好きな戦国武将は?と聞かれて必ずと言っていいほど1位に出てくるのが織田信長です。
織田信長と言えば天下統一を目前に、明智光秀の謀反によって亡くなってしまう武将です。
また、「第六天魔王」と呼ばれ、自分に反対する者は皆殺しにしてしまうという、残忍で冷酷なイメージがあります。
しかし、織田信長は日本の改革者でもあります。
では、実際はどういう人物だったのか?
今回は織田信長について
- 織田信長の生い立ちとは?
- 織田信長の経歴や強さは?
- 織田信長の人柄や性格の面白いエピソード
を紹介します。
こちらを読めば織田信長の性格や人柄がわかります。
ぜひ、読んでみてください。
織田信長の生い立ちとは?
天文3年(1534年)5月、尾張の戦国大名・織田信秀の嫡男として生まれます。
幼名は吉法師です。
天文15年(1546年)、吉法師は古渡城で元服し名を三郎信長に改名します。
また、翌年の天文16年には今川家との争いで初陣します。
天文17年(1548年)、父・織田信秀と対立していた美濃の斎藤道三と和睦すると、斎藤道三の娘・濃姫を正室に迎えます。
天文21年(1552年)3月、父・織田信秀の死によって織田家の当主となります。
織田信長の経歴や強さは?
弘治2年(1556年)4月、義理の父・斎藤道三が息子の斎藤義龍の謀反で敗死(長良川の戦い)すると、斎藤家との同盟が破綻します。
- また、信長の一番の味方であった斎藤道三が死ぬと、一部の家臣(柴田勝家など)が弟・織田信勝を当主に擁立するために挙兵します。
- 同年8月、織田信長と織田信勝が稲生で激突します(稲生の戦い)。
- 戦いは織田信長が勝ちましたが、母・土田御前の仲介で織田信勝と柴田勝家らを許します。
永禄元年(1558年)に織田信勝が再び謀反を企てますが、柴田勝家の密告によって事前に知ると、織田信勝を病と偽り清洲城に誘い出し殺害します。
永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いで今川義元を討ちます。
この戦いによって徳川家康が独立したため同盟を結びます。
永禄7年(1564年)、北近江の浅井長政と同盟を結びます。
この時、織田信長の妹・お市が浅井長政の正室になります。
永禄10年(1567年)、美濃の斎藤氏を滅ぼし美濃国を平定します。
また、甲斐国の武田信玄と同盟を結びます。
永禄11年(1568年)9月7日に足利将軍家の足利義昭を奉じて京に上洛を開始します。
上洛途中には
- 9月12日 南近江の六角氏の拠点・観音寺城を落とす
- 9月29日 勝竜寺城の岩成氏を降伏させる
- 9月30日 摂津の芥川山城から細川氏・三好氏を追い出す
- 10月2日 摂津の越水城から篠原氏を追い出す
など京都周辺を安定させます。
そして、足利義昭を第15代将軍に就かせます。
永禄12年(1569年)、将軍・足利義昭に対して『殿中御掟』を発令し認めさせます。
足利義昭の権力を制限するために出します。
元亀元年(1570年)4月、上洛命令に従わない朝倉氏を征伐するために越前へ出陣します。
- 進軍最中に同盟関係にあった浅井長政の裏切りよって挟撃されますが、
- 羽柴秀吉・徳川家康・明智光秀らの活躍でなんとか京へ逃れました(金ケ崎の戦い)。
- 同年6月には、浅井・朝倉連合軍を姉川の戦いで破ります。
元亀2年(1571年)9月、浅井家に味方した比叡山延暦寺を焼き討ちします。
この焼き討ちでは、僧兵・僧侶・女・子どもなど多くて4000人を殺したと言われています。
元亀3年(1572年)12月、武田信玄が上洛を開始し徳川領に攻めてきます。
織田信長は徳川軍に援軍を送りますが大敗します(三方ヶ原の戦い)。
元亀4年(1573年)7月、将軍・足利義昭が織田信長の身勝手な行動に不満を抱き、二条御所に立て籠もると、織田信長は直ちに出陣し足利義昭を追放します(室町幕府滅亡)。
天正元年(1573年)8月から9月にかけて朝倉家と浅井家を続けて滅ぼします。
天正2年(1574年)9月、元亀元年(1570年)から続いていた本願寺の蜂起(石山合戦)と伴って起きた長島一向一揆(本願寺門徒の蜂起)を鎮圧します。
天正3年(1575年)、長篠の戦いで武田勝頼に勝利します。
同年11月28日、家督を嫡男・信忠に譲ります。
しかし、政権や軍の指揮は信長自身が握っていました。
天正5年(1577年)11月、加賀南部へ侵攻してきた上杉謙信と戦い敗北します(手取川の戦い)。
天正6年(1578年)、織田信長は畿内から全国に軍を派兵します。
主な方面軍の将
- 柴田勝家 → 北陸方面
- 羽柴秀吉 → 中国方面
- 明智光秀 → 近畿方面
- 丹羽長秀 → 四国方面
- 滝川一益 → 対武田方面
天正7年(1579年)、安土城が完成しました。
天正10年(1582年)、昨年に開始した甲州征伐によって武田氏を滅ぼします。
同年6月2日、明智光秀の裏切りによって本能寺で自害します(本能寺の変)。享年49歳。
織田信長の人柄や性格の面白いエピソード
織田信長のエピソード1.短気で容赦しない
織田信長には「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」という詩から見れるように、攻撃的で残忍・冷酷なイメージがあります。
主な理由として
- 比叡山延暦寺の焼き討ち → 犠牲者は多くて4千人
- 長島一向一揆の弾圧 → 死傷者は約2万人以上
などが上げられます。
というように主に寺院や宗教に対しての残虐行為が目立ちます。
- しかし、当時の寺院というのは神聖な場所ではなく(全部の宗派がというわけではないです)、世俗化し腐敗していました。
- 織田信長としては寺院が本来の役割を忘れていることに不満を持っていた(大衆扇動する者へ)のではないでしょうか。
- また、失敗した部下へも厳しい処罰をしました。
織田信長のエピソード2.弱い者への思いやり
残忍で冷酷なイメージの織田信長ですが、弱い者への思いやりが見られる文書があります。
それが『信長公紀』の中にある『山中の猿燐憫の事』という話です。
- 織田信長が美濃と近江の国境にある山中(現在の関ヶ原町山中)を歩いていると、その道沿いに「山中の猿」と呼ばれる頑者(かたはもの、身体障害者)がいました。
- この山中の猿は乞食として暮らしていました。
- 織田信長はこの人を見るたびに哀れに思うようになり、山中村の人々を集め木綿20反を与えます。
この木綿を金に換えて「山中の猿」に小屋を建てろと命じました。
また、食べ物を分けるようにとも言いました。
織田信長のエピソード3.新しい文化を取り入れる
織田信長の政策の中で無視することができないのがキリスト教の保護でしょう。
織田信長が政権を掌握している間でも、日本は仏教の力が強かったですが、積極的にヨーロッパの文化を取り入れようとしました。
織田信長がキリスト教を取り入れようとした理由は
- 南蛮貿易でヨーロッパの技術や物の輸入
- 宣教師を連れてくる
- 一部の仏教への牽制(蜂起した一向宗など)
などです。
南蛮貿易では多くの物が日本に伝わってきました。
- 鉄砲
- 西洋の服(帽子・レザーマント・ブーツ)
- 油絵
- 地球儀
- 西洋楽器(オルガン・ヴィオラ)
キリスト教の伝来は織田信長の天下統一の夢を助けたとも言えます。
まとめ 織田信長はどんな人?分かりやすいおすすめ作品
ここまで織田信長について紹介してきましたがいかがでしたか
まとめてみると
- 織田信長は強者に厳しく弱者に優しかった
- 織田信長は敵対する者に容赦しない
- 織田信長は新しい物を積極的に取り入れた
織田信長は焼き討ちや敵の家族を皆殺しするなど、非常に冷酷で残忍な事をしましたが、このようなことは、戦国時代ではどこでも行われていたことで、織田信長だけが悪かったという事はないでしょう。
- 大事なのは新しい時代を築いていく中で、前の時代(室町幕府)からどのように改革していくかでしょう。
- 織田信長はキリスト教以外にも楽市楽座という経済政策をしました。
- この政策によって、商人が自由に商売できるようになりました
冷酷で残忍なイメージの織田信長ですが、実際は日本の歴史を変えた改革者でした。
オススメ作品
最近は織田信長が主役の大河ドラマはありませんが
- 『おんな城主 直虎』の市川海老蔵さん
- 『利家とまつ~加賀百万石物語』の反町隆史さんが演じた織田信長
はインパクトがありました。
>>「信長 KING OF ZIPANGU」(全話配信)を見る
本では、
- 神田千里さんが書いた『織田信長』
がオススメです。
最後まで読んでくださりありがとうございました。
以上、「織田信長の生い立ちと経歴は?性格やエピソードが面白い!」でした。
コメント