加藤清正という武将をご存知でしょうか?
加藤清正は豊臣秀吉の側近として活躍した人物です。
また熊本城を築城するなど戦以外の分野においても多くの活躍をしました。
今回は加藤清正について
- 加藤清正の代表的な戦とは
- 【逸話】加藤清正の勝ち戦と負け戦は?
- 【最強伝説】加藤清正の強さはどれくらい?
を紹介します。
加藤清正の代表的な戦いとは
今回は朝鮮征伐の文禄の役について紹介します。
文禄の役は加藤清正にとっては初めての大軍を率いて参戦した戦いでした。
天正18年(1590年)に天下を統一した豊臣秀吉は中国・明帝国を征服するために、明の冊封国(従属関係)であった朝鮮国(李氏朝鮮)を攻めます。
加藤清正も朝鮮征伐に参戦します。
日本軍は宇喜多秀家を総大将に約15万人の兵を6つに分けます。
加藤清正は第2番隊の主将として約2万の兵を率いることになりました。
加藤清正は4月17日に釜山(プサン)へ上陸すると、第1番隊の小西行長と競うように朝鮮国の首都である漢城(現在のソウル)を目指し5月3日に落とします。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bunrokunoeki_shinro.JPG
漢城攻略後は
- 第1番隊(小西勢)と第3番隊(黒田勢)とともに北上
- 5月18日 臨津江(りんしんこう)の戦いで朝鮮軍を破る
- 7月17日 海汀倉(かいていそう)の戦いで朝鮮軍を破る
- 朝鮮八道の1つである咸鏡道(かんきょうどう、朝鮮半島北部)を平定
- 朝鮮国の王子2人を捕虜とする
咸鏡道を平定した加藤清正は朝鮮国平定に時間をかけるべきではないと考え、豊臣秀吉の目標である明国への早期の進撃を訴えます。
しかし、他の隊は朝鮮国平定に時間を費やしたために朝鮮軍に明軍が加勢すると日本軍は進撃を停止します。
加藤清正率いる第2番隊は北上し朝鮮国と満州の国境である豆満江(とうまんこう)を越えオランカイまで進軍しますが、明への進路から外れていたため引き上げます。
さらに、日本軍がいなくなった咸鏡北道では朝鮮人が決起したため、これを撃破するものの咸鏡道を放棄し漢城に入ります。
明軍の参戦によりこれ以上の進軍は無理と判断した日本軍は朝鮮半島南部を平定するために慶尚道と全羅道の制圧を図ります。
文禄2年(1593年)、日本軍は慶尚道にある晋州城を攻撃します(第2次晋州城の戦い)。
加藤勢は晋州城の北方から攻め、加藤清正の配下が一番乗りする(黒田勢と競う)活躍を見せわずか8日で晋州城を落とします。
この後に日本軍と明軍の間で本格的な和平交渉が行われましたが、この交渉は豊臣秀吉の目標であった明国征服に反することだと考えた加藤清正は和平を結ぼうとしていた小西行長と対立します。
加藤清正が交渉の邪魔だと考えた小西行長は豊臣秀吉に対して、加藤清正の勝手な行動を報告し、さらに石田三成の賛成もあり、加藤清正は京に戻されてしまいます。
これ以降、日本軍と明・朝鮮軍は懇着状態となります。
【逸話】加藤清正の勝ち戦と負け戦は?
加藤清正の勝ち戦:賤ヶ岳の戦い
この戦いは天正11年(1583年)に近江国伊香郡(現在の滋賀県長浜市)の賤ヶ岳(しずがたけ)付近で行われた羽柴秀吉と柴田勝家の戦いです。
賤ヶ岳の戦いまでの経緯としては
- 天正10年(1582年)6月20日、本能寺の変で織田信長が亡くなる
- 同年6月13日、羽柴秀吉の中国大返しに従い山崎の戦いで明智光秀を破る
- 同年6月27日、織田家の後継者選ぶための会議・清洲会議が開かれる
この会議で三法師(信長の孫、父も信忠は本能寺の変で戦死)が後継者となり、まだ幼少だったことから羽柴秀吉や柴田勝家など(他に2人)の計4人での合議制(話し合い)が決まる
- 羽柴秀吉が三法師がいるにも関わらず次第に天下への野望を見せ始めると柴田勝家の反感をかうようになる
- 両者は周辺の勢力を味方に引き入れる動きを見せ次第に対立していく
- 同年12月、羽柴秀吉が柴田勝豊(勝家の養子)の長浜城を降伏させる
- 同年12月20日、羽柴秀吉が織田信孝の岐阜城を攻撃し降伏させる
- 柴田勝家は越前(福井県)にいたが雪のため出陣できず、天正11年2月にようやく出陣し近江(滋賀県)へ進軍する
そして、天正11年4月に両軍は激突します。
両軍の兵力は
- 羽柴軍が約5万人
- 柴田軍が約3万人
と羽柴軍が優勢でしたが、羽柴秀吉は油断せず賤ヶ岳周辺の山に陣を構えるなどしっかりと準備をしていました。
しかし、同年4月16日に降伏していたはずの織田信孝が岐阜城で挙兵します。
羽柴秀吉は大軍を率いて織田信孝の討伐に向かいますが、この隙をついて柴田勝家の家臣で甥の佐久間盛政が賤ヶ岳付近の余呉湖(よごこ、琵琶湖のとなりにある湖)に残っていた羽柴軍を襲撃します。
この襲撃によって羽柴家臣の中川清秀が戦死するなどの被害を受けてしまいます。
同年4月21日、佐久間勢の襲撃を知った羽柴秀吉はすぐさま引き返し、柴田勝家の命令を無視して進軍していた佐久間盛政を襲撃します(美濃大返し)。
この美濃大返しの途中に加藤清正は馬から落ちてしまいます。
しかし、加藤清正は走って戦場に向かったといわれています。
羽柴軍は次々と柴田軍を倒していき、加藤清正も柴田家臣の山路正国を討ち取る活躍を見せます。
そして、柴田軍に参戦していた前田利家が突如として戦場から退くと、柴田勝家は撤退します。
この戦いで活躍した加藤清正は「賤ヶ岳の七本槍」の1人に数えられました。
加藤清正の負け戦:朝鮮征伐 慶長の役
文禄2年(1593年)に日本軍と明軍の間で和平交渉が行われ休戦状態になった朝鮮征伐(文禄の役)ですが、交渉が決裂すると豊臣秀吉は再び朝鮮征伐に動きます(慶長の役)。
両軍の兵力は
- 日本軍が約14万人
- 明・朝鮮連合軍が約9万人
で加藤清正は1万の兵を率いました。
慶長2年(1597年)に侵攻を開始した日本軍はまず全羅道を平定し、その後、忠清道へ進撃することを目標にしました。
日本軍は左軍と右軍に分け全羅道へ侵攻します。
加藤清正は右軍の先鋒となります。
加藤清正は
- 慶長2年(1597年)8月16日までに慶尚道にある黄石山城(こうせきさんじょう)を落とし、その後、全羅道の道都・全州を占領する
- 忠清道の鎮川郡(チンチョンぐん)まで進軍し当初の目標を達成する
- 日本軍は朝鮮半島南部の守りを強化するため一時撤退し、加藤清正は慶尚道南東部の蔚山(ウルサン)に入る
- 加藤清正は蔚山倭城(倭城とは日本式の城)と西生浦倭城(ソセンポわじょう、蔚山にある倭城)の守備を担当する
慶長2年(1597年)12月に加藤清正が守備を担当していた蔚山倭城に約5万人の明・朝鮮連合軍が攻めてきます(第1次蔚山城の戦い)。
西生浦倭城にいた加藤清正は側近500人とともに蔚山倭城に入ります。
明・朝鮮連合軍約5万人に対して、蔚山倭城の籠城兵は1万人ほどでした。
この時、蔚山倭城は未完成状態であり兵糧も少く、さらに冬であったことから日本軍は苦しい状況でしたが、日本軍の奮戦により多数の死傷者を出した明・朝鮮連合軍は和睦交渉(城を開城すれば和睦するという条件)に作戦を変えます。
加藤清正は開城には応じませんでしたが、捕虜交換の交渉に応じます。
この交渉は結果的に日本軍の援軍到着までの時間稼ぎとなり、籠城開始から10日後に援軍が到着すると日本軍が勝利しました。
しかし、慶長3年(1598年)に8月に豊臣秀吉が亡くなると日本軍は撤退を開始し、加藤清正も蔚山城からの撤退を準備します。
日本軍の撤退に対して明・朝鮮連合軍が南下し加藤清正が守っていた蔚山城に侵攻してきます(第2次蔚山城の戦い)。
加藤清正は1万の兵で3万近い敵軍を打ち破りました。
この後の同年11月に日本軍は完全に日本へ撤退し朝鮮征伐は終わりました。
加藤清正は劣勢の中でも敵を打ち破る活躍を見せましたが、朝鮮征伐は失敗に終わったため、日本側が負けとなりました。
【最強伝説】加藤清正の強さはどれくらい?
加藤清正の強さ1.勇猛な指揮官
加藤清正は若い頃から豊臣秀吉の側近として活躍し、中国征伐・山崎の戦い・賤ヶ岳の戦いでは前線で戦っていました。
そのため、朝鮮征伐では1万人の兵を率い初めて指揮官として参戦しますが、自ら前線で戦い敵兵を倒したり城を落とすなどの活躍を見せます。
特に第1次蔚山城の戦いの際には援軍が到着すると5倍もの敵に対して突撃していき、蔚山城を守り守り抜きました。
この姿を見た援軍を率いていた鍋島直茂からは「鬼神の天より降るが如し」と讃えられ、朝鮮の人たちからは「鬼(幽霊)上官」と呼ばれ恐れられました。
また、幕末に登場する新撰組局長・近藤勇からも尊敬されていました。
加藤清正の強さ2.戦場での観察力
加藤清正は戦場では勇猛に戦いましたが、冷静さを忘れず敵の動きを観察し状況判断をしていました。
文禄の役の際に加藤清正が漢江(かんこう、河川)のほとりに陣を構えますが、対岸に敵軍の船や旗があったため様子を見ていましたが、水鳥が優雅に泳いでいるを見てこれは偽の陣だと言い、部下を送ったところ偽の陣でした。
蔚山城の戦いの際には包囲していた敵軍が急に退いたため籠城していた兵が追撃を進言しますが、敵に殿軍がいないことからこれは罠だと見抜き追撃をさせませんでした。
これらの冷静な判断は加藤清正の強さの1つでしょう。
加藤清正の強さ3.攻城兵器
慶長の役での晋州城攻めの際に、加藤清正は「亀甲車(きっこうしゃ)」という兵器を作ります。
これは城からの攻撃から兵士を守るためのものです。
堅い板で箱を作り、屋根の部分を牛革で包み、その上から鉄板で覆います。
これによって城壁近くまで無傷で兵士を運ぶことができました。
まとめ 加藤清正のおすすめ作品や本。大河ドラマ
ここまで加藤清正について紹介してきましたがいかがでしたか。
まとめてみると
- 加藤清正は朝鮮征伐で多くの活躍をした
- 加藤清正は個人だけでなく指揮官としても有能だった
- 加藤清正は猛将であったが冷静な判断もできた
- 加藤清正は兵器の開発も行った
オススメ作品
大河ドラマでは加藤清正が主役のはありませんが、最近の大河ドラマでは新井浩文さんが演じた『真田丸』がオススメです。
本では熊本日日新聞社が書いた『加藤清正の生涯ー古文書が語る実像』がオススメです。
是非読んでみてください。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
以上、「加藤清正の強さはどれくらいすごい?最強の伝説や逸話とは」でした。
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