柴田勝家の強さはどれくらいすごい?最強の伝説や逸話とは

柴田勝家といえば織田信長の家臣として有名な武将ですが、最初は織田信長の家臣ではなく信長の弟・織田信行の家臣でした。

さらに、織田信長を当主から引きずり下ろすため織田信行と謀反を起こしました。

この謀反は失敗するものの柴田勝家は信長に許され信長の家臣となり天下統一への道を助けます。

織田信長の家臣として多くの戦で多くの功績を残しましたが、信長亡き後は羽柴秀吉に敗れて最後を迎えました。

今回は柴田勝家について

  • 柴田勝家の代表的な戦とは
  • 【逸話】柴田勝家の勝ち戦と負け戦は?
  • 【最強伝説】柴田勝家の強さはどれくらい?

を紹介します。

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柴田勝家の代表的な戦とは

柴田勝家の代表的な戦い1.稲生(いのう)の戦い

この戦いは弘治2年(1556年)8月24日に現在の愛知県名古屋市西区で織田信長と織田信行の兄弟間で起こった戦いです。

稲生原古戦場跡(愛知県名古屋市西区名塚1丁目庚申塚)。中央奥は林通具十三代目子孫らが建立した稲生原合戦戦没者供養塔。

稲生の戦い - Wikipedia

天文20年(1551年)に信長と信行の父・織田信秀が急死すると、嫡男で織田信長が後を継ぎます。

後を継いだ織田信長は尾張統一のために動きますが、信長は普段の行いが悪く周りからは「うつけ者」と呼ばれ不満を持っていた家臣がいました。

柴田勝家もその一人で林秀貞らとともに織田信行を当主にするために謀反を起こします。

そして、両軍は稲生で激突します。

織田信長軍700人に対して織田信行軍は1700人と勝っていました。

序盤は柴田勝家の活躍もあり信行軍が優勢でしたが、信長軍の森勢の奮戦で巻き返した上に織田信長の姿を見た信行軍の兵は戦意喪失し逃げていきました。

この時、織田信長は大声を出して戦いこの声に信行軍の兵は恐れて逃げたと言われています(宣教師ルイスフロイスが書いた『フロイス日本史』に信長は大声の持ち主だったと書かれている)。

戦いは織田信長の勝利となり、戦後は二人の母親である土田御前の助命嘆願で柴田勝家と織田信行は助けられます。

命を助けて貰った柴田勝家は織田信長に敬服し忠誠を誓いました。

そして、弘治3年(1557年)に織田信行が再び謀反を企てた際には、柴田勝家が織田信長へ密告し、信行は同年11月に信長の見舞いに来た際に殺されました。

柴田勝家の代表的な戦い2.手取川の戦い

この戦いは天正5年(1577年)に織田軍を率いた柴田勝家と上杉謙信が加賀国の手取川を舞台に戦った戦いです。

手取川

手取川の戦い - Wikipedia

天正5年(1577年)閏7月に能登国の守護・畠山氏の居城・七尾城が上杉謙信の侵攻によって包囲されてしまいます。

当時の畠山氏は当主の春王丸が病死していたことから、ナンバー2の長続連(ちょうつぐつら)が指揮をし織田信長へ援軍の要請をします。

織田信長は同年8月に柴田勝家を総大将として滝川一益や羽柴秀吉など約4万人の援軍を送ります。

しかし、織田軍が到着する前の同年9月15日に長続連に不満を持った遊佐続光や温井景隆の謀反によって長一族が殺され七尾城は陥落します。

一方、七尾城の陥落を知らない織田軍は手取川を越えたところまで進軍します。

しかし、柴田勝家と羽柴秀吉の不仲から秀吉が勝手に陣を離れてしまい織田軍の統率は乱れてしまいます。

そこへ七尾城陥落の知らせが来ると柴田勝家は撤退を開始します。

織田軍が撤退していると突如として上杉軍が襲撃してきます。

上杉軍が追撃してきたことで織田軍は混乱してしまいます。

さらに、進軍の際に手取川を渡っていたことで退却時に雨で増水した手取川を渡らなくてはいけませんでした。

そのため増水した川で多くの兵が死んでしまいます。

【逸話】柴田勝家の勝ち戦と負け戦は?

柴田勝家の勝ち戦:魚津城の戦い

この戦いは天正10年(1582年)3月から6月にかけて越中国魚津城を巡って、柴田勝家を総大将とする織田軍と上杉軍との間で起こった戦いです。

魚津城跡

魚津城の戦い - Wikipedia

天正4年(1576年)に柴田勝家は織田信長から北陸方面軍司令官に任命され北陸地方を平定されるように命じられます。

しかし、越後国の上杉謙信によって天正5年(1577年)9月23日に織田軍は大敗してしまいます(手取川の戦い)が天正6年(1578年)に上杉謙信が亡くなると織田軍は越中国へ侵攻します。

また、柴田勝家は天正8年(1580年)中には加賀国を平定し能登国にも進軍します。

そして、天正10年(1582年)3月には柴田勝家が越中国の上杉方の城である魚津城を包囲します。

両軍の兵力は

  • 織田軍は約4万人
  • 上杉軍は約4千人

と柴田勝家が率いた織田軍は上杉軍の10倍もありました。

当時の上杉家の当主は上杉景勝で謙信亡き後に上杉景虎との後継者争いで勝ったばかりでした(御館の乱)。

上杉軍は西の柴田勝家以外にも信濃国(長野県)の織田軍や北越後の新発田軍からも牽制され兵を分散できないでいました。

そのため、柴田勝家は同年5月には魚津城の二の丸まで落とします。

また、信濃からは森長可、上野(群馬県)からは滝川一益が越後に侵入します。

圧倒的に有利の状況の中、柴田勝家は3ヶ月後の天正10年(1582年)6月3日に魚津城を落とします。

この時、魚津城を守っていた13人の名のある武将が自害しました。

柴田勝家の指揮のもと織田軍は魚津城を落としましたが、余韻に浸っていた柴田勝家のもとに織田信長が本能寺で亡くなったという知らせが届きます。

柴田勝家は直ちに撤退の命令を出しますが、織田信長死の知らせは上杉方にも伝わっていたため、柴田勝家は上杉への対応をせざる終えない状況になります。

結局、柴田勝家が北ノ庄城へ撤退し、近江へ出陣した同年6月18にはすでに羽柴秀吉が明智光秀を討った後でした。

魚津城を落とした柴田勝家でしたが、この戦いによって柴田勝家は清洲会議や賤ヶ岳の戦い

え羽柴秀吉に敗れてしまうことになります。

柴田勝家の負け戦:賤ヶ岳の戦い

~賤ヶ岳の戦いまで~

この戦いは天正11年(1583年)に近江国伊香郡(滋賀県長浜市)の賤ヶ岳付近で柴田勝家と羽柴秀吉の間で起こった戦いです。

賤ヶ岳山頂と余呉湖(よごこ)

賤ヶ岳の戦い - Wikipedia

天正10年(1582年)に本能寺の変で織田信長が亡くなると、織田家の家臣は分裂してしまいます。

中でも、織田家の筆頭家老(家老:家臣のトップ、筆頭家老は家老の中の最高位)であった柴田勝家と信長を討った張本人明智光秀を討った羽柴秀吉を中心に織田家臣は分かれ対立します。

織田家の後継者選びと織田政権の運営を話し合った清洲会議(同年6月27日)では羽柴秀吉の意見(信長の後継者は信長の孫・三法師、勝家は信長3男の信孝を擁立を)が通り柴田勝家は敗れてしまいます。

清洲会議の後に柴田勝家は越前国の本拠・北ノ庄城へ戻り味方集めを始めます。

柴田勝家は与力の佐久間盛政や前田利家の他に

  • 織田信孝 → 信長の3男 三法師とともに岐阜城にいる
  • 滝川一益 → 信長の家臣 対北条のため清洲会議に参加できず

らと手を結び、他にも四国の長宗我部氏や雑賀衆(さいかしゅう)を味方に引き込み秀吉の背後から牽制します。

同年11月になると越前国にいた柴田勝家は雪の影響で行動を制限されたこともあって、秀吉と和平交渉を行います。

しかし、秀吉はこの期間を狙って畿内の諸将に人質を送らせ畿内を固めます。

そして、先に動いたのは羽柴秀吉でした。

羽柴秀吉は

  • 12月2日、柴田勝家の養子・柴田勝豊が籠もる長浜城を降伏させる
  • 12月20日、岐阜城の織田信孝を攻撃し降伏させる

雪で動けなかった柴田勝家は年が明けた天正11年(1583年)2月末に近江国に出陣します。

そして、両軍は3月19日までに賤ヶ岳周辺に着陣します。

両軍の兵力は

  • 柴田軍が3万人
  • 羽柴軍が5万人

と柴田軍は劣勢でした。

~賤ヶ岳本戦~

戦が始まったのは天正11年(1583年)4月16日のことでした。

羽柴秀吉に降伏していた岐阜城の織田信孝が伊勢国(三重県)にいた滝川一益と結んで挙兵します。

北近江にいた柴田勝家は羽柴秀吉を近江・美濃・伊勢の三方面から囲む形をとることができました。

羽柴秀吉は織田信孝を討つために4月17日に出陣し大垣城(岐阜県大垣市)に入ります。

秀吉が賤ヶ岳からいなくなったことを好機とみた柴田勝家は、家臣の佐久間盛政に羽柴方であった中川清秀の大岩山城を攻撃させ陥落させます(清秀は討ち死)

その後、佐久間盛政の部隊は

  • 岩崎山の高山右近を攻撃
  • 木ノ本の羽柴秀長を攻撃

し、敵陣深くまで進軍します。

柴田勝家は佐久間盛政の成果を見て撤退を命じますが、佐久間盛政は撤退しようとせず同年4月20日に桑山重晴の賤ヶ岳砦近くまで進軍します。

賤ヶ岳砦を攻撃し始めた佐久間盛政でしたが、羽柴方の丹羽長秀(清洲会議の参加者で)の攻撃によって賤ヶ岳砦から撤退します。

さらに同日中に羽柴方の砦陥落を知った羽柴秀吉は織田信孝を攻めるのを止め、賤ヶ岳に向けて軍を反転させます(美濃大返し)。

羽柴秀吉は日が変わった4月21日に前線にいた佐久間盛政を強襲します。

佐久間盛政は奮闘し羽柴秀吉の攻撃を退けます。

その後、羽柴秀吉は佐久間盛政でなく、柴田勝政(勝家の養子で盛政の弟)に攻撃をし、佐久間盛政は勝政を援護する形で羽柴秀吉と佐久間盛政は激突します。

しかし、この激戦の中、柴田軍として参戦し柴田勝家の近くにいた前田利家が突如として戦線離脱します。

これには前田利家が羽柴秀吉から調略を受けていたからだといわれています。

前田利家の戦線離脱によって前田隊と対峙していた敵部隊が柴田勝家の陣に攻め込んできたため士気が落ちてしまいます。

また、後方での混乱によって前線にいた佐久間隊も士気が下がり柴田軍は崩れます。

柴田勝家は本拠の北ノ庄城へ戻りますが、同年4月23日に前田利家を先鋒とする羽柴軍に包囲され正室のお市の方らとともに自害します。

一方、織田信孝は兄の織田信雄に岐阜城を包囲され降伏後に自害し、滝川一益は降伏後に出家します。

【最強伝説】柴田勝家の強さはどれくらい?

柴田勝家の強さと言えば戦場での活躍でしょう。

柴田勝家は「鬼柴田」や「かかれ柴田」の異名があります。

柴田勝家は最初は織田信長の弟・織田信行に仕え信長に謀反を起こしましたが、信長に許されると織田信長の家臣として活躍し、本能寺の変が起こるまでは織田家臣の中では1番上だったと言えます。

しかし、織田信長亡き後は羽柴秀吉に敗れ、信長の死から1年もしないうちに勝家自身も自害してしまいます。

ここでは、織田信長亡き後の柴田勝家と羽柴秀吉の差について紹介し、なぜ柴田勝家が負けたのかを紹介します。

~明智光秀を討つ~

まず、明智光秀を討ったことが羽柴秀吉にとっては大きな武器となります。

本能寺の変が起きた当時、

  • 柴田勝家は越中国で上杉と戦い
  • 羽柴秀吉は越中国で毛利と戦い

と、本能寺の変が起きた京都からは大体同じ距離にいました。

当時は情報を得ることが勝利するためには1番大事なものでした。

明智光秀は各地(反信長勢力:毛利や上杉など)に信長死の知らせを送りますが、毛利のところへいった使者が羽柴秀吉の陣にいってしまったことで、秀吉は信長の死を知ります。

こればかりは羽柴秀吉が運が良かったとしか言い様がありませんが、秀吉が勝家に1歩リードしたのは交渉術でしょう。

秀吉は巧みな交渉術で毛利に信長の死が悟られないようし(毛利は)、信長の死を知った翌日(6月4日)には帰還し6月13日の山崎の戦いで明智光秀を討ちます。

一方の柴田勝家は撤退の準備をしますが信長の死を知った上杉の反撃に合い、近江に出陣したのは山崎の戦いから4日後のことでした。

柴田勝家は最初の勝負を落としてしまう形となります。

~清洲会議での後継者選び~

山崎の戦い後に柴田勝家や羽柴秀吉ら4人の織田家家臣(他には丹羽長秀・池田恒興)によって織田後継者と旧織田領の配分を決める清洲会議が開かれます。

ここで挽回したい柴田勝家は、まず、領地配分の際に羽柴秀吉が治めていた近江国長浜城をはじめとする北近江3郡を手に入れます(秀吉は姫路や京都、丹羽長秀は若狭、池田恒興は摂津)。

しかし、後継者選びの際には柴田勝家は信長3男の織田信孝を推しますが、羽柴秀吉が推したのはまだ幼児であった信長の孫・三法師でした。

これは誰がどう見ても三法師の背後で実権を握ろうとした羽柴秀吉の思惑がありますが、明智光秀を討った功績もあり、丹羽長秀は羽柴秀吉に賛同し柴田勝家もこれを吞むほかありませんでした(池田恒興は中立、信孝は三法師の後見役)。

結局、2回目の勝負も柴田勝家は負けてしまいます。

~味方集めと戦略的差~

清洲会議の結果、柴田勝家と羽柴秀吉の対立は決定的なものとなります。

柴田勝家と羽柴秀吉はまず味方を集めるべくそれぞれ動きます。

柴田勝家は伊勢国の滝川一益や岐阜城で三法師を抱え込んでいた織田信孝手、さらに四国の長宗我部氏とも手を結びます。

これによって柴田勝家は羽柴秀吉を北近江・岐阜・伊勢の3方向から羽柴秀吉を囲みます。

しかし、ここで柴田勝家は自ら有利な状況を崩してしまいます。

柴田勝家は11月に入っていたこともあり、本国の越前は雪の季節に入っていたため一旦秀吉と和睦します。

ところが、羽柴秀吉はこの和睦を雪で動けないためだと見抜き、この間に岐阜城の織田信孝と伊勢の滝川一益、さらには長浜城の柴田勝豊を攻撃します。

羽柴秀吉の戦略によって柴田勝家は劣勢となり賤ヶ岳の戦いや北ノ庄城の戦いで敗れることになってしまいます。

~結論~

柴田勝家と羽柴秀吉の決定的な違いは、織田信長亡き後の政権のあり方を目指す方向性の違いでしょう。

柴田勝家は自分自身が実権を握るのではなく、あくまで織田政権を残すことでした。

そのため羽柴秀吉が推した三法師を後継者と認めても織田信孝か後見役として、自らは織田政権の筆頭家老として政権運営できれば良いと思っていたでしょう。

また、三法師を手荒に扱っていた羽柴秀吉を排除するということも目的1つでした。

一方、羽柴秀吉は織田信長の後継者は自分だけだと思い、目的のためなら幼児の三法師を使ってでも実権を握ろうとしました。

その分、柴田勝家よりも先の先を読んだ戦略を考えていたことでしょう。

このことから柴田勝家と羽柴秀吉の決定的な差は目指す方向性の違いといえるでしょう。

まとめ 柴田勝家のおすすめ作品や本。大河ドラマ

ここまで柴田勝家について紹介してきましたがいかがでしたか。

まとめてみると

  • 柴田勝家は元々は織田信長とは敵だった
  • 柴田勝家は上杉謙信と戦って敗れた
  • 柴田勝家は織田政権を残そうとした
  • 柴田勝家は戦略の差で羽柴秀吉に負けた

おすすめ作品

大河ドラマでは

  • 俳優の中尾彬さんが演じた『秀吉』1996年
  • 俳優の松平健さんが演じた『利家とまつ~加賀百万石物語~』2002年
  • 俳優の勝野洋さんが演じた『功名が辻』2006年
  • 俳優の大地康雄さんが演じた『江~姫たちの戦国~』2011年
  • 俳優の近藤芳正さんが演じた『軍師官兵衛』2014年

映画では

  • 俳優の役所広司さんが演じた『清洲会議』2013年

本では

  • 小野之裕さんが書いた『柴田勝家と支えた武将たち』

がオススメです。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

以上、「柴田勝家の強さはどれくらいすごい?最強の伝説や逸話とは」でした。

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