「島津四兄弟」の中でも特に有名なのが島津義弘です。
島津義弘は多くの戦で名を残し、「鬼島津」と呼ばれ恐れられました。
島津義弘のどこが強いのか?
今回は島津義弘について
- 島津義弘の代表的な戦とは
- 【逸話】島津義弘の勝ち戦と負け戦は?
- 【最強伝説】島津義弘の強さはどれくらい?
を紹介します。
こちらを読めば島津義弘の戦や戦い方がわかりますよ。
ぜひ読んでみてください。
島津義弘の代表的な戦いとは
「鬼島津」と呼ばれるようになった泗川の戦いについて紹介します。
慶長3年10月1日(1598年10月30日)、島津義弘が率いる日本軍と董一元が率いる明・朝鮮連合軍との間で起こった戦いです。
慶長2年(1597年)1月、豊臣秀吉が朝鮮出兵(慶長の役)を開始し島津義弘も朝鮮へ出陣します。
島津義弘は同年7月の漆川梁海戦・8月の南原城の戦いに参戦し日本軍を勝利に導きます。
そして同年10月には泗川(現在の韓国慶尚南道南部ある港湾都市)の守備につきます。
しかし、慶長3年8月に豊臣秀吉が亡くなると明・朝鮮連合軍が反撃に出てきます。
- 明・朝鮮連合軍は順天倭城(小西軍、現在の韓国順天市)・泗川倭城(島津軍)・蔚山倭城(加藤軍、現在の韓国蔚山広域市)を同時に攻撃します。
- 島津軍がいた泗川倭城は中間に位置していたため、ここを落とされると東(蔚山)と西(順天)の連絡手段が遮断されることになります。
- 泗川倭城に攻めてきたのは明の将軍・董一元でした。
両軍の兵力は
- 島津軍が7千人
- 連合軍が3万人(一説には20万人)
泗川倭城は古城と新城がありましたが、島津義弘は敵軍の動きを察知すると全軍に新城に撤退するように命令し古城を放棄します。
慶長3年10月1日に明軍が総攻撃を仕掛けてきます。
この戦いで兵力が少ない島津軍は
- 伏兵の配置
- 鉄砲を大量に使用
- 地雷の設置
- 大砲に鉄片や鉄釘を装填
など守備に徹底した作戦をとります。
敵が押し寄せてくると鉄砲と大砲を一斉に撃ち後方から伏兵が攻撃したことで連合軍は混乱します。
- この戦術は島津家がお得意の「釣り野伏」です。
- さらに、連合軍の火薬庫を爆発させると、島津義弘自ら出陣し敵を総崩れさせます。
- 島津軍の犠牲者は一説によると2人といわれ、敵には7千以上(諸説あり)の死傷者を出させました。
この戦いで島津義弘は、敵から「鬼石曼子(グイシーマンズ)」=「鬼島津」として呼ばれるようになりました。
【逸話】島津義弘の勝ち戦と負け戦は?
島津義弘の勝ち戦:木崎原の戦い
元亀3年5月4日(1572年6月14日)、日向国真幸院(まさきいん)木崎原(現在の宮崎県えびの市)で行われた島津義弘と伊東義祐の戦いです。
別名「九州の桶狭間」とも言われています。
両軍の兵力は
- 島津軍が300人
- 伊東軍が3000人
と島津軍は圧倒的に劣勢でした。
この戦いが起こる1年前の元亀2年、島津家の当主・島津貴久が亡くなります。
- すると、大隅国の肝付氏が島津領に侵攻したため、伊東義祐も好機と判断し真幸院を支配するために島津領の飯野へ侵攻してきます。
- 島津軍はこの戦いで「釣り野伏せ」という戦術をつかいました。
- これは中央の部隊が退却して、追ってきた敵を左右に潜んでいた伏兵が攻撃するものです。
少数の兵力で多数の敵を倒すのに最適とされています。
島津義弘は自ら中央の部隊を率い敵軍に突撃します。
一時は退却しますが、敵の側面や背後から伏兵が攻撃を開始したため、伊東軍は総崩れし、退却します。
- 島津軍は全兵力の8割を失いますが、伊東軍の総大将・伊東祐安(伊東義祐の従弟)をはじめ将兵合わせて800人が戦死しました。
- この戦の結果、伊東氏を衰退させ島津氏は日向国を支配下に置くこととなります。
- 島津家は亡き先代当主・島津貴久の夢であった薩摩国・大隅国・日向国の三州を領土とすることに成功しました。
島津義弘の負け戦:関ヶ原の戦い「島津の退き口」
慶長3年8月18日(1537年3月17日)に豊臣秀吉が亡くなると、
豊臣政権は豊臣秀頼を支える形で五大老(徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多広家)が政治を指揮していきます。
しかし、次第に徳川家康が政権を掌握していきます。
そして、慶長5年9月15日(1600年10月21日)、徳川家康(東軍)と石田三成(西軍)との間で関ヶ原の戦いが起こります。
- この状況のなか島津義弘は西軍として参戦します。
- この時の島津義弘の兵力は1500人しかいませんでした。
- 元々島津義弘は東軍として参戦するつもりでしたが、
- 徳川家康の家臣・鳥居元忠(伏見城城主)から入城を拒否されたため西軍へ参加します。
西軍へ参加したものの兵力が少ないなどを理由に石田三成から軽視されます。
戦いは小早川秀秋の寝返りによって西軍は敗北してしまいます。
西軍は総崩れとなり多くの将兵が逃亡する中、島津隊は退路を遮断され孤立していまいます。
島津義弘は敵中突破を決め(兵約300)、
- 先陣を島津豊久(甥)、
- 右備を山田隊、
- 本陣を義弘自身が努め、
東軍の前衛部隊(福島正則隊)に突撃します。
島津義弘は徳川家康のいる本陣まで迫ったところで方向を変え南下し西へ撤退します。
しかし、島津隊の撤退に対して、徳川家康の家臣・井伊直政や本多忠勝が追撃してきます。
- この撤退戦で島津隊は「捨て奸(すてがまり)」という戦法を使います。
- 「捨て奸」とは数人が敵を足止めし死ぬまで戦い、それが全滅するとまた新しい隊を出し足止めするという戦法です。
- この結果、甥の島津豊久をはじめ多くの将兵が戦死しましたが、
- 井伊直政を負傷させる(2年後にこの時の古傷で亡くなります)など敵にも大きな被害を与えました。
島津義弘は関ヶ原の戦いの70日後に薩摩へ帰還しました。
生きて戻ったのはわずか80人だったと言われています。
この撤退戦を「島津の退き口」といい島津の名を全国に轟かせました。
【最強伝説】島津義弘の強さはどれくらい?
島津義弘の強さ1.「日新公いろは歌」
「日新公いろは歌」とは島津義弘の祖父・島津忠良(号:日新斎)が5年ほどかけて作った歌(全部で47首)で
薩摩の人達の基礎的な心構えを示したものです。
また、江戸時代に入ると薩摩藩の『郷中教育』の基本書となります。
この歌は島津義弘にも大きな影響を与えることになります。
島津義弘は祖父から「雄武英略をもって他に傑出する」と評されており、慶長4年(1599年)に入道すると祖父にあやかり「惟新斎」と号します。
島津義弘の強さ2.家臣との信頼関係
島津義弘は家臣や兵士との信頼関係を大事にしていました。
- 兵士と一緒に囲炉裏で暖をとった
- 家臣に子どもが生まれると「子は宝なり」と言い喜んだ
- 若者の父の手柄が良くても悪くても平等に接した
これらの島津義弘の言動は家臣や兵士との信頼関係を築き、
戦いの時には統率がしやすくなり「釣り野伏」や「捨て奸」ができるようになったことが、島津軍の強さに繋がることになります。
島津義弘の強さ3.負け戦こそ敵にインパクトを与える
島津義弘は関ヶ原の戦いで西軍が総崩れとなると敵中突破をします。
- この敵中突破では徳川家康の本陣目前まで迫ります。
- また、「島津の退き口」での撤退戦は徳川家康に大きな衝撃を与えます(重臣・井伊直政や本多忠勝の追撃を振り切った)。
- 『関原御合戦進退秘訣』には徳川家康が「島津は西国いちの強敵であり、早く討て」と井伊・本多に命令したと書かれています。
合戦後、徳川家康は島津を討伐するために島津領を包囲しますが、
島津兄弟(義久・義弘)の巧みな外交手段によって、結局島津氏は本領を安堵されることになります。
ちなみに、西軍の中で本領安堵されたのは唯一島津家だけでした。
まとめ 島津義弘のおすすめ作品や本。大河ドラマ
ここまで島津義弘について紹介してきましたがいかがでしたか。
まとめてみると
- 島津義弘は少ない兵でも高い統率力で戦った
- 島津義弘は家臣との関係を大事にした
- 島津義弘は負け戦こそ先を考え戦った
最後に、徳川家康は亡くなる直前、遺言で「遺体は西向きに立ち姿のままで葬れ」と言ったといわれています。
これは西の大名(豊臣恩顧の大名:島津家や毛利家など)が反乱を起こさないよう睨みをきかせるためだと言われています。
しかし、徳川家康の死から約250年後に江戸幕府は滅びます。
その直接の原因は薩摩藩、そこは島津家が藩主を務めているところでした。
作品
大河ドラマはないです。
- 本は戦国歴史研究会の『島津義弘ー慈悲深き鬼(戦国闘将伝)』
がオススメです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
以上、「島津義弘の強さはどれくらいすごい?最強の伝説や逸話とは」でした。
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