をご紹介いたします。
これを読めば北条貞時の生い立ちや経歴、「永仁の徳政令」の政治結果や平頼綱との関係性を知ることができますよ。
北条貞時の生い立ち。家族や簡単な経歴
北条貞時は文永8年(1271年)12月12日、鎌倉(現在の神奈川県)において
- 父・北条時宗
- 母・堀内殿
の嫡男として誕生しました。
兄弟はいなかったとされています。
誕生から3年後の文永11年(1274年)10月、日本にモンゴル軍が侵攻してきます。
モンゴル軍は日本に対し2度の襲撃を行っているのですが、1度目となる文永11年(1274年)10月におきたモンゴル軍の襲撃は「文永の役」と呼ばれています。
父・北条時宗は鎌倉幕府第8代執権となった人物であり、この文永の役において、モンゴル軍の襲撃から日本を守り抜きます。
元服を迎える
建治3年(1277年)12月2日、数え年の7歳の頃に元服を迎えると、「貞時」と名乗り始めました。
7歳での元服は比較的早いもので、父・北条時宗は健康に自信がなく、また側室を持っておらず、貞時以外に子供がいなかったため、まだ幼い貞時を早めに元服させたのではと考えられています。
「貞時」という名前は
- 祖先にあたる平貞盛の「貞」
- 北条氏の通字の「時」
からとったものとされています。
弘安4年(1281年)、貞時が10歳の頃、モンゴル軍が日本を襲撃してきます。
この2度目となるモンゴル軍の襲撃は弘安の役と呼ばれ、父・北条時宗は長門警固番役の設置や石塁を構築するなど対策をとっていたため、激戦の末、モンゴル軍に勝利することができました。
しかし弘安7年(1284年)4月、貞時が13歳となった頃、父・北条時宗が弘安7年(1284年)4月4日、34歳で病死します。
鎌倉幕府第9代執権となる
そのため貞時は父の後を継ぎ、13歳で鎌倉幕府第9代執権となります。
しかし就任早々、北条時光が陰謀事件を起こすなど安定した政治を図れずにいました。
貞時には兄弟はおらず、また叔父・北条宗政といった近い親族は早世していたため、貞時を支える人物はいませんでした。
13歳と若すぎる貞時は、その幼さから侮られることもありましたが、有力御家人であり外祖父の安達泰盛が貞時の後ろ盾となりました。
しかし、数少ない味方の1人である安達泰盛は、幕府の基盤の拡大と安定を図り、幕府主導による政治運営の強化、国政改革を目的とし
- 御内人の幕政への介入を抑制
- 伊勢神宮や宇佐神宮などの有力寺社領の回復
- 朝廷の徳政推進の支援
などを行います。
安達泰盛が行ったこのような政策は「弘安徳政」と呼ばれ、幼い貞時に代わり安達泰盛が幕政を掌握するようになっていました。
しかし、安達泰盛の行った政策は幕府内からの反発が強く、幕府内で孤立するようになります。
その結果、安達泰盛は貞時の乳母の夫・平頼綱らと対立関係となります。
霜月騒動が勃発
弘安8年(1285年)11月17日、平頼綱は反安達勢力に対し、安達泰盛の討伐を命じます。
11月17日の午前中に安達泰盛の屋敷は反安達勢力に取り囲まれ、衝突が始まりました。
平頼綱と安達泰盛の衝突は「霜月騒動」と呼ばれ、この騒動は最終的に
- 安達泰盛は自害
- 安達泰盛の嫡男・安達盛宗は戦死
- 安達泰盛の嫡子・安達宗景は戦死
- 安達泰盛の異母弟・安達長景は戦死
となり、泰盛派は一掃されることとなり、安達泰盛亡き後、平頼綱が実権を掌握するようになりました。
北条貞時と平頼綱の関係。なぜ滅ぼした?
権力を掌握しだした平頼綱は正応2年(1289年)に将軍・惟康親王を退け、久明親王を擁立します。
平頼綱は貞時の後ろ盾として権力を掌握しましたが、平頼綱は御家人ではなく、北条氏に仕える武士・御内人であったため、安達泰盛に味方していた有力御家人・宇都宮景綱らからは不満の声が上がっていました。
そもそも御家人とは、将軍家に仕える者のことで、御内人とは北条氏に仕えていた者を指します。
御家人と御内人は身分の差が大きく、御内人である平頼綱が幕政を主導する事自体に無理があったとされています。
そのため、御家人たちからは睨まれるようになり、貞時も平頼綱に見切りをつけ正応6年(1293年)4月22日、23歳の貞時は鎌倉にある平頼綱の屋敷を囲み
- 平頼綱
- 平頼綱の子・飯沼資宗
など平頼綱の一族を滅ぼします。
これを平禅門の乱と呼びます。
平禅門の乱は4月22日に勃発しましたが、その10日前、鎌倉は非常に大きな大地震に巻き込まれていました。
マグニチュード7.0以上の大地震であったとされ、建造物の倒壊はもちろんのこと、多数の土砂災害が発生し、23,034人もの人々が亡くなりました。
貞時はこの鎌倉大地震をチャンスと考え、大地震に乗じて平頼綱とその一族を滅ぼしたのです。
少し、卑怯な手を使ったということです。
こうして平頼綱を滅ぼすと、貞時は実権を取り戻すことに成功します。
実権を取り戻した貞時は
- 霜月騒動において追放されていた金沢北条家の北条顕時らを復帰させる
- 一門の北条師時や宗方らを抜擢
するなど、自身の周りを北条家一門の御家人で固め、御家人の統制、北条家主導の専制政治を進めます。
また2度の元寇の後にも、薩摩沖に度々異国船が出現しており、その異国船への警戒を目的とした鎮西探題を永仁4年(1296年)に設置、北条一族で西国の守護を固めるなど、西国支配と国防の強化を図りました。
そして永仁5年(1297年)には「永仁の徳政令」を発布するなど行います。
【政治】永仁の徳政令の内容を簡単にわかりやすく。結果はどうなった?
永仁5年(1297年)に発布した「永仁の徳政令」とは一体どのようなものであったのでしょうか。
発令された当時、鎌倉幕府に仕える御家人たちの生活は困窮していました。
その背景として元寇が挙げられます。
モンゴル軍が日本に侵攻してきた元寇において、多くの御家人たちは国から土地を担保とし借金をしていました。
御家人たちは元寇の戦費に充てるため国から借金をしていたのです。
多くの御家人が国から借金をしてまで資金を戦費に充てたのは、元寇後の恩賞を期待していたからです。
しかし、元寇後、国の資金はすでに底をついており、御家人たちに恩賞を与える余裕などありませんでした。
つまり、借金をした御家人からすると、必死でモンゴル軍から日本を防衛したにも関わらず、恩賞は与えられず、借金が残ってしまった。そのうえ、国に担保として貸した土地は返却されず。といったものでした。
そこで、貞時はこのような御家人を救済するために、御家人たちの借金をチャラにするといった「永仁の徳政令」を発布したのです。
借金がチャラにされるなんて夢のような政策でしたが、借金がチャラになったとしても、所得が増える訳でもなかったため、結局、御家人たちは生活費のため借金をせざる負えませんでした。
しかし、借金をチャラにするといった「永仁の徳政令」があるために、金を貸す側は謝金がチャラになることを恐れ、御家人たちに金を貸すことを渋り始めました。
このように、金を貸したいが「永仁の徳政令」があるために貸すことのできない貸し手、借金をしたくても「永仁の徳政令」があるために金を貸してもらえない御家人が誕生します。
つまり「永仁の徳政令」という政策は、借金をチャラにできる夢のような政策でしたが、結局は御家人の窮乏を招くこととなり、江戸時代に徳川綱吉によって発布された「生類憐みの令」と同様、悪法と評されることとなります。
貞時の晩年
自身の発布した「永仁の徳政令」が、かえって御家人の窮乏を招く結果となっていたのを知っていたのかは分かりませんが、貞時は正安3年(1301年)凶兆とされるハレー彗星が
飛来したのを機に出家し、執権職を従兄弟・北条師時に譲りました。
しかし、出家後も貞時は幕府内において権力を持ち続け、政治力を保ち続けます。
嘉元3年(1305年)4月22日、鎌倉にあった貞時の屋敷が焼失したため北条師時の屋敷に移ります。
その翌日、北条家に仕える御内人のトップである内管領・北条宗方によって連署・北条時村が殺害されるといった事件が発生します。
連署・北条時村は内管領・北条宗方によって殺害されたのですが、内管領・北条宗方は貞時に殺害を命じられたため、殺害したと述べていました。
しかし、貞時は内管領・北条宗方にそのような命令をした覚えはありません。
そのため貞時は、北条宗方の陰謀として
- 北条宗方
- 宗方の与党
を誅殺しました。
この事件は嘉元の乱と呼ばれています。
その後、徳治3年(1308年)8月4日になると守邦親王が擁立され、守邦親王は鎌倉幕府9代征夷大将軍となりました。
しかし、第9代鎌倉幕府征夷大将軍となった守邦親王は政治に関心を持たず和歌に専念していた人物であったため、貞時は世代交代を意識し始め、まだ幼い自身の息子・高時の将来を心配し、高時の後ろ盾として
- 長崎円喜
- 安達時顕
を登用します。
我が子の将来を案じ、補佐役となる有力御家人を後ろ盾としたわけです。
こうして貞時の息子・高時は延慶2年(1309年)1月に6歳で元服を迎えました。
しかし、高時が元服を迎えた頃から貞時は酒に溺れるようになり、政務も行わず、御内人の平政連から書面で注意されますが、注意されても貞時は改善しようとはしませんでした。
このように酒におぼれ政務を行わなかった貞時でしたが、それでも
- 御内人・外戚の安達氏
- 北条氏庶家
などの寄合によって幕府は機能していたとされています。
こうして貞時は応長元年(1311年)10月26日、41歳で亡くなりました。
貞時は息を引き取る前、長崎円喜と安達時顕を呼び寄せ、自身の息子・高時の補佐を頼むと述べたとされ、最期まで息子の将来を案じていました。
そんな貞時の息子・高時は貞時亡きあと鎌倉幕府第14代執権となるも、政治的な主導権を発揮する機会与えられず、元弘3年(1333年)におきた元弘の乱によって鎌倉幕府は滅亡となりました。
まとめ 北条貞時のドラマや映画や小説はある?
北条時貞の生い立ちや経歴、「永仁の徳政令」の政治結果や平頼綱との関係性についてご紹介いたしました。
簡単にまとめると
- 父は北条時宗
- 13歳にして鎌倉幕府第9代執権となる
- 鎌倉大地震に乗じて平頼綱を滅ぼす
- 「永仁の徳政令」を発布するも、かえって御家人の窮乏を招く
- 晩年は、酒におぼれる
北条貞時は、北条時宗の息子であり鎌倉幕府第9代執権となった人物でした。
元寇の後、御家人の救済のために、これまで借りていた借金をチャラにするといった「永仁の徳政令」を発布するも、かえって御家人の窮乏を招く結果となり、「生類憐みの令」と並び悪法と評価されることとなりました。
そんな北条貞時が登場する有名なドラマはNHK大河ドラマ「北条時宗」です。
この作品において
- 北条貞時を俳優の佐保祐樹さん
- 北条時宗を狂言師の和泉元彌さん
- 北条高時を俳優の浅利陽介さん
- 安達泰盛を俳優の柳葉敏郎さん
- 平頼綱を俳優の北村一輝さん
が演じられました。
主人公として貞時が登場する小説はありませんでしたが、
- 向田雅さんの『がんばりきれなかった得宗様』
- 奥富敬之さんの『鎌倉北条氏の興亡』
- 山野龍太郎さんの「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」
を読むと北条貞時について詳しく知ることができます。
これを機に北条貞時に興味を持った方は大河ドラマ「北条時宗」や向田雅さんの『がんばりきれなかった得宗様』奥富敬之さんの『鎌倉北条氏の興亡』などを手に取ってみてください。
以上「北条貞時の経歴と永仁の徳政令の政治結果を簡単に。平頼綱との関係」のご紹介でした。
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