崇源院(お江)の生い立ちとエピソード。浅井家に生まれ、豊臣、徳川の御世に生きた波乱万丈の人生とは?

戦乱の世に戦場に咲く花のごとく現れた美しき浅井三姉妹。

浅井と織田の由緒ある武家の血を引いた彼女たちは、時代の波にもまれ、数奇な運命をたどります。

三姉妹の末娘お江は、不遇な娘時代を経て、江戸幕府の将軍御台所として混乱の世を力強く生き抜き、将軍生母そして天皇の外戚にまで登りつめ、一度は没落した浅井の血筋を今日まで残しました。

そんなお江の波乱に満ちた生涯と興味深いエピソードをご紹介します。

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生い立ち

崇源院ことお江は、北近江の大名・浅井長政の三女として領国の小谷で生まれます。 崇源院というのは亡くなった後の法名で、本来の名お江(小督と記した資料もある)もしくはお江与とされています。

母は織田信長の妹で、浅井長政の正室お市です。お市は長政との間に3人の娘を産みました。お江には、茶々と初という二人の姉がいます。

長姉茶々は豊臣秀吉の側室として鶴松・秀頼の2人の男児を産みます。次姉の初は浅井家の主君筋である京極家の当主京極高次に嫁ぎ、後の関ケ原合戦では豊臣側の姉と徳川側の妹の間を奔走し、両者の和睦のために活躍しました。

三姉妹の母お市は戦国一の美女として後世まで語り継がれ、三姉妹もその美貌を受け継いでいたと言われています。

美貌だけではなく、父方の浅井氏も母方の織田氏も由緒正しい大名家なので、お江達三姉妹は高貴な血筋も引いていました。

お江の生年についてはははっきりと分かっていません。徳川歴代将軍生母について書かれた『以貴小伝』に、1626年に54歳で亡くなっていると記述があることから、1573年生まれというのが定説になっています。

波乱の前半生

お江の人生は、誕生早々から波乱に富んでいました。世の中は血で血を洗う戦乱の時代。下剋上や天下統一を狙って親兄弟と争うことさえ珍しくない時代だったのです。

お江の誕生前から、父の長政と伯父の織田信長の間で対立が深まっていました。そのため、お江は生まれてすぐに戦の洗礼を受けることになったのです。

二度の落城と両親の死

1573年9月、信長に領国北近江へ攻め入られた長政は、籠城戦でなんとか信長の攻撃を食い止めようとしますが、敗北。居城の小谷城で自害し、城は落城します。

お市お江たち三姉妹は、焼け落ちる城から生き延び、信長を始めとした織田家の庇護のもとで暮らします。

1582年、本能寺の変で信長が亡くなると、清洲会議を経て母お市の再婚が決まります。相手は信長の重臣柴田勝家。これに伴い、お江達三姉妹もお市と共に勝家の城がある越前北ノ庄へ移ります。

しかし、北ノ庄城での暮らしは1年と続きませんでした。

秀吉と対立した勝家が賤ヶ岳の戦いで敗北北ノ庄城で自害し、城は落城します。母のお市も勝家と共に自害したため、お江はこの戦で母を喪いました。

当時お江はわずか11歳。生まれてから約10年ですでに二度の落城を経験し、両親を亡くしてしまったのです。

戦に翻弄された三度の結婚

母の死後、お江達三姉妹は、戦の勝者豊臣秀吉の保護下に入ります。

詳細な時期は不明ですが、1584年ごろ、お江は秀吉の養女となった上で最初の結婚をします。


  (お江の最初の夫佐治一成)

お江の最初の夫は、尾張大野城の城主佐治一成です。一成の母お犬が織田家出身で、お市と姉妹であることから、お江にとっては従兄弟になります。この結婚は、秀吉が佐治家配下の水軍を手に入れるためという説と、一成の主君である織田信雄が望んだためという説があります。

たった12歳で嫁いだお江ですが、結婚生活は長く続きませんでした。嫁いで間もない1584年の3月小牧・長久手の戦いが起こります。お江の養父秀吉と、従兄弟の織田信雄・徳川家康間で行われた戦いです。この戦いで、夫の一成が織田・徳川方についたことから秀吉の怒りを買い、一成は大野城を追放され、お江との離縁を言い渡されます。

戦国時代の結婚は、家同士のつながりを強固にするための政略結婚です。嫁ぐのも別れるのも実家や婚家の一存によるもので、女性の意志は関係ありませんでした。

お江が20歳前後の頃に秀吉の命で二度目の結婚をします。2番目の夫は、秀吉の甥で養子の一人である豊臣秀勝。この結婚は、秀吉の側室となった長姉の茶々が嫡男を産んだため、その後ろ盾を盤石にするための縁談だったと言われています。

秀勝との間には娘の完子(さだこ)授かったものの、嫁いで2か月も経たないうちに秀勝は朝鮮出兵に従軍し、戦地巨済島で戦死してしまいます。戦に翻弄され、秀吉の命じるまま2度嫁いだお江でしたが、ゆっくり家庭を築く間もなく2度の離別を味わいます。

現代女性なら、結婚相手と2度も離別すれば「結婚はもうこりごり」と独身を貫く人が多いでしょう。しかし、戦国時代の武家女性は「もう結婚は嫌」といって縁談を拒むことはできませんでした。なぜなら、結婚は家同士の同盟の証だからです。女性が嫁いで親戚関係にならなければ、先方からの援助を受けることができないのです。

命じられた縁談が嫌なら、出家して尼になるか自ら命を絶つしかありません。武家に生まれた以上は家の存続を第一に考えなければならなかったのです。

そして、徳川家との縁を結びたい秀吉によって、お江の3度目の結婚が決まります。

3人目の夫は、江戸を本拠地とする徳川家康の嫡男で、後に江戸幕府の2代目将軍となる秀忠でした。


    (お江の3番目の夫徳川秀忠)

将軍生母そして天皇の姑として栄光の晩年

23歳で3度目の結婚をしたお江は、夫秀忠との間に2男5女の7人の子をもうけ、家族睦まじい生活を送ります。

生まれたときから戦に翻弄された不遇な前半生を過ごした彼女にとって、ようやく安らかな日々が訪れたかに見えました。

しかし、1598年に養父秀吉が亡くなると、その後継をめぐって再び戦が起こります。秀吉の死後、天下統一の機運を掴んだ家康は、主君豊臣家を差し置いて独自の政を始めます。1600年の関ヶ原の戦いで勝利を治めた家康は1603年に征夷大将軍となって江戸幕府を開きます。1605年に夫の秀忠が家康の跡を継いで将軍職に就いたことで、お江は将軍御台所として江戸城の奥の頂点となりました。

一方で、この出来事により、お江は自分の意図とは関係なく豊臣家に嫁いだ長姉々茶々と対立関係になってしまうのです。秀吉の死と関ケ原の合戦によって領地の大部分を失い、臣下の大名たちが徳川家への恭順を示していました。さらに後継の秀頼がまだ年若かったことから豊臣家は弱体化しており、大坂冬の陣と夏の陣の合戦で豊臣家は滅亡します。長姉の茶々はこの大坂の陣息子秀頼とともに自害しました。

姉を亡くした悲しみはあるものの、徳川幕府が天下の覇者となってから、御台所であるお江の地位はゆるぎないものとなります。1605年にはのちに3代将軍となる家光を生み、将軍生母となりました。

1620年に、五女の和姫が和子と改名し、後水尾天皇の女御として入内したことでお江天皇の姑となります。和子の入内は天皇家と縁を結びたかった家康や秀忠の悲願でもありました。和子の産んだ興子内親王が明正天皇となったことからお江最終的には天皇の祖母となるのです。

お江の産んだ嫡男家光将軍職を継ぎ、娘たちも前田家、越前松平家、京極家といった大大名家に嫁ぎ、徳川家と幕府の盤石な基盤を作ることに貢献しました。

こうして、お江は不遇な少女時代や短命に終わった二度の結婚生活を糧にして徳川家を影ながら盛りたてることに貢献しました。

波乱の生涯を送ったお江1626年に54才でその生涯を閉じます。死後に娘婿である後水尾天皇から従一位の位階を贈られました。

エピソード

お江の前半生は、生年や結婚した年が正確に分かっておらず、謎に包まれています。

徳川秀忠に嫁ぎ、江戸幕府の将軍御台所となってからは彼女に関するエピソードが多く語られるようになりました。

一部のエピソードは、現在まで語り継がれ大河ドラマや小説にも採用されています。

江戸幕府将軍の正室で唯一の将軍生母

1603年に徳川家康が江戸幕府を開いてから、約260年に渡って徳川家の時代が続きました。

継室(嫁いでから早く亡くなった正室の後添えとして新たに迎えられた正室)も入れると約20人いる将軍正室のうち、将軍生母となったのはお江だけなのです。


  (お江が産んだ江戸幕府3代将軍徳川家光)

お江の産んだ3代将軍家光の時代から、大奥の制度が本格的に動き出し、将軍の正室には格式が求められ、皇室や公家から将軍御台所を迎える慣習が出来上がります。一説によると、公家が幕府に介入することがないよう公家の血を引く将軍を産ませないための措置で正室との間に世継ぎの男児が産まれないように管理されていたとも考えられています。

お江の時代にはまだ大奥制度が確立されておらず、また2度の不幸な結婚を味わった彼女は「今度こそ世継ぎを産んで婚家を守り立てる」と固く決意したのかもしれませんね。

天皇の祖先として現在にもその血筋を残している

天皇陛下といえば言わずと知れた日本国の象徴ですよね。実は、お江現在の天皇陛下の祖先に当たるのです。

お江と2番目の夫豊臣秀勝との間に生まれた完子は、お江が徳川家に再嫁するのに伴い伯母である茶々の養女となり、公家の九条幸家に嫁ぎます。

完子と幸家の次男・九条道房の子孫である九条道孝の四女節子(さだこ)大正天皇の妃(貞明皇后)となったことから、その子孫である今上天皇にもお江の血筋が受け継がれているのです。


(九条道房。お江が2番目の夫秀勝との間に産んだ完子の次男。お江には孫にあたる)

嫉妬深い恐妻説は本当か?

大河ドラマや大奥をテーマにした作品では、お江はしばしば嫉妬深い鬼嫁のような描写をされていることが多いです。これは、彼女が高貴な家柄の出であることや、夫の秀忠より6歳年上だったことで、気弱な年下の夫を尻に敷いていたのではないか?と考える人が多かったからです。

その根拠として上げられるのが、秀忠に正式な側室がいなかったこと秀忠が側室を持てなかったのは、嫉妬深いお江が原因だったと解釈されるケースが多いのです。

しかし、お江嫉妬深かったと記述のある資料は1つだけしか存在せず、その信憑性は薄いです。その資料はお江に近い徳川家や江戸城奥御殿の記録ではなく、秀忠の妾・静によって書かれたものです。秀忠の子を産みますが、正式に側室として迎えられておらず、また大工の娘という身分からお江と顔を合わせたことがあるとは考えにくいです。


(秀忠の落胤の子、保科正之。すでに家光が誕生していたため保科家に養子に出された)

直接会ったこともないのに「あの人は嫉妬深い」と言われても、にわかには信じがたいですよね。
そもそも側室とは世継ぎを設けるために迎えるもの秀忠にはすでにお江との間に世継ぎが生まれていたため、わざわざ側室を迎える必要がなかったとも考えられます。

政略結婚とはいえ、7人の子を設け、さらに生家である浅井家の菩提寺が火事で消失した際にはその再建を許されていることから、秀忠お江側室が必要ないほどくらい良好な関係を築けていたのではないでしょうか。

家光を冷遇したのは本当か?

お江について知られるエピソードでもう一つ有名なのが、二人の息子のうち、兄の家光を冷遇し、弟の忠長を可愛がったという逸話です。お江は2人の男児を産みますが、病弱な長男の家光に冷たく接し、利発な次男の忠長を溺愛した話は有名で、ドラマや小説でも多く描かれています。

実際には、お江が忠長だけをかわいがり、家光を冷遇したという記録が残っている資料は存在しません江戸時代の家伝・系譜を示した書物『藩翰請(はんかんふ)』には、兄弟差別についての記述が見当たりますが、忠長をひいきし家光に冷たくしたのはお江ではなく秀忠の方だったと書かれています。


(『藩翰譜』 秀忠が家光を冷遇し忠長を寵愛したという記述がある)

「お江が忠長をかわいがり家光は冷遇した」というエピソードは、偏見やゴシップに過ぎず、お江と対立関係にあったり、お江に悪意を持つ人物が彼女のイメージダウンのために作為的に流した噂に過ぎないのです。

徳川将軍15代 その正室・側室含めて、火葬になったのは、お江与だけ

徳川将軍家で火葬にされたのは極めて異例と言われています。徳川将軍15代 その正室・側室含めても、火葬になったのは、お江与だけでした。

お江与は、寛永3年9月15日に亡くなり、18日に増上寺。麻布我善坊に荼毘所がもうけられ、増上寺から、荼毘所までは、白布などがひかれたりするなど、盛大だったといわれています。

当時の火葬は、大量の薪を使い、時間をかけて焼くもので、コストがかかったそうです。
はやり病などの死体などは、火葬にしていたと言われていますが、数人を一度に火葬するなどの方法でした。当時は高貴な人物は土葬が主流で、火葬が本格的になったのは明治時代からでした。

そのため、毒殺による証拠隠滅火葬説のほか、本人希望説なども言われています。本人希望説が、どこまで信憑性があるのかは不明ですが、徳川将軍家で火葬というのは、極めて異例でした。そのため、毒殺証拠隠滅説が言われていると思われます。本人希望説と言われているのも、毒殺犯が遺体をそのままにしておくと死因がバレてしまうので、「御台様の希望です」ということにして、火葬に仕向けた・・などの可能性もあると思われます。
真相は、謎のままです。

まとめ

お江浅井長政の三女で「浅井三姉妹」の一人として知られている戦国時代の女性。

・戦に翻弄され、3度の結婚を命じられるが、江戸幕府将軍御台所として江戸城の女性のトップに立ち、将軍生母、最終的には天皇の外戚という地位にまで登りつめた。

徳川将軍正室の中で将軍生母となったのはお江だけである。

・2番目の夫との間に授かった娘の子孫が大正天皇の妃となったことで、お江の血筋は現在の天皇陛下にまで受け継がれている

嫉妬深く、長男家光に冷たかったというエピソードが有名だが、信憑性の高い資料が存在せず、創作されたイメージの可能性が高い。

>>「江~姫たちの戦国~」(全話配信)を見る

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