保元の乱の背景と勝敗結果の歴史的意義を簡単に説明。年号やメンバー、どこで起きたか覚え方も分かりやすく解説

あなたは、平安時代末期におきた保元の乱をご存知でしょうか。

保元の乱とは平安時代末期、朝廷内が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し武力闘争に発展した政変です。

後白河天皇と崇徳上皇の後継者争いだけではなく、摂関家の内紛も入り混じり、非常に複雑な争いとなりました。

 

そんな保元の乱の

  • 時代背景
  • 勝敗結果
  • 歴史的意義
  • 年号
  • メンバー
  • 語呂合わせ

についてわかりやすくご紹介いたします。

 

これを読めば保元の乱の時代背景や勝敗結果、年号やメンバーなどについて知る事ができますよ。

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保元の乱の背景、どこで起きたのか、勝敗結果は?

保元の乱とは、平安時代末期にあたる保元元年(1156)7月におきた争いです。

 

後白河天皇方と崇徳上皇方、2つに朝廷内が分かれ対立が起きました。

 

戦いの舞台は、平安京内です。

 

この保元の乱は結果、後白河天皇方の勝利、崇徳上皇方の敗北に終わりました。

保元の乱の歴史的意義を簡単に説明

保元の乱が起きた時代背景

保元の乱が勃発する約20年前の保安4年(1123年)1月28日、当時の天皇である鳥羽天皇が息子の崇徳天皇に譲位し、わずか5歳で崇徳天皇が即位しました。

 

この崇徳天皇とは後に起こる保元の乱の主役となる人物です。

 

崇徳天皇は

  • 父・鳥羽天皇
  • 母・藤原璋子

の第一皇子として誕生しました。

 

弟には雅仁親王(後の後白河天皇)という人物がおり、後に崇徳天皇と対立するようになります。

 

崇徳天皇は鳥羽天皇を父親に持ちましたが、崇徳天皇は鳥羽天皇の息子ではなく、白河法皇と藤原璋子の息子であるという噂が流れていました。

 

この白河法皇とは鳥羽天皇の祖父にあたる人物です。

 

崇徳天皇が白河法皇と藤原璋子の息子であるという証拠はありませんでしたが、藤原璋子は入内する前から白河法皇と男女関係を持っていたため、周囲は、崇徳天皇は白河法皇の息子であると気づいていました。

 

そのため、父・鳥羽上皇は崇徳天皇を我が子と認めず、崇徳天皇に対し愛情を与えず、冷たい態度を取るようになります。

 

このような経緯もあった崇徳天皇は、まだ幼かったため、祖父・白河法皇が院政を行っていました。

 

鳥羽上皇による院政が開始される

しかし、院政を行っていた祖父・白河法皇が大治4年(1129年)7月7日に崩御してしまったため、父親である鳥羽上皇が、院政を行うようになります。

 

院政を行うこととなった父・鳥羽上皇は

  • 崇徳天皇をより一層、孤立させる
  • 藤原得子(美福門院)を寵愛する
  • 亡き白河法皇が嫌っていた藤原忠実を関白に起用する
  • 関白に起用した藤原忠実の娘・藤原聖子を崇徳天皇の妃とさせる

など行いました。

 

院政を行っていた鳥羽上皇は藤原得子(美福門院)を寵愛すると、2人の間には保延5年(1139年)8月17日に体仁親王(のちの近衛天皇)が誕生します。

 

この時、崇徳天皇にも、妃・藤原聖子がいましたが、2人は子供に恵まれず、崇徳天皇に後継者は誕生しませんでした。

 

そのため、父・鳥羽上皇は寵愛する藤原得子(美福門院)との間に誕生した体仁親王(のちの近衛天皇)を自身の後継者とすべく崇徳天皇の養子にさせ、崇徳天皇に対し譲位を迫りました。

 

近衛天皇の即位

こうして崇徳天皇は父・鳥羽上皇の息子・体仁親王(のちの近衛天皇)を養子に迎えた後、永治元年(1141年)12月7日に譲位し、わずか3歳の体仁親王が即位しました。(近衛天皇)

 

この時まだ3歳であったとされる近衛天皇は幼すぎるため、政治を行うことはできません。

 

よって、近衛天皇を皇太子として養子に迎えた崇徳上皇が、院政を本来なら行うことができました。

 

しかし、鳥羽法皇は、近衛天皇を崇徳上皇の養子とさせる際、譲位の宣命に「皇太子」ではなく「皇太弟」と記されていました。

 

本来、院政を行うことができるのは直系尊属である上皇が行うことができました。

 

しかし、崇徳上皇の場合、譲位の宣命には「皇太弟」と記され、近衛天皇の兄という扱いになったため、院政を行うことができませんでした。

 

こうして再び、鳥羽法皇が近衛天皇の院政を行うことなったのです。

 

このようなこともあり、実権無き上皇となった崇徳上皇は不満を抱き始めるようになります。

摂関家の内紛

この頃、天皇家だけではなく、摂関家も内紛が起こっていました。

 

摂関家とは、摂政・関白を行うことができる家柄のことを指します。

 

摂政とは幼い天皇に代わり政務を行うことができる役職、関白とは天皇のサポートを行う役職です。

 

これまで、摂関家は天皇家と婚姻関係を結び、深い関係を築いていました。

 

しかし、崇徳天皇が誕生する前、第71代天皇・後三条天皇(治暦4年(1068)から延久4年(1073)まで在位)は摂関家を外戚とせず、摂関家を頼らず天皇や上皇だけで、政務を行っていました。

 

これ以降、摂関家は力を弱めることとなり、白河法皇が院政を行っていた頃も、摂関家は脚光を浴びない存在となっていました。

 

しかし、そんな摂関にチャンスが訪れます。

 

それは、摂関家出身で、藤原忠実の娘・泰子(高陽院)が鳥羽法皇の妃となったことでした。

 

法皇の妃となることで、摂関系は息を吹き返すことができたのです。

 

これで摂関家は再び表舞台に立つことができるようになりましたが、ここで後継者争いが勃発します。

 

それは当時の関白である藤原忠通と、その養子・藤原頼長との間で起きた対立でした。

 

もともと関白・藤原忠通は世継ぎとなる男の子に恵まれず、仕方なく異母弟・藤原頼長を養子として迎えていました。

 

しかし、康治2年(1143)藤原忠通の妻の間に待望の男子である基実が誕生し、世継ぎとなる息子の誕生に喜んだ藤原忠通は我が子を後継者としました。

 

すると、これに対し、本来後継者となるべく養子に迎えられていた藤原頼長が激怒し、藤原忠通と藤原頼長は対立するようになりました。

 

このように朝廷での後継者争い、摂関家の内紛が同時期に発生していたのです。

 

ますます、藤原忠通と藤原頼長の関係は悪化

永治元年(1141)12月7日に即位した近衛天皇が、久安6年(1150)正月4日に元服を迎えます。

 

近衛天皇は幼いころから体が弱く、元服を迎えても病状は悪化する一方でした。

 

そのため、周囲はまだ子供のいない近衛天皇の後継者を心配するようになり、近衛天皇の妃選びが行われます。

 

そこで、

 

  • 藤原頼長は養女・多子を
  • 関白・藤原忠通は養女・呈子を

 

天皇家との関わりを深めるため、近衛天皇の妃として入内させました。

 

以前から後継者問題で争っていた両者はますます対立関係となりましたが、鳥羽法皇は解決策として、まず藤原頼長は養女・多子を久安6年(1150年)1月19日に近衛天皇の皇后として、2月になると関白・藤原忠通は養女・呈子も入内し中宮となりました。

 

こうして、多子が近衛天皇の皇后、呈子が近衛天皇の中宮として入内することとなり、藤原忠通と藤原頼長は対立は収まるかと思われましたが、この頃には既に両者、修復不可能な関係にまで発展しており、久安六年(1150)9月には藤原頼長に味方していた2人の父・藤原忠実が藤原忠通の所業を腹に据え、藤原忠通の屋敷にある藤氏長者家伝の宝物・朱器台盤を奪い、その朱器台盤を藤原頼長に与え、そればかりか、藤原忠通と親子の縁を切るといった事態まで発展しました。

 

鳥羽法皇はこれらの事件を収束させるため、藤原忠通を関白に留任、藤原頼長は内覧と下し対処します。

 

関白とは天皇の補佐的な役割の役職でしたが、内覧も似たような役職でした。

 

そのため、これまで関白と内覧は同時に設置されることはありませんでしたが、今回は特別に同時に設置されることとなったのです。

 

摂関家の内紛を簡単にまとめると、藤原忠通(兄)VS藤原忠実(父)・藤原頼長(弟)ということとなります。

 

近衛天皇の崩御と、後継者争い

このように藤原忠通と藤原頼長が対立する中、仁平3年(1153)に近衛天皇が重病に陥り、病に臥せます。

 

この時、近衛天皇は2人の妻を迎えていましたが、子供は恵まれず、後継者問題が再浮上しました。

 

近衛天皇の後継者として候補にあげられていたのは

 

  • 崇徳上皇の第一皇子・重仁親王
  • 近衛天皇の兄である雅仁親王(後の後白河天皇)の皇子・守仁親王

 

でした。

 

崇徳上皇はこれまで父親である鳥羽法皇から無理矢理譲位させられ、院政も行うことができなかった苦い経験があります。

 

そのため、院政を行うには、ここはなんとしてでも、自身の息子・重仁親王が次期天皇に選ばれなくてはなりませんでした。

 

しかし、崇徳上皇の願いはかなわず、次期天皇に指名されたのは雅仁親王(後の後白河天皇)の皇子・守仁親王でした。

 

こうして久寿2年(1155年)7月23日、近衛天皇は17歳で崩御し、守仁親王が即位することとなりましたが守仁親王はこの時、まだ幼く、父親である雅仁親王(後の後白河天皇)も健在であったため、雅仁親王(後の後白河天皇)が守仁親王が元服を迎えるまでの中継ぎ天皇として久寿2年(1155年)8月13日、29歳で即位します。(後白河天皇)

 

近衛天皇は病によって崩御したのですが、朝廷内では藤原忠実・頼長が呪詛したため崩御したという噂が流れいました。

 

そのため藤原忠実・頼長は失脚されることとなります。

 

院政を行うことができなかった崇徳天皇からすると、これまで

  • 父・鳥羽法皇に無理やり譲位させられ、実権無き上皇となった
  • 弟にあたる近衛天皇が即位するも、院政は行えなかった
  • 近衛天皇亡き後、自身の皇子・重仁親王が次期天皇候補となるも選ばれず、弟・後白河天皇が即位し、皇位継承は絶望的となった

このような経緯があり、院政も行えず、何1つ思い通りに事は運びませんでした。

 

こうして、弟・後白河天皇が即位し、父親である鳥羽法皇が院政を行いました。

 

鳥羽法皇にとって

  • 崇徳天皇の院政
  • 近衛天皇の院政
  • 後白河天皇の院政

3度目の院政となります。

 

鳥羽法皇の崩御

しかし、新体制の基礎が固まらない中、鳥羽法皇は保元元年(1156年)5月、病に倒れ、7月には危篤状態となりました。

 

この知らせを聞いた崇徳上皇は、これまで愛情を注いでくれなかった父・鳥羽法皇の見舞いに向かいましたが、対面を許してもらえず、憤慨して屋敷へ戻ったとされています。

 

こうして鳥羽法皇は7月2日に亡くなりました。

 

鳥羽法皇は生前から、自身の息子である崇徳天皇には絶対に自身の遺体を見せるな。と側近に忠告していたとされ、崇徳天皇を我が子と頑固として認めず、生涯、崇徳天皇に対し愛情を注ぐことはありませんでした。

 

この頃になると

 

  • 何もかも思い通りにいかない崇徳上皇
  • 失脚させられた藤原忠実・頼長親子

 

が手を取り合っていました。

 

崇徳上皇の悪い噂

鳥羽法皇が崩御して間もなく「崇徳天皇が藤原忠実・頼長とともに、国家に反乱を企てようとしている」といった噂が流れます。

 

この他の噂に対し崇徳上皇は軍事的な対処を取ろうとしますが、後白河天皇は藤原忠実・頼長に対し、荘園から兵を集めることを禁じ、また謀反の疑いとして財産没収の刑を藤原頼長に与えました。

 

朝廷の動きに命の危機を感じた崇徳上皇は自身の屋敷である鳥羽田中殿を保元元年(1156)7月9日夜中に抜け出し、妹・統子内親王の御所へと身を隠します

 

この御所は洛東白河にあったとされています。

 

洛東白河は洛中に近く軍事には不向きな場所でした。

 

しかし、南には平家の本拠地である六波羅があり、崇徳上皇は新たな治天の君になることを宣言し、北面武士であった平清盛や、平家一門、どっちつかずの貴族たちを味方にしようと期待していたとされています

 

保元の乱の年号やメンバーの分かりやすい覚え方は?

翌日の10日になると、崇徳上皇の元に

  • 藤原頼長
  • 側近の藤原教長
  • 藤原盛憲・経憲兄弟
  • 平家弘
  • 源為国
  • 源為義
  • 平忠正(清盛の叔父)
  • 源頼憲

などが集結しました。

 

しかし、後白河天皇方に比べ兵の数は少なく、戦う前から勝敗は見えていました。

 

こうして崇徳上皇らは軍議を開き、夜襲を計画します。

 

この崇徳上皇方の動きをみて後白河天皇方も

  • 藤原忠通
  • 源義朝
  • 平清盛
  • 源頼政
  • 源義康
  • 源重成
  • 平信兼
  • 信西

らを招集し出撃の準備に備えました。

 

こうして保元元年(1156年)7月11日午前4時頃、戦闘の火蓋が切られ、保元の乱が勃発しました。

 

保元の乱は保元元年(1156年)7月に起こった政変です。

 

「人々殺(1156)しあい、保元の乱」という語呂合わせが覚えやすいかもしれません。

 

この戦いに様子は『保元物語』に詳しく記され、それによると、崇徳上皇方の源為朝が得意の強弓で活躍を見せ、清盛軍、義朝軍は一時撤退を余儀なくされたと記されています。

 

押され気味であった後白河天皇方は頼政・重成・信兼の軍を投入すると、崇徳上皇方の本陣である白河北殿の西隣にある藤原家成邸に火を放ったとされています。

 

これにより、白河北殿にも火が移り、崇徳上皇方は総崩れとなり、崇徳上皇と藤原頼道は行方をくらまし、こうして保元の乱は後白河天皇の勝利、崇徳上皇の敗北に終わりました。

 

崇徳上皇と藤原頼道のその後

行方をくらませた崇徳上皇はその後、讃岐国へと配流され、配流先で長寛2年(1164)9月14日に崩御します。

 

しかし、崇徳上皇亡き後、朝廷では後白河天皇や藤原忠通に近い人物が相次いで亡くなり、また疫病の流行や政変などが相次いで起きたため、崇徳上皇の怨霊として恐れられることとなりました。

 

また行方をくらませていた藤原頼道は怪我を負いながら南都(現在の奈良)まで落ち延びたとされ、南都で亡くなりました。

 

まとめ 保元の乱を描いたドラマや映画や小説はある?

保元・平治の乱合戦図屏風絵
By ? – 『保元・平治の乱合戦図屏風』 メトロポリタン美術館所蔵(The Battles of Hogen and Heiji), パブリック・ドメイン, Link

保元の乱の時代背景や勝敗結果、年号やメンバー、語呂合わせについてご紹介いたしました

 

簡単にまとめると、保元の乱は

  • 平安時代末期、保元元年(1156年)7月に勃発した戦い
  • 後白河天皇方と崇徳上皇方が戦った
  • 後白河天皇方の勝利、崇徳上皇の敗北
  • 覚えやすいゴロ合わせは「人々殺(1156)しあい、保元の乱」

 

保元の乱は平安時代末期に起きた、後白河天皇方と崇徳上皇方の争いでした。

敗北した崇徳上皇はその後、怨霊と恐れられ、日本三大怨霊の1人として今でも恐れられることとなります。

天皇の後継者をめぐる対立と、摂関家の内紛は、結局平家や源氏といった武士の力を頼りに軍事的解決が行われました。

保元の乱の後も平治の乱が勃発し、この戦いにおいても武士による軍事的解決が行われることとなり、武士政権が続いていくこととなります。

 

そんな保元の乱が登場する有名な大河ドラマは「平清盛」です。

この作品では

  • 後白河天皇を俳優の松田翔太さん
  • 崇徳天皇を俳優の井浦新さん
  • 鳥羽天皇を俳優の三上博史さん
  • 近衛天皇を俳優の北村匠海さん

が演じられています。

 

また

 

  • 元木泰雄さんの小説「保元・平治の乱: 平清盛勝利への道」
  • 河内祥輔さんの小説「保元の乱・平治の乱」

 

に保元の乱について詳しく記されています。

 

これを機に保元の乱に興味を持った方は、大河ドラマ「平清盛」書籍「保元・平治の乱: 平清盛勝利への道」「保元の乱・平治の乱」を見てみてください。

 

以上「保元の乱の背景と勝敗結果の歴史的意義を簡単に説明。年号やメンバー、どこで起きたか、覚えやすい語呂合わせ」についてのご紹介でした。

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