戦国武将の中で一番有名な武将といったら織田信長でしょう。
織田軍の兵士は「尾張兵3人に三河兵1人」とたとえられるほど弱かったといわれています。
では、なぜ織田信長は天下統一目前まで行けたのでしょうか?
今回は織田信長について
- 織田信長の代表的な戦とは
- 【逸話】織田信長の勝ち戦と負け戦は?
- 【最強伝説】織田信長の強さはどれくらい?
を紹介します。
こちらを読めば織田信長の戦や戦い方がわかりますよ。
是非読んでみてください。
織田信長の代表的な戦とは
今回は織田信長を有名にした桶狭間の戦いについて紹介します。
桶狭間の戦いは、永禄3年5月19日(1560年6月12日)に織田信長と今川義元の間で起こった戦いです。
兵力は
- 織田軍が約3千人から5千人
- 今川軍が約2万5千人から4万5千人(諸説あり)
この戦いは多くの人が知っているように、兵力で劣る織田信長が油断している今川義元を奇襲し織田軍が勝ったというように伝えられています。
- しかし、現在では「織田信長の奇襲」は賛否両論あり、一次史料とされてきた『信長公記』には奇襲作戦のことは書かれておらず、「正面攻撃を仕掛けた」と書かれています。
- 奇襲作戦は『信長公記』を元に江戸時代の儒学者・小瀬甫庵が書いた『信長記』に出てきます。
- ここからは『信長公記』書いてあることをもとに書きます。
この戦いで確かなのは兵力差から見たら織田軍は圧倒的に不利だったということです。
- では、なぜ織田信長は圧倒的不利の中で今川義元に勝てたのか?
- 理由はいくつか(天候など)ありますが、織田信長は各地にスパイを送り情報収集を徹底的に行ったといわれています。
- 織田信長が居城・清洲城から出陣したのは、明け方の4時頃で今川軍が丸根砦と鷲津砦に攻撃を開始した後でした。
そして、織田信長は午前10時頃に善照寺砦まで進軍します。
一方、今川軍本隊は午前8時頃に沓掛城から出陣し西に向かい桶狭間山というところに着陣します。
- 今川義元は進軍途中に織田方の砦を次々と落としているという知らせを受けて機嫌が良かったと考えられています。
- また、今川軍本隊が着陣した桶狭間山からは織田軍の動きが見えていたといわれています。
- しかし、このときの今川軍は織田方の砦をそれぞれ攻撃していたため、今川軍本隊は5千程しかいませんでした。
そして午後1時を過ぎた頃に雨が降り始めたため、織田信長は善照寺から約2千人を率いて出陣します。
織田信長は雨の中、スパイの情報をもとに敵軍の横から攻撃を仕掛けます。
- この時、織田信長は今川軍の本隊と思って攻撃したのではないと『信長公記』では書かれており、「敵が攻めてきたら退き、敵が退いたら攻めろ」と織田信長は命令しています。
- ところが、織田軍が攻め込んだ後に今川軍の本陣だとわかったため、織田信長は「これを討て」と改めて命令します。
- そして、今川軍が混乱しているところを毛利良勝が今川義元の首を取り織田軍が勝利しました。
このように実際の桶狭間の戦いは(『信長公記』より」
- 多くの砦を築き敵を分散させる
- 多くのスパイを放ち情報収集する
- 天候の影響
- たまたま今川本隊に攻撃していた
という条件が重なり織田信長が勝てたといっていいのではないでしょうか。
【逸話】織田信長の勝ち戦と負け戦は?
織田信長の勝ち戦:長篠の戦い
天正3年5月21日(1575年6月29日)に織田・徳川連合軍と武田軍との間で起こった戦いで、決戦地が設楽ヶ原だったため、長篠設楽ヶ原の戦いともいいます。
この戦いの兵力は
- 織田・徳川連合軍が約3万8千人
- 武田軍が約1万5千人
天正3年4月に武田勝頼が遠江と三河を掌握するために進軍し、5月には長篠城を包囲します。
織田信長は徳川家康からの援軍要請を受けて、5月12日に岐阜から出陣し5月18日に徳川軍と設楽ヶ原に着陣します。
一方、武田勝頼は織田・徳川連合軍の動きを見て、長篠城から寒狭川を渡り設楽ヶ原に着陣します。
そして、両軍は5月21日に激突します。
結果は多くの人が知っているとおり、武田騎馬隊が突撃し、それを織田信長が用意した3千丁の鉄砲(三段構え)によって壊滅させられ、織田・徳川連合軍が勝ったといわれています。
しかし、この戦いは多くの疑問が持たれています。
- 三段撃ちはできたのか
- 武田騎馬隊の突撃はあったのか
- 織田軍は真っ向からではなく籠城戦をした
まず三段撃ちを見てみると、当時、設楽ヶ原あたりは雨が降っており鉄砲を使える状況ではありませんでした。
また、鉄砲は3千丁ではなく千丁しかなっかたと言われています。
次に武田軍の騎馬
- ドラマなどではサラブレット(体高160cm、時速60km)を使っています
- が、当時の馬はポニーぐらいの大きさの馬(木曽馬 体高125cm、時速40km)でした。
- そのため、甲冑を着た武士を乗せて突撃したというのは無理があるといわれています。
しかし、足軽よりも機動力があったため敵は恐れてたのでしょう。
- 最後に織田信長は馬防柵以外にも土塁をつくり武田軍の動きを鈍らせます。
- また、砦を築きそこに兵を待機させ奇襲部隊を編成します。
- この奇襲部隊が長篠城包囲を監視する砦・鳶ヶ巣山砦を奇襲し落とします(長篠城救出と武田軍の退路の遮断)。
これにより武田軍を挟撃する形となり、織田軍は設楽ヶ原の決戦で勝利します。
この戦いで武田軍に1万人以上も死傷者を出させました。
織田信長の負け戦:金ケ崎の戦い
元亀元年(1570年)、織田・徳川連合軍と朝倉軍との戦いで、金ケ崎の退き口または金ケ崎崩れと呼ばれています。
永禄11年(1568年)に上洛した織田信長は全国の大名に京へ挨拶しに来るように命令を出します。
しかし、越前の朝倉義景は命令を聞かずにいました。
永禄13年4月、織田信長は越前へ出陣します。
- 織田軍は次々と朝倉方の拠点を落としていき金ケ崎城(福井県敦賀市)まで進軍します。
- しかし、織田信長の義弟・浅井長政の裏切りによって織田軍は挟撃される形となります。
- はじめは浅井長政の裏切りを信じませんでした
が、次々と入る知らせによって事実だと確信し撤退を始めます。
この撤退戦で活躍したのは家臣達でした。
- 特に殿軍に任命された羽柴秀吉は高い統率力で朝倉軍を迎え撃ちました。
- また、織田信長が敦賀から近江へ向う途中には、浅井家と縁がある朽木元綱の勢力圏を通らなければなりませんでした。
- この状況を打開したのが松永久秀(後に信長に敵対し茶器と爆死する)という人物です。
織田信長は多くの家臣達の活躍によって京へ退却することができました。
この時、織田信長の供は10人程度だったといわれています。
最後に、この戦いは織田信長以外に
- 羽柴秀吉
- 明智光秀
- 徳川家康
といった武将がいました。
もし、この武将達がここで全員死んでいたらと考えると面白いかもしれませんね。
【最強伝説】織田信長の強さはどれくらい?
織田信長の強さ1.兵農分離
兵農分離とは字の通り兵士と農民に分けるということです。
以前までの兵士は半農半兵で農業をしながらその間に合戦に出るというのが普通でした。
そこで織田信長は家を継げない次男や三男を金で雇い専属兵士にします。
このおかげで織田軍は一年中合戦ができるようになりました。
織田信長の強さ2.鉄砲などの近代兵器の活用
織田信長といえば鉄砲を使った戦いでしょう。
当時、織田家以外にも鉄砲使っていた大名は多くいますが、鉄砲一丁は高額で大量には買えませんでした。
しかし、織田信長は豊富な資金源と鉄砲の生産地の確保(近江国国友)によって鉄砲を大量に獲得できました。
また、港町である堺を掌握して弾丸や火薬を入手するルートを確保したことも大きな要因となりました。
まとめ 織田信長のおすすめ作品や本。大河ドラマ
織田信長の強さはどれくらいすごいか、最強の伝説や逸話について紹介しました。
まとめてみると
- 織田信長は情報収集を徹底的に行った
- 織田信長は自軍の強さを把握し弱点を武装などで補った
- 織田信長は兵農分離で兵士を強化した
織田信長は戦以外にも楽市楽座という経済政策をし城下町を発展させました。
また、商人から税金を取らなかったともいわれています。
他にも、安土城を一般人に公開し拝観料をとり自ら城内を案内などもしました。
織田信長は頭がキレるアイディアマンだったのでしょう。
オススメ作品
大河ドラマは最近でいうと
- 『おんな城主 直虎』
- 『利家とまつ~加賀百万石物語』
>>「信長 KING OF ZIPANGU」(全話配信)を見る
本では神田千里さんが書いた『織田信長』がオススメです。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
以上、「織田信長の強さはどれくらいすごい?最強の伝説や逸話とは」でした。
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