島津義弘という武将をご存知でしょうか?
戦国好きなら1度は聞いたことのある名前でしょう。
「島津四兄弟(義久・義弘・歳久・家久)」の次男として生まれた島津義弘は「鬼島津」の異名で知られ敵から恐れられていました。
また、島津義弘は戦以外の時は人情味あふれる性格だったといわれています。
今回は島津義弘について
- 島津義弘の生い立ちとは?
- 島津義弘の経歴や強さは?
- 島津義弘の人柄や性格の面白いエピソード
を紹介します。
こちらを読めば島津義弘の経歴や性格がわかりますよ
ぜひ読んでみてください。
島津義弘の生い立ちとは?
天文4年7月23日(1535年8月21日)、島津氏第15代当主・島津貴久の次男として薩摩国に生まれます。
幼名は忠平です。
天文23年(1554年)、父・兄弟とともに大隅国の祁答院良重が籠もる岩剣城を攻めます。
これが初陣となりました。
弘治3年(1557年)、大隅国の蒲生氏を攻めた際には初めて敵の首を挙げます。
永禄3年3月19日(1560年4月24日)、日向国の飫肥城(おびじょう)の城主・島津忠親(島津分家)の養子となります。
永禄5年(1562年)、大隅国の肝付氏が飫肥城に攻めてきたため陥落します。
島津義弘は帰還することになり養子縁組もなくなりました。
永禄7年(1564年)、日向国の飯野城城主となります。
永禄9年(1566年)、日向国の戦国大名・伊東義祐が建設中の三ツ山城を攻撃しますが、伊東軍に挟撃され重傷を負いながらも撤退しました。
島津義弘の経歴や強さは?
元亀2年(1571年)、父・島津貴久が亡くなり、兄の島津義久が当主となると、島津義弘は兄を補佐します。
元亀3年(1572年)、木崎原の戦いで島津義弘は3百の兵を率いて、伊東軍の3千に対して奇襲し打ち破ります。
5年後に伊東氏を日向国から追放します。
天正6年(1578年)、豊後国の大友宗麟が日向国に攻めてきた際には、耳川の戦いで奇襲部隊を率い島津軍を勝利に導きました。
天正12年(1585年)、子のいなかった兄・島津義久から家督を譲り島津氏第17代当主となります。
天正13年(1586年)、肥後国の守護代として阿蘇氏を攻め降伏させます。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉が九州平定に乗り出します。
島津義弘は奮戦しますが兵力の差で敗北します(根白坂の戦い)。
その後、兄・島津義久が降伏した際には1度は徹底抗戦を主張するも、説得を受けて降伏します。
天正16年(1588年)、島津義弘は京へ上洛し、豊臣秀吉から羽柴の名字と豊臣の姓を貰います。
天正20年(1592年)、文禄の役(朝鮮出兵)では上手く兵が集まらず「日本一の遅陣」と言われます。
慶長2年(1597年)、慶長の役(朝鮮出兵)
- 7月、漆川梁海戦では朝鮮水軍の将軍・元均を討ち取ります
- 9月、泗川の戦いでは董一元率いる3万の大軍(20万とも)を7千で打ち破ります
- 11月、露梁海戦では明水軍副将・鄧子龍や朝鮮水軍主将・李舜臣を戦死させます
慶長4年(1599年)、豊臣秀吉の死後、島津内部では親豊臣派(島津義弘)と反豊臣(島津義久)との間で対立が起こります。
これによって大坂にいた島津義弘は本国の兵士を動かせませんでした。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの際には西軍として参戦します。
- しかし、手勢が1500程度(諸説あり)であったため西軍内部では軽視されていました。
- 関ヶ原の戦いは小早川秀秋の裏切りで西軍は敗北します。
- 島津隊は中央突破して薩摩に帰還しますがその時の兵は80人ほどでした。
慶長7年(1602年)、島津義久が徳川家康との1年ほどの交渉を経て、島津家は本領安堵を勝ち取ります。
一方、島津義弘は蟄居を命じられ家督を子の島津忠恒に譲ります。
隠居後は若者達の教育に力を入れました。
元和5年7月21日(1619年8月30日)、大隅国の加治木で亡くなりました。享年85歳。
島津義弘が亡くなると13人の家臣が殉死しました。
島津義弘の人柄や性格の面白いエピソード
島津義弘のエピソード1.家臣から慕われていた
島津義弘は家臣に子どもが生まれると、その子を抱えて「子は宝なり」と言い子の誕生を祝し喜んだと言います。
また、元服した者に対して、父の手柄が良ければ「父以上に良い働きをするだろう」と言い、そうでない者には「父よりも勝っているから頑張るのだ」と、一人一人に声を掛けていました。
さらに、島津義弘は家臣に対して殉死禁止令を出していました。しかし、自身が亡くなると13人の家臣が殉死したといいます。
島津義弘のエピソード2.愛妻家
島津義弘が朝鮮に滞在している間、家族に対して多くの手紙を送っていました。
手紙の中には妻に対して、「もし自分が死んだら子どものために強く生きて欲しい。そうしてくれることが、1万部のお経を詠んでくれるより嬉しい」という内容でした。
島津義弘のエピソード3.猫
島津義弘は慶長の役の際に猫を7匹戦場に連れて行ったと言われています。
理由は、猫の目は明るいところでは細くなり、暗いところでは丸くなるという特性から、時刻を読み取ったと言われています。
帰国したのは7匹のうち2匹だけで、この2匹を祀った神社が鹿児島県の仙厳園にある「猫神神社」です。
島津義弘のエピソード4.息子思い
島津義弘には忠恒という息子がいました。
忠恒は島津義弘の後を継ぎ島津氏第18代当主並びに薩摩藩初代藩主となります。
徳川家康によって江戸幕府が開かれると、忠恒は江戸に行くことになります。
その時、島津義弘は忠恒に対して
- 「江戸からの帰り道では寄り道するな」、
- 「上方武士の真似はせず田舎者らしくしろ」、
- 「酒を飲み過ぎるな」
という息子を心配した手紙を出します。
島津義弘のエピソード5.医術に精通していた
島津義弘は医術にも精通していたと言われています。
- 兵士が戦で傷を負うと義弘自ら手当てし、また家臣に医術を伝授しました。
- 心肺停止した兵士には蘇生措置を行ったと言われています。
- さらに、家臣の妻が臨月を迎えると、妊婦の生活の仕方などを書いた手紙を送りました。
まとめ 島津義弘はどんな人?分かりやすいおすすめ作品
ここまで島津義弘について紹介してきました。
まとめてみると
- 島津義弘は次男として兄・島津義久を支えた
- 島津義弘は戦では多くの功績を残した
- 島津義弘は家族思いだった
- 島津義弘は家臣も家族同然と思っていた
島津義弘は「鬼島津」の異名で知られ戦場では恐れられていましたが、実際は家族や家臣に
対して優しく、家族思いで人情味あふれる性格でした。
島津軍の戦術で「捨て奸」というものがあります。
- 「捨て奸」は関ヶ原からの撤退戦が有名です。
- この戦術によって島津義弘の甥や多くの将兵が戦死します。
- これも島津義弘の性格に対する家臣達の忠誠心がそうさせたのではないでしょうか。
オススメ作品
大河ドラマは無いですが、戦国ファンとしては島津義弘や島津四兄弟の大河ドラマは見たいでいすね。
本では
- 戦国歴史研究会の『島津義弘ー慈悲深き鬼(戦国闘将伝)』
がオススメです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
以上、「島津義弘の生い立ちと経歴は?性格やエピソードが面白い!」でした。
コメント